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ぶんやさんの記録

田川建三氏の「人は何のために生きるか」について

2015-05-03 11:16:13 | 雑文
そろそろ、身辺整理をしておかねばと思って、過去に書いた説教や文書を整理している。その中で以下のような文書を見つけた。どこかにきちんと記録しておかねばと思って、ブログにアップしました。これは、多分2006年頃書いたものだと思います。

田川建三氏の『宗教とは何か(上)─宗教批判をめぐる─』(洋泉社)

最近(2006年5月)、田川建三氏(以下、学術書の慣習に従って「田川」と呼び捨てにする。)の「宗教とは何か(上)──宗教批判をめぐる──」という著作が洋泉社から出版された。この書はもともと1984年に大和書房から発行された「宗教とは何か」の新装版である。その書の冒頭の論文が「人は何のために生きるか」というタイトルである。このタイトルを見たとき、「田川らしくないなぁ」と感じ、興味を持って読み始めた。その冒頭の言葉が次の通りである。
「人は何のために生きるか、などという問いに対して答えるべきことはきまっている。そのように問うこと自体間違っている」(16頁)。この文章を読んで、先ず「田川らしい」と納得した。
田川自身、この論文について、「初出と自己批評」の中で、執筆の事情を語った上、「ここに書いたことは、自分の思想のもっとも根幹の宣言である」310頁)という。確かに、この短い論文はそれだけのことはある。田川の他の論文を読み、考える人にとってこの論文は必読である。
田川は人生の目的を人間存在以外のところに求めること、あるいは人間の内部にある何か一つの要素を取り出して目的化すことの空しさを論じる。要するに、人生の目的という古典的な問い自体が答えのない問いなのであり、もしあえてその問いに答えようとするならば、「我々は食って寝るために生きる」(20頁)としか、答えようがないと言う。
それに対して、「人は何によって生きるか」という問いは、人生そのものの複雑多岐な構成要素に目を向けているという意味で、十分に問うに価する。この問いに対する答えも、「我々は食って寝ることによって生きる」である。
このような田川の発言をわたしたちはどう受け止めるのか。キリスト教は伝統的に「人はパンのみによって生きるものではない」(マタイ4:4)という言葉で田川の発言を無視するか、圧殺する。「人間とは食って寝るだけのつまらない存在ではなく、もっと大切なものがあるはずだ。たとえば、愛、生き甲斐、精神、正義、あるいはまた進歩だの、革命だの・・・・」(25頁)、田川自身がそのような反論を予想し、それに対して、一言反論する。「我々は食って寝るために革命を欲するのであって、革命のために食ったり寝たりしているわけではない。『革命』が堕落するのは、この関係が逆転する時である」。革命については確かにその通りであるが、たとえば「愛」についても、あるいは「正義」ということについても同じように反論できるのだろうか。もっとも、「愛」とか「正義」という言葉を持ち出すならば、その内容についても明確にしなければならないであろう。田川においては、「いかに食うか、いかに寝るか」ということの中に「愛」も「正義」も含まれる。そこに含まれないような「愛」とか「正義」は抽象的であるとして捨てられる。
この論文の後半は、人間が食って寝ることを「たったそれだけのこと」などと暴言を吐く者に対する批判である。その舌鋒は鋭く、ほとんど反論の余地がない。田川のこの鋭い批判を支えている論拠は「当然の人間的精神」である。飢えている人が一人でもいる限り、食べるということを「たったそれだけのこと」というわけにはいかない。飢えている人の目の前で自分だけが食べるということは「当然の人間的精神」のゆがみ、荒廃、あるいは惰眠である。足らないなら足らないなりに、分け合って食べるということが「当然の人間的精神」であり、本当に足らないなら、みんなで協力して足るようにする。もっとも、田川は足らないなどとは少しも思っていない。問題は不公平な分配であり、一部の人間の搾取である。
田川が、これをただ「人間的精神」と言わないで、「当然の」という形容詞を付けるていることが重要である。これは議論の対象ではないということを意味している。人間なら「当然」持っている心、行動である。これを「愛」だとか、「生き甲斐」だとか、「正義」だとか、いう言葉で倫理化したり、観念化するな。
田川が触れていないことがある。意図的か、あるいはそれを語るためには、もっといろいろなことを論じなければならないのか、わたしは分からない。それは、この「当然の人間的精神」ということへの覚醒というか、気付きというか、あるいは自覚というべきか、ともかく、この発端の問題である。人間ならば誰でも生まれたときから、持っていると言うのか。それを言うなら、弱肉強食というのも人間が持っている本性でもある。自分だけ食えればそれでいいという精神も人間の中にあり、それがないのは「歪み」とか、惰眠であるとは言えない。むしろ、人間の生来の本性は自己中心である。もっとも、博愛精神とまで言わなくても、一人で食べるよりは、愛する人と共に食べる方が幸せであるという心情も、自己中心の延長にあると言ってしまえば、もう議論はできない。
その意味で、自分だけが満足すれば、他はどうなってもかまわないという自己中心的な「食って寝る」という生き方から、共同の「食って寝る」への転換があるはずである。それは、教えられて、強制されてなされるものではなく、個々人の主体的な転換の問題である。自己変革と言ってもいいだろう。

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