ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第18主日(T20)の福音書

2016-09-17 07:46:06 | 説教
みなさま、
9月もなかばを過ぎ、もうすっかり秋です。体力を強め、視力を強め、読書に励みます。

断想:聖霊降臨後第18主日(T20)の福音書
友だちをつくりなさい  ルカ16:1~13

1. 変な物語
ここで語られている譬え話は、誰が読んでも変な物語である。特に、この物語をイエスが語ったとしたら、どう理解したらいいのか困ってしまう。この物語は他には見られないので、ルカ独自の資料によるのか、あるいはルカが創作したのかであろう。あるいは、時にはとんでもないことを話すイエスのことであるので、もともとはイエスから出たのかとも思えないことはない。想像するに、イエス自身か、あるいはルカか、あるいはルカ以前の誰かが、元々の物語を少し作り替えて、独自のメッセージをもたせたのであろう。おそらく、想像される元々の物語は以下のようなものであったものと思われる。
ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」。管理人は考えた。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」。そこで管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と言った。「油100バトス」と言うと、管理人は言った。「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、50バトスと書き直しなさい」。また別の人には、「あなたは、いくら借りがあるのか」と言った。「小麦100コロス」と言うと、管理人は言った。「これがあなたの証文だ。80コロスと書き直しなさい」。その結果、この管理人の不正がばれて、その職を辞めさせられた。
というのがこの物語の原型で、不正はすぐにばれるものであるという教訓物語であろう。その物語の結論をイエスかあるいは誰かが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(8~9節)という風に差し替えて、現在の形のストーリーにしたのであろう。
この譬えをややこしくているもう一つの理由は、8~9節の差し替えの他にもう一つ教訓の言葉(10~13節)を付け加えているからである。8-9節の「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というメッセージと10~13節の「小さな事に忠実な者は大きな事にも忠実である」という教訓とは一応関係がないと理解した方がスッキリする。

2. 語句の説明
「抜け目のないやり方」という言葉は直訳すると「思慮深い行為」を意味する。「よく考えて上での行為」であり、問題は何を考えたのかということである。「抜け目のない」という言葉と、その直後に出てくる「賢い」とは同じ単語が用いられている。「抜け目のない」という翻訳にはマイナスのイメージがあるが、元々の物語ではマイナスのイメージはない。
「この世の子ら」という表現はラビ文献には見られないもので、「光の子」(ヨハネ12:36,1テサロニケ5:5、エフェソ5:8)と対照される教会用語か。
「自分の仲間に対して」という言葉は、この管理人の賢さは「自分の仲間に対して」であって、その行為の全てが賢い訳ではないという意味であろう。仲間とは同じ立場に立つ者で、この場合、管理人は元来は主人の立場に立って債務者に対していたが、今は債務者の立場に移行していることを意味している。現在の立場を捨てて、将来の立場「永遠の住まい」に立つ。
10~13節は、元来断片的に流布していた「富についての教え」を並べたものといわれ、一応譬え話とは無関係である。(参照:ルカ19:17、マタイ25:21、23)
10~12節では、A:「小さな事」――「不正にまみれた富」――「他人のもの(この世に属するもの)」という系列とB:「大きな事」――「本当に価値あるもの」――「あなた方のもの」という系列とが平行関係にある。そしてこれらを結ぶキイワードが「忠実」である。つまり、A系列のものに忠実でなければB系列においても忠実ではない。
13節は、10~12節の組み合わせから独立し、忠実さの排他的性格を強調する。この言葉はマタイ6:24にも類似の言葉が見られQ資料によるものと思われる。
既に何回も触れているように、イエスに従う者の生き方として「富や財産、所有物についての警告をルカほど多く伝えているものは、他の福音書には見あたらない」(三好迪『旅空に歩むイエス』201頁)。

3. 疑問 この譬は何を語ろうとしているのか?
さて、そこでこの譬えは何を語ろうとしているのであろうか。この管理人のしたことはどう考えても不正である。言い訳の道はない。しかも、それが主人にすぐにばれてしまうような手口では、それほど利口であるとも思えない。しかしこの譬の中では、この管理人は主人から「よく考えた行動である」と褒められている。なぜだろう。最も驚いているのは管理人自身であろう。このことを意外と言わないで、何を意外と言えるのか。思ってもいないことが、主人の口から出てきたのである。上司特有の皮肉であろうか。ところが、そうでもなさそうである。主人は本気で褒めている。
この物語の主人公は、一見不正な管理人の様に思われる。しかし管理人を主人公にしてこの物語を解釈しようとすると、何故「不正が許されるのか」ということが理解できない。この管理人の行動は不正であるかも知れないが、いわば私たちの常識内の出来事である。その意味では、決して褒められるようなことではないが、私たちもそういうことをしかねないことでもある。この物語を管理人に焦点を合わせている限り、この物語は本来「こういう不正なことをしてクビになりそうになった管理人がいたが、彼は辞めるときにもっと不正なことをしてそれがばれたため、監獄に入れられた。不正ということは決して得にならないよ」というそこらに転がっている普通の道徳的な物語である。しかし、その物語の結末を差し替えて、反道徳化したいわばパロディに過ぎない。
しかし重要なことは、差し替えられた結末から読み直すと、この物語の主人公は管理人ではなく、主人の言葉と行動に移る。この物語に固有の意味を与えているのは、主人の「全く意外な言葉」であり、そこにドラマ性の鍵がある。この管理人も、またこれを聞いている弟子たちも、主人の言葉の意外性に驚くのである。本来許されるべき者でないものが、主人の判断によって許され、褒められる。ここに、管理人やこの物語を聞く聴衆たちの価値判断とは全く異なる価値判断が主人と物語の語り手にある。イエスが聞く者たちに判らせたいポイントは、この不正の管理人の行動ではなく、この主人の考え方である。端的に言うと、私たちの全生活を評価するのは人間の常識ではなく、神であり、神側の価値判断が私たちの人生を評価するということにある。

4. 神の目から見て褒められること
主人は管理人の賢さを評価する。しかし、その賢さは一般的な賢さではなく「自分の仲間に対する賢さ」である。ここでいう「仲間」とは主人に対する債務者であり、この不正がばれるまでは管理人とは対立関係にあった。しかし不正がばれた今では管理人は債務者たちと同じ立場に立つ。この管理人のここでの行動は「仲間の変更」である。その変更の仕方が賢い。不正な富であれ、何でもいい、ともかくこの際何を利用しても仲間を変更しなければならない。主人は「この世の子ら」の賢さ(=変わり身の早さ)に感心する。今までの連携の相手は主人であったが、この主人は私の将来を保障してくれない。今、決断すべきことは現在の主人を離れ、将来の仲間と連帯することである。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というメッセージはここにある。
確かに、この物語における「富」は不正にまみれている。まさに「不正による富」である。しかし、この文脈から見ると、ここでいう「不正な富」とは「不正によって得られた富」というよりも、この世の富が全て「不正な富」と考えられている点である。つまり大なり小なり、この世の富は不正にまみれている。従って、ここでの重要なポイントは現世に属する「富」で「永遠の住まいを提供してくれる友」を作れということである。いま生きている、ここでの全ての財産や人間関係を、天国への富みに転換する。この譬えの主眼点はここにある。

5. ごく小さな事、大きな事
この物語の教訓として「ごく小さな事にも忠実な者は、大きな事にも忠実である」(10節)という格言が添えられている。この格言はルカによる福音書ではもう一度第19章でも用いられているが、そこでは「どんなに些細なことでも忠実でなければならない」ということが強調されている。ところが、ここでは単に「些細なことにも忠実であれ」というだけでなく、ごく小さな事を大きな事のために「利用し、役立てること」が強調されている。つまり、永遠の友を得るという大きな目的のために、現在利用できる「不正にまみれた富」でもそれを十分に利用したことが、褒められているのである。

6. 結論
さて、要するにこの不正な管理人は自らの未来のために、現在利用できる自分の能力を最大限に利用したことが主人から褒められた。ところが、多くの人たちは自らの未来を犠牲にして(何の配慮もなく)現在の生活に埋没している。

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