ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/04/26~05/02

2015-05-03 08:48:56 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/04/26~05/02

2015日々の聖句 04月26日(日)
憐れみと赦しは主である神のもの。(ダニエル9:9)
一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。(ロマ5:18)
私の黙想:
今日の聖句は昨日の聖句と完全に重なっている。ローズンゲンでこういうのは珍しい。ともあれ「憐れみと赦し」を求めている者は罪を自覚している者である。罪の自覚というのは本当にややこしい。人のものを盗んだとか、人に害を与えたとかというような具体的な罪ならば、その相手に謝罪し、相手から赦して貰ったら、一応一件落着であるが、その罪が自分の内側から出てくる、しかも誰にも損害を与えていない場合、例えばここでは「信頼すべき相手(それが人間であれ、神であれ)」に対する不信の罪というような場合、あるいは「疑った」というような罪の場合、その罪は誰によって赦されるのだろうか。今日の聖句は、それに対する聖書の答えである。実は最も深刻な罪は自分自身に対する「罪」である。自分自身が自分自身を騙している。今ここにあるのは「偽りの自分」であるという意識、これを誰が赦してくれるのだろうか。自分自身で自分自身を赦すのか?それは誤魔化しの増幅でしかない。「憐れみと赦しは主である神のもの」を、口語訳、フランシスコ会訳、新改訳では「わたしたちの神、主のもの」と訳している。原語でどうなっているのか知らないが、この「わたしたちの神」という言葉がドンと心に響く。「あなたの神」でもない、「あの人たちの神」でもない、それこそ「哲学者の神」でもなければ「全人類の神」でもない。「わたしの神」が「わたしの罪」を赦す権限を持っておられる。

2015日々の聖句 04月27日(月)
今こそ、心と魂を傾けてあなたたちの神、主を求めなさい。(歴代誌上22:19)
パウロの手紙:わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:13~14)
私の黙想:
この章の中に「今こそ」という言葉が2回用いられている(11,19)。口語訳ではこれらは単に「それで」である。フランシスコ会訳では11節の方は「今」で、19節の方は「今こそ」、新改訳は両方とも「そこで今」、文語訳は両方とも「然ば(されば)である。語義の詮索はそこまで。
人生には「ここ一番」という時がある。このここ一番を逃がすと再びそのようなチャンスは来ないかも知れない。大相撲を見ていても実力があり、体力があり、強いと言われているのにどうしても横綱になれない力士がいる。そして彼のファンはそれを見て歯ぎしりする。見ていると、そのような力士は「ここ一番」というときに負けている。ここ一番という時に全力を集中して、そこで実力発揮するということなしには大きなことはできない。
神殿建築というような民族的大事業、ダビデは王に即位して以来、それを自分の手でしたくてしたくて堪らなかったであろう。また、それをするだけの実力もあった。しかし、神はそれを許さない。それでダビデは建築のために必要なものを全て整えて、息子ソロモンに委ねた。そして、全国民にいう。「今こそ」全員が心を一つにしてこの事業に集中すべき時だ。「今こそ」の「今」とはそういう時である。

2015日々の聖句 04月28日(火)
わたしは信じます、命あるものの地で主の恵みを見ることを。(詩27:13)
イエスの祈り:父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。(ヨハネ17:24)
私の黙想:
「命あるものの地」、私はこれを直感的に「人間の世界」、もっと身近に「私の身辺の世間」であると思う。そこに、「主の恵みを見る」ことを信じる。そのことが「信じる」内容だという。何と寂しいことであろう。つまり現実には「主の恵みが見られる人間関係」の中で生きていない。在るべきものが欠けている社会。人情がない世間。最も身近であるべき親子関係、兄弟関係、友人関係から「人情」がなくなっている。
詩篇27編は私の好きな詩編の一つである。しかし、ここで詠われていることは「さいなむ者が迫り、私の肉を食い尽くそうとしている」(2節)、「(敵が)陣を敷いて私を責め立てる」(3節)、「父母が私を見捨てる」(10節)現実の中で、主のみが守ってくれている。そういう状況において、「わたしは信じる」という。必ず神は人間社会の中に真の交わりを実現してくださると信じる。

2015日々の聖句 04月29日(水)
神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。(詩66:10)
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。(ヤコブ1:12)
私の黙想:
試験には2種類ある。選別するための試験と資格を与えるための試験とである。前者は駄目な人間を落とし、優秀な人間を選ぶ試験である。いわば入学試験や入社試験のような者である。後者は、合格者の人数は決められていないで、社会的に特定の目的に適しているか否かを判定する資格試験である。その典型が自動車の運転免許のようなものである。
教会で牧師になるために所謂「聖職試験」が行われるが、これは前者ではなく後者である。つまり、牧師になるための最低限の知識とか人間性が問われれる。そこでは優劣は問題ではない。自動車運転免許試験で100点取ろうと60点であろうと関係ない。ところが聖職試験の出題を見ていると、多くの場合、聖職試験を行う人たちがこの点での理解が不十分であるように思う。
今日の聖句は神による「我ら」の試験のことが述べられている。試験の内容はかなり厳しいようであるが、受験者は試験されることを喜んでいる。9節を見ると「神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない」とあるが、前半の句を口語訳では「神はわれらを生きながらえさせ」と訳されている。つまりこの試験はわたしたちが長生きするための試験だという。その資格は「我らの足がよろめくのを許されない」である。つまり早い話が、しっかり歩けたら「合格」なのだ。上手く歩くとか、速く歩くということが問われているのではなく、ちゃんと歩けるかどうか、が問われている。試験を受けて合格したと思われる詩人は、その喜びを次のように詠っている。「神はほむべきかな。神はわが祈をしりぞけず、そのいつくしみをわたしから取り去られなかった」(20節、口語訳)。詩人はこれから試験を受けるであろう人々に、試験科目で最も厳しかったのは何かと秘訣を明らかにしている。それが6節だ。「神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ」(口語訳)。ここのところでペトロは強い風を見て怖くなりよろめき、「主よ助けてください」と叫んだという。その時「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰薄きものよ、なぜ疑ったのか』と言われた」(マタイ14:31)という。それにもかかわらず、ペトロさえこの試験に合格したという。

2015日々の聖句 04月30日(木)
いかに幸いなことか、主に信頼をおく人は。(詩40:5)
自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。(ヘブル10:35)
私の黙想:
今日の聖句には「続き」がある。そこでは「主に信頼をおいていない人」とはどういう人か。「ラハブを信ずる者にくみする人」である。主に信頼をおくか、それともラハブを信じるか。ラハブと対比させて始めて「主に信頼をおく」という意味が明白になる。この「ラハブ」という言葉を、口語訳、文語訳、新改訳では「高ぶる者」、フランシスコ会訳では「偶像」、岩波訳は「暴君」と訳している。要するにそれらは「ラハブ」の本質を述べている言葉である。この「ラハブ」とは神話的な怪獣を示しているが、面白いことに「ラハブ」という単語は当時の強大国エジプトを示す一種の隠語として用いられていたらしい。「ラハブに信頼する者」とは、この世における陰の権力者を信頼する者、偽る者であり、それに組みする者とは、騙されている人々を示している。
今や、ラハブは空想の世界から飛び出し、「頼もしい姿」で現代社会に登場し、人々の「信頼の座」を奪っている。ラハブに帰属する者たちがこの世では大きな顔をしている。それに対してラハブに信頼しない者は、迫害されている。そこで、この詩では逆説的にヤハウェを信頼する者が幸いなのだと語る。

2015日々の聖句 05月01日(金)
あなたはあなたの罪のためにわたしを苦しめ、わたしに重荷を負わせた。このわたしは、わたしのために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。(イザヤ43:24~25)
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解して下さいました。(コロサイ1:21~22)
私の黙想:
「あなた」という言葉と「わたし」という言葉とが異常に強調されている。放蕩息子に悩まされた親が、その息子が他人に掛けた様々な迷惑を全部解決して、これは全部、わたし自身のためにしたことであって「あなたのためではない」と宣言し、最後に「わたしはこのことを全部忘れることにする」という。実はこれに続く26節でこの「忘れる」ということを巡って2つの解釈があるようであるが、今日はそこまで立ち入らないこととする。
むしろ、ここでは神が人間の罪を赦し、そこに含まれる様々な問題を解決するのは「人間のため」ではなく「神自身のため」だという宣言に注目したい。人間としては随分身勝手な発想であるが、これが聖書における「神人関係」の基本である。人間は「お前が犯した罪はお前自身で解決せよ」と言われたってそれは不可能なことである。まして、「神のために」なんていわれても出来ることではない。結局、人間が人間として抱えている全ての問題は、深刻な問題であればあるほど、解決不能に陥ってしまう。全ては「神自身が神自身のために」することである。それが「全ては神の栄光のために」という信仰告白の意味であろう。

2015日々の聖句 05月02日(土)
すべて肉なる者は知るようになる、わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う、ヤコブの力ある者であることを。(イザヤ49:26)
人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た。(マタイ20:28)
私の黙想:
「全て肉なる者」という表現は面白い。これは26節前半の「あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ」るという言葉を受けている。つまり彼らは「あなたを虐げている」つもりで実は自分自身を食っている。豪華な食事で満足している積もりで、実は自分自身の肉体を食っている。蛸が自分の足を食っているようなものである。大蛇が自分の尻尾を呑み込んでいき最後は・・・・。
ここでいう「あなたを虐げる者」とはバビロンを指しているのであろうが(48:20)、必ずしも「相手」を特定する必要はない。要するにヤハウェに属する者を食い物にしている連中のことである。それが他国の場合もあるだろうし、自国の指導者の場合もあるであろう。彼らに対してヤハウェは必ず報復し、ヤハウェの力を見せつける。しかしその報復は、「上からの成敗」ではなく、彼ら自身の内部からの崩壊である。

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