ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

聖霊降臨日説教「エルサレムにて」

2015-05-24 11:03:56 | 説教
昨年のペンテコステの日には、わたしの手元に残っている最も古い聖霊降臨日の説教(1985年5月26日)の原稿をブログに掲載致しましたしました。そこでの主題は「生活の中での神」ということで、聖霊について考えました。

http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/fcab666eda55d9882f7d127d1dd210d4

今年はその次の年に、やはり同じ京都の聖アグネス教会で行った「エルサレムにて」という説教を掲載します。私にとりまして、ペンテコステは、クリスマスよりも、イースターよりも大切に守られてきた祝日です。従って、その日の説教にはどうしても力が入ります。

聖霊降臨日(1986.5.18)

エルサレムにて

教会はペンテコステの日にエルサレムにおいて誕生いたしました、ということになっています。この「ということになっています」という言葉が付け加えられますと、何かその歴史に曖昧さがただよい、教会というものまで、何かうさん臭ささを感じる人もおられるかも知れません。しかし、全ての歴史というものは、実はそれが史実なのです。例えば、私たちの聖アグネス教会、この教会が教会であることは誰が見てもはっきりしていますし、今それを疑う人は誰もいないでしょう。しかし、この聖アグネス教会が何時生まれたのか、ということになりますと、色々の意見があり、考え方、見方があります。その考え方、見方によって、聖アグネス教会というものの理解の仕方が異なってきます。同じことは京都教区の始まりについても、また日本聖公会の始まりについても言えます。そこで日本聖公会の場合は「宣教百年」と「組織成立百年」とを分けて理解し、両方を別々に記念して大会を開くわけです。
恐らく、今から約2000年程前の教会の成立の時の事情も、同じ事で、「ということになっている」という言葉が付け加えられる方がより史実に近いということが言えます。
本日は「ペンテコステの日」という時間的なことには触れず、「エルサレムにて」という場所的なことを考えて見たいと思います。何故「エルサレム」なのか、ということです。こんな言い方はおかしいと思われますか。実は、これには深い問題があるのです。少し専門的になりますが、学者の議論にも面白いことがありますので、御紹介いたしますと、1936年、といいますから、丁度、私が生まれた年ですが、ドイツ人の新約聖書学者、ローマイヤーという人が「ガリラヤとエルサレム問題」というのを提起いたしました。その問題が出されるまでは、教会の成立はエルサレムであるということに誰も異議はなく、それは当然のこととして、受け入れていたのですが、ローマイヤーはそのことに疑問を出しました。問題点は何か、と申しますと、マルコによる福音書では、復活したイエスが弟子たちに現れたのは、「ガリラヤ」であったというのです。というのは、マルコでは最後の晩餐の時、主イエスは弟子たちに「わたしは復活した後、あなた方より先にガリラヤに行く」(マルコ14:28)と語られ、本来のマルコ福音書の最後の部分では「空っぽの墓」の中にいた「白い衣を着た若者」が「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なって、ここにはおられない。(中略)さぁ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』、と」と言い、これを聞いた女たちはこわくなつて逃げてしまった、というところで終わっているのです。
ともかく、最も古い、つまり最初の福音書は、「ガリラヤに行け」という天使の言葉で終わっているのです。従来、マルコのこの言葉については色々に解釈されてきましたが、要するにそれらの解釈というものは、他の福音書とのつじつま合わせに過ぎません。ローマイヤーの問題提起以後、「ガリラヤとエルサレム問題」は世界の新約聖書学界での中心問題の一つとなりました。この問題に対する、恐らく最も新しい、そして説得力のある答えが、日本の若い学者田川建三の『原始キリスト教史の一断面』という著書であると思います。
しかし、教会の成立ということを素直に考えてみますと、主イエスが主に活動なさった地域はガリラヤであり、その意味ではエルサレムは唯、主イエスが殺されただけの所です。生前の主イエスを知っている人々はエルサレムにはほとんど居なかったに違いありませんし、弟子たちもエルサレムではほとんど知られていなかつたでありましょうし、第1彼らはエルサレムではびくびく隠れて生活していたのです。いわば弟子たちにとってエルサレムは旅先にほかなりません。ですから、最初の教会、むしろ教会らしい集会、共同生活がガリラヤを中心に、それこそ「草の根」のように、復活したイエスにお会いしたという人々が集まることによって、始まり、広がっていったということは十分に想像できます。しかし、彼らは「エルサレム」にこだわった。教会の始まりは「エルサレム」でなければならない、と考えたようです。
なぜ彼らは「エルサレム」にこだわったのか。逆に言いますと、エルサレムに教会が生まれた時が、真に教会が生まれた時なのだ、と彼らは考えていたようです。ここに、端的に彼らの教会理解が表現されています。エルサレムは単なる一つの地域としてのエルサレムではなく、神学的な場所、神に選ばれ、世界における神の働きの中心地としてのエルサレム、しかし、そこは同時に神の御子が殺される場所として神が選んだ場所でもあります。
マタイの福音書では、最初に教会という言葉が用いられた有名な箇所で、その「教会」という言葉からたった7行後で、「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」( Mt.16:21)という言葉が見られます。この時、イエスは「必ず」という言葉を用いられて、「エルサレム」の必然性を強調しておられます。イエスが殺されるべき場所は「エルサレム」でなければならない。この必然性は教会は「必ず」エルサレムに建てられねばならないという必然性でもあります。
ルカは彼の福音書で、また使徒行伝で、エルサレムをそういう場所として描いております。ルカの福音書では、イエスの最後の言葉は、「(福音は)エルサレムから始めて」、全世界に宣べ伝えられる。だから「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という言葉です。それを受けて、使徒言行録では、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい」という言葉で教会の歴史は始まるのです。
教会はエルサレムで始まることによって、単なる人間の集団、弱く、何時も裏切り、困難にぶっつかると直ぐに逃げ出す人間の集団ではなく、世界に対して神が建てた新しい神の民、「真のイスラエル」だ、ということが主張されています。主張というより、キリスト者の自覚と言った方が良いでしょう。
エルサレムは神が選ばれた神の都であると同時に、イエスが殺された場所であり、また弟子たちにとっては「主イエス」を見捨てた場所でもあります。弟子たちはガリラヤにおいては、3年間も生活を共にして来たのに、エルサレムにおいては、たった3日間で主イエスを見捨て裏切ったのです。弟子たちにとつてエルサレムとはそういう場所です。そこは、二度と行きたくない、嫌な思い出のある所です。しかし、教会はそこから始まらなければならない。そこを避けて通ることは出来ない。「(主イエスの名による)罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」( ルカ24:47,48)。
弟子たちは「かつて」自分たちがイエスを見捨てた場所、裏切った場所、イエスが殺された場所、否イエスを殺した場所に、「今」立っている。そこに彼らは集い、そこに「今」教会が建っている。神が殺された場所で、神は働く。これが歴史における神の行為の特徴なのです。ここに聖霊の働きの渦の中心があります。この渦の真ん中で教会は誕生するのです。この神の行為が教会の土台であり、その同じ場所に立つ限り、ペテロは罪が赦され、教会の土台、岩と呼ばれるのです。それはペテロだけではありません。この教会の枝である全てのキリスト者もまた、ここに立つ限り、この神の行為に与っているのです。

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