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断想:大斎節第4主日の旧約聖書(2017.3.26)

2017-03-24 08:12:06 | 説教
断想:大斎節第4主日の旧約聖書(2017.3.26)
主は心によって見る  サムエル上16:1~13

<テキスト>
1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
2 サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、
3 いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」
4 サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」
5 「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。
6 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
7 しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
8 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
9 エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」
10 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」
11 サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」
12 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。



1. 大斎節第4主日
伝統的には大斎節第4主日はしばしば「リフレッシュメント・サンデー」と呼ばれてきた。つまり、大斎節の後半の始まりで、一息つくという意味らしい。古い祈祷書では、この大斎節第4主日の福音書はヨハネ6章のいわゆるパンの奇跡の記事が読まれていた。特祷では「全能の神よ、我ら悪しき業によりて罰せられるべき者なれども、あわれみをもって我らを赦し、恵みをもって我らを強め給わんことを、救い主イエス・キリストよりてこいねがい奉る」と祈る。この「我を強め給わんことを」の部分が、英語では「be relived(生き返らせて)」となっている。ところが3年周期の現行の祈祷書ではパンの奇跡を読むのはB年だけで、A年とC年では全く関係がないテキストが読まれる。まぁ、それはそれでいいのであるが、特祷だけは昔のままで「恵み深い父なる神よ、み子は、すべての人のまことの命のパンとなるために、天からこの世に降られました。どうかこの命のパンによってわたしたちを養い、常に主がわたしたちのうちに生き、わたしたちが主のうちに生きられるようにしてください」と祈る。従ってB年はいいがA年やC年では違和感が残る。要するに祈祷書編集委員の手抜きか、見落としであろう。
ともあれ、大斎節第4主日からは大斎節は後半に入り、私たちの意識は十字架と復活とに集中していく。その最初に取り上げられた旧約聖書のテキストが、サムエル記上の16章である。その意味ではなかなか含蓄がある。

2.民はサウロ王に困っていた
イスラエルの最初の王はサウロで、彼が王に選ればれたときには、ヤハウェと預言者サムエルの反対を押し切って、王を求め(8章)、やむを得ずサムエルはヤハウェと相談して、サウロを選び出し王にした。その時の、いきさつは詳しく述べられている(10:22~24)。その時の王としての基準はいかにも王らしい人物ということであったらしい。「こで、主に伺いを立てた。『その人はここに来ているのですか。』主は答えられた。『見よ、彼は荷物の間に隠れている。』人々は走って行き、そこから彼を連れて来た。サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。サムエルは民全体に言った。『見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。』民は全員、喜び叫んで言った。『王様万歳』。
問題はこの「らしさ」である。サウロは見るからに「王らしかった」。それで国民は喜び、万歳と叫んだ。
サウル王も預言者サムエルに対してもまたもヤハウェに対しても、まぁまぁ、うまくやっていた。初めの頃は。しかし、徐々にサウロの本性が出始めるとぎくしゃくし始める。それはサムエルが予告していたように、他民族の王たちが持っている王制の問題である。
国民が他民族のように王を求めたとき、サムエルは王とはこういう存在だよ、と言って次のように述べている。非常に興味深いので少し長いが引用しておく。
「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」(1サムエル8:11~18)
サウロ王はサムエルが予告していたとおりの王になる。普通の人間が権力を持ち始めると、だいたいこういうことになる。初めの頃は素直に自分の任務を忠実に行い、神の祝福を受け、国民からも支持されていたが、即位後数年経つと、堕落し、権力を思うままに使うようになり、預言者サムエルとしばしば対立するようになる。
今日のテキストはまさにそういう状況から始まる。(何か現在の日本の状況に似ているではないか。)

3.サウロ王への失望
本日のテキストはそういう状況のもとで預言者サムエルが新しい王となるべき人物を探す旅に出立し、ダビデという人物を見つけ出し、彼に王としての油を注ぐいきさつが記されている。
王宮でサウル王と一緒に住んでいるサムエルが旅に出るということはサウル王にとって非常に不安なことであった。王がどんなに権力を振るおうと、国民の支持を得ているのは預言者サムエルであり、サムエルの支持があってこそサウルは王として威張っておれたのである。従って、関係がぎくしゃくしている状況において、サムエルが旅に出るということは、非常に不安である。いなくなるという不安ではなく、サムエルが何処に何しに行くのかということが問題である。サムエルもそのことをよく承知している。馬鹿正直に、角に油を入れて、「新しい王を探しに行く」などといえば、たちまち暗殺されるであろう。そこで、神はサムエルに「いけにえをささげに行く」と言え、という。はっきり言って、神は預言者サムエルにサウル王を騙すことを勧める。そして、サムエルはその通りにサウル王を騙すのである。面白い。時には賢く立ち回らなければならないときもある。そのためには嘘もつく。ともかく、こういういきさつでダビデが選ばれ、油が注がれた。

4. いつまで
それはそれでよい。しかし、ここで注目すべき点は、本日のテキストの冒頭に出てくる神の言葉である。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた」(サムエル記上16:1)と主なる神はサムエルに言う。神はサムエルの嘆きを聞き入れ、行動を起こされた。もう、嘆くことはない。この言葉の中に神の強い決意が表明されている。しかし、まだ神の行動の結果は顕わにされていない。ただ、神の意志の中でのみ現実となっている。この時点でもう既に神はダビデを選ばれ、歴史は大きく曲がろうとしている。しかし、そのことについて誰も歴史がどう曲がるのかということは明らかではない。サムエルにさえ、そのことは明らかにされていない。しかし、神の中でははっきりしている。つまり、サムエルは歴史がどのように展開するのか分からないまま、神の御心の実現のために働き始める。
神の御心が決定し、そのために人材が準備され、その御心が歴史の中で、現実的に実現するまでの間、この時間の間が重要である。実現してしまえば、もはや信仰の問題ではない。御心とそれの実現との間が信仰の時である。預言者サムエルが神の言葉を聞いた、この時点では未だ次の王が誰になるのかはサムエルにも分からなかった。しかし、サムエルは神の言葉に従って探しに出かける。その時、サムエルに与えられたヒントは「ベツレヘムのエッサイの元に行け」ということであった。サムエルがエッサイという人物と何らかの関わりがあったとは思えない。エッサイの子ダビデが王になってからこそ、エッサイという人物は有名になったのであって、この時は未だ名もなき田舎の羊飼いに過ぎない。この時点で父親エッサイはサムエルが王の候補者を探しているとは思っていない。
神は人選するに当たって、神から重要な基準を与えられている。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(16:7)。つまり、人の目で見ていかにも「王らしい」人物ではない。
サムエルは神の指示に従ってエッサイ家の7人の息子たち一人一人面接する。ところが、預言者の心を動かす者がいない。それで預言者は父親に息子はこれだけかと問う。いや、もう一人いるが、彼はまだ幼くて預言者と面接するほどでもないと言う。注意すべきことは、しかし預言者その男の子を是非連れてくれと頼む。そして少年ダビデを見た瞬間、預言者の心は動く。彼だと思う。それで預言者はダビデに王としての油を注いだ。その日以来、主の霊がダビデに激しく注がれるようになった、と聖書は語る。さぞ、エッサイの家族の者たちは驚いたであろうか、それはあくまでも家族内の秘密であった。

5. ダビデの生涯でのもっとも大きな謎
そこからダビデの生涯にとっての大きな謎が始まる。ダビデはすぐに王に即位したわけではない。その日から実際にダビデが王に即位するまでの長い長い時間が始まる。時間が長いだけではない。その間にいろいろなことが起こった。それはまた別の機会に取り上げることとし、この期間ダビデも兄弟たちももちろん父親も秘密を守った。しかし、いろいろな事件を通してダビデの人気は高まり、サウル王の気持ちは穏やかでなかった。事あるごとに、サウル王はダビデを攻撃し、命まで狙う。幾たびも、ダビデはサウル王の命を奪うチャンスがあったにもかかわらず、ダビデはサウル王を助けた。国内にいてはあまりにも危険なので、祖国を離れ、山野を放浪し、食料もなくて、麦畑で落穂を拾ったり、山の無人の寺で供え物をかすめたり、ついには敵国で狂人のような振る舞いをして命拾いするというような数年であった。一体、この期間というものは何なのか。預言者サムエルに対して「何時までサウル王のことについて嘆いているのか」と言われた神である。その神の中では既に結末は決定している。神は何をぐずぐずしているのだろうか。わたしたちには理解できない。今度はわたしたちの方が神に向かって「何時までですか」と問う。わたしたちは問いつつ、時が熟するのを待つだけである。この待つという行為において、というよりも待つという無行為、何もしないということを通して神の心を学ぶ。

6. キリスト教の歴史
実は、この「何もしないで待つ」という問題はキリスト教信仰において非常に重要な意味を含んでいる。最初期の信徒たちはイエスの再臨は「もう直ぐ」と思っていた。「自分が生きている間」という感覚すら、かなり後の感覚であって主の日はすでに決定され、イエスは「もう直ぐ」再臨すると信じていた。ところが延びて延びて「未だに未だ」なのが現在である。いうならば教会という時間はサウルから追い回されているダビデの時間、ただ逃げ回るだけで何もしないで時が熟するのを待つ「間の時間」である。こういう「間の時間」というものは、すべてがはっきりしているようで、はっきりしない。曖昧というか、不安定な時間である。この時間の中では信じることもできるし、疑うこともできる。試験を受けて、その結果が発表されるまでの間のようなものである。そういう状況の中で生きる生き方をアルバート・シュヴァイツアーは「中間倫理」と名づけ、キリスト教倫理の特徴とした。つまりキリスト者の生き方のである。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰの第13章12節で「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、その時には知られているようにはっきり知ることになる」と語る。
ダビデとサウルとの決定的な差は、ダビデが神の決定を既に知っていたというのに対して、サウル王はそれを知らないでひたすら延命のためにいらいらしていたということである。わたしたちが生きている現実は、神の決定のもとにある。しかし、その決定が実現されるまでの「間の時間」を生きている。しかし、多くの人々はサウルと同様に「神の決定」を知らずに生きている。

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