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チャップマン『聖公会物語』を読んでいる(5)

2013-11-12 11:18:32 | 小論
チャップマン『聖公会物語』を読んでいる(5)
聖公会という名の教会がどのようにして成立したのか。それは結局英国における宗教改革について論じることである。チャップマンは第2章のタイトルを「教会の創設」とする。この訳語の原語は何だったのかは問わない。ただ通常「教会の創設」という言葉を読んだ場合、使徒時代における「教会の成立」とか、あるいはどこかの町の「教会の創立」を思い浮かべるに違いない。その意味では紛らわしい用語である。勿論ここでは英国教会( The Chur of England )という教会が生まれたことを意味するが、何もなかったところに突如教会が創設された訳ではなく、それまでに存在していた「エクレーシア・アングリカーナ」がローマカトリック教会から分離独立して「英国教会」になったということである。この出来事を表すのに「創設」という言葉が相応しいかどうか。

第2章 教会の創設
英国における宗教改革の過程。
(1)ヘンリー8世の結婚解消問題
先ず著者は、英国においては宗教改革はなかったという意見をあっさりと、「英国教会は多くの大陸諸国とは違うかたちで、宗教改革がなされた」(33頁)という。その論理は単純でローマ教皇により簒奪されていた英国国王の権威を取り戻したということにつきる。つまり「現世的な権威(政治的)と霊的権威(宗教的)」の両方を神は国王に授与したという主張である。このプロセスを簡単に述べる。
その当時、宮廷内で問題にされていたのがヘンリー8世の離婚問題で、誰が「結婚解消権」を持っているのかということが問題になった。この問題について英国内の学者たちが動員されて調査研究した結果、二つのことが明白にされた。一つはこれは国内問題であり、当時英国はローマ(神聖ローマ帝国)から全く合法的に独立しているのであるから国内法が(超国家的)教会法より優先するという解釈がなされた。もう一つが国王には神によって政治的権威と共に宗教的権威も授与されており、国王は英国の首長であると同時に英国教会の首長でもあるという決定である。
この国王を「教会の首長」にするという法案の決定には多少「駆け引きめいたもの」がある。1531年1月、この法案に反対をした聖職団に対して(この部分が書かれていないので、分かりにくい)、ヘンリー8世は国内法により「臣下としての義務違反」として聖職団を訴え、118,000ポンドの罰金を課した。つまり国王は聖職団に対してローマへの忠誠と英国国王への忠誠との二者択一を迫まったのである。この部分の翻訳は多少曖昧であるが、整理すると、国王は聖職団の罰金を免除するのと引き換えに、国王への忠誠を誓わせ、国王が「教会の首長」であることを承認させたのである。その後もことがスムーズに進んだ訳ではなく、国王と主教団との間ですったもんだの末、「1533年5月23日、カンタベリー大主教であったトーマス・クランマーは、ヘンリー8世のキャサリン王妃との結婚無効を宣言した」(35頁)のである。
それ以後1534年の「国王至上法」の制定までの1年半足らずの間に、国家と教会との関係に関する法律上の様々な改訂が矢継ぎ早に決定され、英国教会とローマ教皇との関係はほぼ完全に断絶され、それまで教皇に支払われていた様々な上納金はほとんどすべて国王に納付されることとなり、「どの点から見ても、国王は英国の教皇になっていた」(36頁)のである。
さて、次の段階に入る前に英国における宗教改革についてヘンリー8世の視点から整理してみると分かりやすい。その前提になった国内情勢は「英国国教会が形成される際にもっと重要だったのは、一人のキリスト者君主(ヘンリー8世)によって掲げられたキリスト教国家のビジョンであった」(14頁)ということにある。大陸における宗教改革の影響を受けて、ヨーロッパ各地の諸国がローマ教皇との関係を見直し始めた頃、島国英国のヘンリー8世もローマ教皇との関係を考え始めていた。初めは宮廷内の些細な問題であった。ヘンリー8世がアン・ブーリンという一人の女性に恋をした。それで妻と離婚してアンと結婚したいと思った。これは非常にプライベートな願いであった。もちろん国王の離婚とか再婚ということがローマ教皇の認可事項であることは承知していたであろう。妻キャサリンとの離婚は厳密にいうと離婚ではなく結婚無効宣言である。それだけの理由もあり、それは難しい問題だとは思われなかった。これは単純な手続き上の問題であった筈だが、諸般の理由により教皇の許可がなかなか降りなかった。そこでヘンリー8世は頭に来た。英国の国王が自国内でこんなに単純なことも決定できないのか。それじゃ私が国王であるとはどういう意味か。そこでヘンリー8世は英国における諸大学、とくにオックスフォーやケンブリッジの学者たちを動員して、英国内における国王の権限、ローマとの関係等、本来どうあるべきなのか徹底的に調査研究させた。

(2)ローマによる経済支配
法的、経済的、宗教的に徹底して検討した結果、学者たちの結論はローマ教皇の支配が国内のあらゆる分野に浸透し、英国はもはや独立国とはいえない状況であることが明らかになって来た。とくにひどいのは経済関係で英国の資産が教会および修道院というチャネルを通してローマに流れ込んでいる実体が明らかになった。当時英国における全修道院が所有している不動産(土地)は、全イングランドの3分の1以上にもなり(八代崇、67頁)。そこから生産される富が国内では流通せずローマに流れている。逆にいうと、ローマ教皇は英国から教会を回路として人的・経済的資源を吸い上げているという実態である。もし、それらの資産が英国内で流通するならばどれだけの大きな利益(国益)になっていたのか。それはもはや国王の私的な問題と比較できない程の大問題であった。このことを了解したのがカンタベリーの大主教トーマス・クランマーと法律家トマス・クロムエルで、この二人のトマスが両輪となってヘンリー8世を「英国教会の首長」として押し出し、ローマからの分離独立を成功させたのである。その結果、それまでローマ教皇が英国に対して持っていたほとんどすべての権限がヘンリー8世の手に入ることとなった。つまり、この時点でヘンリー8世は英国内における政治と宗教とのすべての権限を手にしたのである(国王至上法、1534年)。だからこそ国王は政治と宗教との両方の権限を持たないことには英国は独立国家にならない。ここに英国国王が国政のトップであると同時に英国教会のトップにならなければならない歴史的必然性があった。

(3)トマス・クロムエルによる王権の拡充
国王至上権により王権を確立したヘンリー8世は、クロムエルに命じて「皇帝教皇主義」の実行に当たらせた。ここで用いられている「皇帝教皇主義」(38頁)という用語がどれほど一般的なのかは分からない。要するにローマ教皇が今まで英国内において持っていた立場と職権とを全て国王が持つということであろう。
クロムエルは先ず全教会に対して国王至上擁護の説教をさせ、州執務長官に主教たちの動向を見張らせ、主教団のメンバーを入れ替えさせた。さらに国王が教会の財産を募集し再分配する権限を持つように法改正し、また「修道院は敬虔な詐欺行為」であるとして解散させた。事実、修道院の財産はローマに属し、その収入はローマへと送金されていたのである。国王は一挙に莫大な財産と資金源を手にすることが出来た。後の話しになるが、それらの資金が地方のジェントリーやヨーマンたちに還元され、ジェントリーたちは国王の支持母体となり英国議会を支配するようになる。
しかし、当面は英国の政治経済の構造改革により国民の不満は爆発し、1537年には3万人による「恩寵の巡礼」というデモが発生した。しかしそれらの反抗運動もクロムエルの辣腕によって収束された。

(4)英国教会の教義
国内の争乱も落ち着いた頃、クランマーが登場し英国教会の教義が検討され始めた。クランマー自身はドイツの神学者(プロテスタンティズム)たちの影響をかなり強く受けていた。教義に関してはヘンリー8世は一貫して保守的で、カトリック信徒の立場を崩さなかったが1536年7月に「十箇条」を承認した。この文書においては「我々の救済に必要なサクラメントとして」洗礼と聖餐のほかに告解も入っている。また、実体変化の教義については「パンとワインの形相の下でキリストの身体と血が臨在する」とされた。その他の条項については、「理にかなって適切な秩序と正直な賢明さのために長い間存続して来た事柄……たとえそれらが明確に神によりて命じられておらず、われわれの救済に必ずしも必要でなくても」という説明付きで承認された。つまり後のエリザベス女王時代に言われた「アディアフォラ」の考え方の先取りされている。そして第十条では「煉獄に対する信仰は保持されつつ」、ローマ教皇による赦免、つまり免罪符という悪習は明白に否定された。つまりこの十箇条において聖公会神学の基本的姿勢が樹立された。
その後、翌1537年クランマーとクロムエルの共著による『主教の書、すなわちキリスト者への招き』という神学論文が国王に提出されたが、これを認めず、聖職者たちへの奨励として3年という期限付きで認可が与えられた。これもルタ―主義が勢力を持つことを不安に感じる主教たちの動きにおいて使用が禁止された。その他、カトリック信仰に固執するヘンリー8世と改革をするめるクランマー、クロムエルの対立は激しくなり、1540年クロムエルは国王に対する反逆罪および異端ということで処刑された。
結局、ヘンリー8世は英国教会をローマからの分離独立させ、英国教会の首長という立場を確立しつつ、1547年1月28日、カトリック教徒として逝去した。その時、彼は貧しい人たちのために666ポンドを残したが、それは貧しい人たちが彼の魂ために祈ると、彼は煉獄から救出されるという教義を信じていたからである(43頁)。(2013.11.12)

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