ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第5主日(2018.3.18)

2018-03-16 06:17:59 | 説教
断想:大斎節第5主日
ギリシャ人の来訪 ヨハネ12:20~33 (2018.3.18)  

<テキスト、私訳>
語り手:さて、過越の祭にはいろいろな人たちが、全国各地からやって来ます。中には外国人もいます。これらの外国人はユダヤ人の生き方や聖書に興味を持ち、ユダヤ人たちの礼拝に参加している人たちもいます。ここにイエスに会いたいというギリシャ人たちがいました。彼らもイエスの噂を聞いて会いたいと思ったのでしょう。どういう理由か分かりませんが、彼らはガリラヤのベッサイダ出身のフィリポを訪ねて、イエスへの取り次ぎを頼みました。

ギリシャ人たち:お忙しいところ、お願いがあります。私たちは過越の祭のために来た旅人ですが、この機会にぜひイエス様にお会いしたいのでお取り次ぎいただけるでしょうか。

語り手:フィリポはギリシャ人たちの申し出を、どうするべきか考えます。時が時ですし、イエスに何か害でも及ばないかと心配して、アンデレに相談いたしました。その結果、取りあえずイエスに相談した方がいいだろうということで、2人でイエスに話しました。それを聞くとイエスは非常に驚いた様子で、緊張し、独白します。

イエス:いよいよ私の時が来た。これから最後の時が始まります。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままですが、死ねば、多くの実を結びます。自分の生命を愛する人はそれを失いますが、この世で自分の生命を憎む人は、それを保って永遠の命に至ります。もしも誰か私に仕えようとする人は、私に従って来ればいい。そして私に仕える人は私のいる所にいることになるでしょう。私に仕える人は、私の父もその人を重んじるでしょう。
今、私の魂は混乱しています。何と言ったらいいのだろうか。父よ、私をこの時から救ってください。いや、いや、そうではない。このために、私はこの時まで生きてきたのだ。父よ、あなたの御名の栄光を現して下さい。

語り手:その時イエスの祈りに合わせるかのように、天からの声が響き渡りました。

天の声:私は既に栄光を現した。さらに栄光を現そう。

語り手:そこに居合わせていた人々は「雷が鳴っている」と言い、また別の人々は「天使がこの人に話しかけている」と言いました。
イエス:あの声は私へのものではありません。あなた方のための声なんです。今こそ、この世が裁かれる時、今こそ、この世の支配者たちが追放されるのです。そして人の子は地上から引き上げられ、すべての人を自分のもとへ引き寄せるでしょう。

語り手:この謎のような言葉は、イエスがどんな死に方をするかを予言したものです。

<以上>

1. ギリシャ人の来訪
福音書の中に「ギリシャ人」が登場するのは珍しい。使徒言行録には「ギリシャ語を話すユダヤ人」(6:1)は登場するが、それはあくまでもユダヤ人である。ギリシャ人がギリシャ人として登場するのは、パウロがアテネに出かけたときぐらいである。
先週のテキストでイエスが5つのパンと2匹の魚で5000人の人を満腹させた奇跡の後、イエスは身を隠したということを述べた。その際、ファリサイ派の下役が必死になってイエスを探したということに触れたが、その記事の中で、どうしてもイエスが見つからないので、ファリサイ派の人々は、まさかイエスは「国外に逃亡してギリシャ人の間の離散しているユダヤ人たちの所へでも行って、いい加減な説教でもしているのか」、ということを述べている(7:35)。要するに、ユダヤ人たちにとって「ギリシャ人」とはユダヤ人にとはまったく異なる人々、無数の偶像を信じ、唯一の神から最も遠く離れた存在であった。イエスがまさか、そんなところに行くはずがないではない、という意味である。

2.ギリシャ世界・ローマ世界・ヘブライ世界
新約聖書はギリシャ語で書かれ、旧約聖書もギリシャ語に翻訳された70人訳を用いている初期の教会の視点から見ると、ギリシャ世界への近親感がかなり顕著であると思われている。何とはなしにイエスもギリシャ語で説教をしておられたかのように錯覚している。確かに私たちはユダヤ人社会とギリシャ人社会とは隣同士のように思っている。新約聖書、特に使徒言行録などでは「ギリシャ語を話す信徒(ヘレニスト)」がしばしば登場する。それはヘレニズム世界に広く分布していたユダヤ人である。ステパノやパウロもこのようなユダヤ人であった。だからイエスの時代のユダヤ人はギリシャ人に対して親近感があるように思い込んでいある。
それと比較すると、ローマ人とヘブライ人とは疎遠な印象を持つ。ローマ人は支配者であり、いわば「敵」であり、そこには親近感はない。しかしイエスの時代のユダヤ人の日常生活において出会う外国人とはローマ人であった。あるいはローマと関係のある外国人である。
ざっくりいうと、日常生活という視点から考えるとヘブライ世界はそのままそっくりローマ世界に呑み込まれているのである。ところが、ギリシャ世界ということになると、遠く離れた全く異なる世界である。それは実際にはギリシャ語を喋っているローマ人にとってもギリシャ世界は一目置いている世界である。
パウロがアテネの町に出かけ、街頭説教をしたが、その話を聞いたギリシャ人たちは、パウロの話に呆れかえって、反論さえしようとしない。ギリシャ人とユダヤ人とでは全く話がかみ合わない(17:32~33)。ローマ人ならまだしも、ギリシャ人はユダヤ人とは全く異質な人々であり、ヘブライ世界とヘレニズム世界とは全く別世界であった。
その意味ではローマ人にとってもギリシャ文化は異質な文化であり、むしろローマにとってはギリシャは先進国であり、ローマ法成立、国家の組織においても多くのことをギリシャに学んでいる。ローマ人にとってギリシャ人はいわば「教師」であり、ローマの裕福な家庭ではギリシャ人を家庭教師として迎え、子弟にギリシャ語を学ばせたといわれている。ましてユダヤ人にとってはギリシャ世界こそ「世界そのもの」だという印象であったんではなかろうか。

3.「わたしの時」
ところが、本日のテキストではギリシャ人の方からイエスの話を聞きたいと言ってやって来たのである。この時のイエスの態度は今までとまったく異なった。イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と答えられたのである。これを聞いた弟子たちは驚いたに違いない。これまでのイエスは常に「わたしの時は未だ」と答えておられた。カナでの結婚式に招かれて、ワインがなくなり招待者たちが困り、母親から何とかしてくれと頼まれたときも、「わたしの時は未だ来ていません」と答えられた(2:4)。また、5000人を5つのパンで満腹させた後、イエスが人目を避けてガリラヤ地方で過ごしておられた頃、イエスの兄弟たちは仮庵の祭が近づいてきたとき、「公に知られようとしながら、ひそかに行動する人はいない」。今こそ、あなたがしようとしている事を「はっきり示しなさい」とそそのかした。これに対してもイエスは「わたしの時は未だ来ていない」と答えておられる(7:6)。そのイエスがなぜ、ギリシャ人がイエスの話を聞きたいとやって来た時に、「わたしの時が来た」と思われたのか。これは謎である。
このことをめぐって、いろいろな学者たちが想像し解釈している。これがギリシャ人以外であればこれは事件でも何でもない。ごく日常的な出来事であろう。問題はやって来たのがギリシャ人であったということである。イエスにとってギリシャ人とは何者であったのだろうか。一般的なユダヤ人のギリシャ人観というものについてはすでに述べた通りであろう。もし、あの時ファリサイ派の下役たちが推測した通りイエスがギリシャ人たちの所に行っていれば、それは「逃避」に過ぎない。しかし、ここでは違う。ギリシャ人の方からイエスの話を聞きに来たのである。少なくともこれらのギリシャ人たちはイエスの生き方や思想に共鳴していたのである。純粋にユダヤ教の地盤から育ってきたイエスがギリシャ人にも共鳴されるものとして受け入れられた。多くの解釈者たちはこのことを重視し、将来生まれてくる世界宗教としてのキリスト教への展開の出発点として見る。つまりイエスの仕事が最終的段階、完成の段階に来たと解釈する。私もその通りだと思う。明かにヨハネが福音書の中でこのエピソードを紹介しているのはその意味であろう。

4. 「栄光を受ける時」
ところで、ここでは「わたしの時」は「栄光を受ける時」と表現されている。弟子たちも、兄弟たちも、また多くの人たちも「この時」を待っていた。この言葉を聞いたとき、弟子たちはどう思ったのだろうか。あまりにも「唐突」でなかろうか。ギリシャ人の来訪という出来事と「栄光を受ける時」との落差は大きい。しかし弟子たちにとってそんな事はどうでもよかった。 人間が重要な決断をするとき、人々はそれにふさわしい「重要な事件」を予想し期待する。しかし重要な決断は不意に向うからやってくる。ところが普通の人にはそれが分からない。しかしイエスは「ギリシャ人がやって来た」というささいな出来事を「時が来た」徴と見た。

5. イエスの独り言
ここから始まるイエスの独り言は重要である。おそらくヨハネ福音書では最も重要な独り言である。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままですが、死ねば、多くの実を結びます。自分の生命を愛する人はそれを失いますが、この世で自分の生命を憎む人は、それを保って永遠の命に至ります」(12:24,25)。
この言葉こそ、イエスの心の中心を示し、イエスの生き方のすべての根底を表現し、キリスト教会が世界に向かって語る最も重要なメッセージである。イエスにとって「栄光を受ける時」とは「命を捨てる」時である。イエスという一人の人間の死が、全人類の救いになる、というメッセージはどんなに説明しても、あるいは説明されても理解できない。しかし、これが事実であり、このことによって教会が生まれ、事実、世界の救いになっているのである。これは「生きる」という私たちにとって「決まりきった生活」において常に真理である。「ここで私が死ななければならないなぁ」、と思う場面は、私たちが生きていく中である。しょっちゅうあると言ってもいいし、一生のうち数回あるといっても言い。そこで「逃げ出す」ことも出来る。「開き直る」ことも出来る。しかし「死ぬ」ことも出来る。誤解のないように付け加えておくが、ここで「死ぬ」ということは、決して「自殺」を意味しない。むしろ、それは「逃避」のひとつの形に過ぎない。むしろ、ここで「死ぬ」ということは「自分を捨てる」という意味である。しばしば、「自分を捨てる」ということと「開き直る」ということが混同されるときもあるが、「自分を捨てる」ということは、そんな誤解も恐れないということでもある。その違いは「多くの実を実らせるか、否か」ということで後で証明される。これを私たちはイエスから学んだのであり、これがキリスト教であり、キリスト者の生き方である。

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