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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/06/01~06/07

2014-06-08 06:24:37 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/06/01~06/07

2014日々の聖句 06月01日(日)
主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。(詩16:8)
彼らは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。(使徒言行録4:13)

私の黙想:
主は私の右におられるという。「右」におられるから「揺るがない」という。この句は直前の「わたしは絶えず主に相対しています」を受けている。「相対している」なら向かい合っている、ということになる。口語訳も文語訳も「わたしの前に置く」である。
この句を読むと、わたしはいつも「カーナヴィ」のことを思い起こす。カーナヴィは非常に便利というか、助かる。カーナヴィがあれば知らない地も安心して運転できるし、少しぐらい周り道だったとしても確実に目的地に到達できる。日本の車は右ハンドルなので普通はカーナヴィは左側の前に置かれる。運転中は前方注視は絶対であるし、時々は後方確認のためバックミラーも見る。バックミラーは普通は3つ置かれている。これらは安全運転のために必需であるが、目的地には案内してくれない。しかし、行くべき道や方向に迷った時にはカーナヴィが頼りだ。だから、カーナヴィがわたしの左前に置かれていると、道の道路でも迷う(揺らぐ)ことがない。人生においてカーナヴィのようなものがあればどれほど助かることだろう。詩人は言う。「われ常にヤハウェをわがまえにおけり、ヤハウェわが右にいませばわれ動かさるることなかるべし」(文語訳)。私の大好きなみ言葉の一つだ。

2014日々の聖句 06月02日(月)
わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。(エレミヤ23:23)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。(ロマ11:33)
私の黙想:
人間と神との関係は、近いのか、遠いのか。そもそも神における遠近とは何か。エレミヤ書が提起する難問だ。この問い掛けはヤハウェによる。この表現においては「近い神」を当然とする人間に対して「遠い神」でもあるという宣言に聞こえる。昨日の聖句では神の近さが恵みとして強調された。しかし、今日の聖句では「遠い神」ということが問われている。エレミヤ書の基本的メッセージは偽預言者と真の預言者との関係において語られる。偽預言者は「平和があなたたちに臨むと主が語られた」と語り、また、かたくなな心のままに歩む者に向かって「災いがあなたたちに来ることはない」と言う(23:17)。つまり偽預言者のメッセージは恵みの言葉であり、心地よい言葉である。それに対して預言者エレミヤに望んだヤハウェの言葉は「火のようであり」、「岩を打ち砕く槌のよう」(23:29)である。ヤハウェとの「遠さ、近さ」は、日本人の感覚としてはむしろ「甘さ、辛さ」のようである。
神は甘いのか、辛いのか。その感覚が24節の言葉に表現されている。「人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか」(口語訳)。神の目から逃れることが可能なのか。ここでの「近い神」とは遠くに離れれば身を隠すことができる神を意味しているようである。それに対して「遠い神」とは世界の隅々まで目が行き届いている神で、どこまで逃げても逃げ切れない神を意味している。

2014日々の聖句 06月03日(火)
咎を除き、罪を赦される神があろうか。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。(ミカ7:18)
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。(1テサロニケ5:9)
私の黙想:
今日の聖句はイスラエル(厳密には分裂後の南のユダ王国)の歴史における非常に微妙な時代の預言者の言葉である。北のイスラエルは遠い昔に滅亡し、民は離散した。かろうじて南のユダ王国もバビロンに滅ぼされた前後の時代での預言である。その時代の最大の問題はヤハウェは信じるにたる神なのか、どうか。北の王国は完全に滅亡し南のユダ王国も同じ運命が迫っている。こういう時にこそ、民族を守ってくれるのがヤハウェのはずだがヤハウェは動かない。ユダ王国内でも多くの者たちはヤハウェ信仰を捨てイスラエルのアイデンティティを捨てている。こういう時代において預言者ミカは「赦しの神」を語る。こうなったのは神の責任ではなく、民の方が神を信じなかった結果で、神の方は間違っていない。こういう中でこそ、ヤハウェを信じるならば、赦してくれないヤハウェではない。この聖句での「残りの者」とはここでヤハウェ信仰に踏みとどまっている集団を意味している。ヤハウェの怒りは必ず溶ける時がある。フランシスコ会訳ではこの部分を「いつまでも怒りに固執されることはありません」と訳している。実に分かりやすい。そして、事実、ペルシャのクロス王によってバビロンは滅ぼされ、「イスラエルの残りの者」は捕囚から解放され祖国へ復帰することができた。

2014日々の聖句 06月04日(水)
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。(イザヤ53:1)
イエスの言葉:「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(ルカ10:21)
私の黙想:
イザヤ書52:13~53:12は第4の「主の下僕の歌」と言われている。この詩を古代イスラエルの人々がどう読んだのか、解らない。最も肝心の52:13の「私の下僕」が誰を意味するのかはっきりしないからである。素直に読めば、イスラエルの民そのものを一人の人格として擬人化したとも取れる。そうすると本日の聖句の「わたしたち」は52:15の「王たち」を意味するのであろう。要するに、イスラエル民族の「苦難と栄光の不思議さ」を歌ったものであろう。あれ程惨めな状況に堕ちた民族が再び栄光を取り戻すとは、どの民族の王たちも想像できないであろう。この詩の根柢にはイスラエル民族の悲惨さをもたらしたものは、神であるという思想がある。だから、その悲惨の原因を他民族の「悪」に帰さなかった。むしろこの悲惨の原因は神に対する自民族の不信にあるという思想である。そうすると2節以下の文脈では「わたしたち」とは異民族の王たちで、「彼」とはイスラエル民族ということになるが、そこまでは何とか読み取れるが、5節以下になると、この「わたしたち」は諸民族の「王たち」が世界の平和はイスラエル民族の苦難によってもたらされるということになり、単純に「彼」をイスラエル民族であるという解釈が貫けなくなる。今朝の黙想はそこでストップ。

2014日々の聖句 06月05日(木)
東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。(詩103:12)
神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(2コリント5:19)
私の黙想:
「背きの罪」とは、面白い訳語である新共同訳では7回用いられている(詩19:14,51:3、103:12,イザヤ43:43:25,57:4、59:12で2回)口語訳では見られなかった。新改訳では「そむきの罪」、岩波訳では「不義」である。この言葉が動詞刑になると「背く」という意味になる。従って「背きの罪」で間違いないが、むしろ「背くこと」でそれは罪を意味すると考えた方が適当であろう。
背くことの本質は「離反」であり「叛逆」、方向性として遠ざかる方向を示す罪である。神から遠ざかるということは神以外の何者かの方向に行くということを意味している。具体的にはイエスラエルの民がヤハウェを離れてヤハウェ以外の神々に近づくことであるし、ダビデの個人的なケースではヤハウェに向かうべき「関心」がバト・シェバの方に向かうということである。早い話が、要するに「浮気の罪」である。
そう理解すると、今日の聖句は非常に面白い。神に対して「浮気の罪」を犯した者を神は赦し、両者の間を遠ざける。しかもその遠ざけ方も徹底しており、もう二度とその相手に出会うことのないような仕方で遠ざける。「東と西」とは厳密に言うと「(太陽の)登り口と(太陽の)沈み口」を意味する言葉で、絶対に出会うことがない関係を意味する。つまり、ヤハウェは嫉妬深いのである。

2014日々の聖句 06月06日(金)
主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。(詩95:1)
足の不自由な男は、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。(使徒言行録3:8)
私の黙想:
「救いの岩」に向かって喜びの叫びをあげる。乾ききった砂漠で飲料水がないということだけで、イスラエルの民が全滅するという悲劇が想像される。水がなければ生物は死ぬ。水を奪い合って人間は殺しあう。水のないところ、そこは地獄だ。それは他所事ではない。昔話ではない。現実に起こっていることである。
電気がほしい。電力がなければ日本は滅亡するかのように、原発の再稼働を画策する連中がいる。そのために、どれだけの人が被曝し、死んでも仕方がないと思う人間が私たちの目の前にいる。
イスラエルの民はそういう民族的危機に直面して、指導者モーセに迫る。さすがのモーセも「無いもの」をどうしようもない。モーセは神に祈る。そして岩から水が迸り出る。そして彼らは歌う。「深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた」。山を見上げて、神を思うことは難しいことではない。海を見て、神の大きさに驚くことも、通常の感覚であろう。しかし、「深い地の底も御手の内にある」ということは思い至らない。岩から吹き出る水を見て、彼らは普段踏み歩いている地面の奥底も「神の手の内」だということを知る。

2014日々の聖句 06月07日(土)
わたしの魂よ、主をたたえよ。主はお前の罪をことごとく赦し、慈しみと憐れみの冠を授けてくださる。(詩103:2~4)
パウロの手紙:生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)
私の黙想:
今日は「慈しみと憐れみの冠」について思う。詩8:5には「栄光と威光を冠としていただかせ」という言葉がある。年老いたパウロは死を前にして「義の冠がわたしを待っているばかりです」(1テモテ4:8、口語訳)という。
パウロにとって「冠」を与えられるということをよく手紙に書いている。1コリント9:25では「すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」と述べ、2テモテ2:5では、「競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。」と論じ、またキリスト者の希望と喜びは、キリストが再来される時に「誇るべき冠」を頂ける(1テサロニケ2:19)のだと語る。パウロにとって冠とは苦難を克服し、戦い抜いたものに与えられる「人生の栄光」であるようだ。
古代のオリンピックでは、優勝者には「オリーブで編んだ冠」が与えられたという。それは物自体の価値としてはゼロに等しいが、その名誉は計り知れない。現代のオリンピックでは、金メタルが与えられるが、その価値は「換金して計れる」種類のものとは異なる。国によっては莫大な報奨金が与えられると聞くが、それこそオリンピックを貶める行為であろう。「慈しみと憐れみの冠」、これは「苦しみを経験し、涙を知り、憐れまれる立場を経た者に与えられるものであろう。「悲しむ人々は幸いである。その人は慰められる。憐れみ深い人々は幸いである。その人は憐れみを受ける」(マタイ5)。

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