ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 09/17 聖職試験問題について

2014-09-19 06:32:06 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。朝、皮膚科に予約。午前『イスラエル』続読。「ユダヤ人たちはナチによるジェノサイドをどう理解しているか』。午後、広島の友人が阿蘇からの帰りに来訪。皮膚科で診察。夕食後、無為に過ごし10時に就寝。今朝は薬の作用か6時まで熟睡。体調・快調、チュン、チュン。

金丸 勝彦さん、Luke Etsuzou Nomahさん、清水 晴好さん、他33人が「いいね!」と言っています。

松井 守 おはようございます

文屋 善明 松井さん、お早うございます。

藤木 冨士子 おはようございます。

文屋 善明 藤木さん、お早うございます。

萩野 秀子 おはようございます。次男の体育祭、歯科クリニック、チラシ配りをします。

村田 多鶴子 おはようございます~♪熟睡できたそうで、良かったです~(^^♪
ご無理をなさらず、愉しい時間をお過ごしになられてくださいませ。・・・もっと見る

清水 行雄 先生、おはようございます。「イスラエルとは何か」読み始めましたが、ようやく第4章まで目を通しました()
posted at 06:21:48

文屋 善明
今日の名言:RT @Schopen_bot:
猛獣も口輪をはめれば、草食動物と同じように害がないのだ。
<一言>いくら轡(くつわ)をはめられたって、猛獣は猛獣だ。口輪をはめれておとなしくなるのは家畜である。存在そのものが「威喝」である。

石田 聖実さん、Luke Etsuzou Nomahさん、増野 真美さん、他23人が「いいね!」と言っています。

播 稔 人間にも猛獣はいる。

川染 三郎 虎の威を借る・・・
posted at 08:02:09

「昨日のツイート 09/15」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/52c02c7874f26f326144089a67597e5…
posted at 08:38:18

文屋 善明
お目覚めの花。「お早うございます。今朝はどうしました。ずいぶん遅いじゃありませんか」「ハイ、大丈夫です」「お互いにかなり疲れているようですが、私も頑張っています。末端神経の方はかなりイカれいるようですが、核心部分はまだまだ大丈夫です」。
写真: お目覚めの花。「お早うございます。今朝はどうしました。ずいぶん遅いじゃありませんか」「ハイ、大丈夫です」「お互いにかなり疲れているようですが、私も頑張っています。末端神経の方はかなりイカれいるようですが、核心部分はまだまだ大丈夫です」。

Minsoo Rheeさん、Luke Etsuzou Nomahさん、Su Suさん、他51人が「いいね!」と言っています。

塩澤 紀子 シュウメイギクですか?いい色合いですね。

文屋 善明
2014日々の聖句 09月17日(水)
御使いが呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れるな。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。(創世記21:17~18)
萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。(ヘブル12:12~13)

私の黙想:
アブラハムから出たもう一つの民族(イシマエル)の子孫の運命。ヤハウェはイシュマエルの子孫にもイサクの子孫と同じような祝福と約束を与えられた。伝説では彼らがアラブ族の先祖となったという。創世記はイサクの子孫(イスラエル)の立場から書かれているが、イシュマエルの子孫のことにも温かい目を持っている。アブラハムが今日の「イスラエル問題」を見たらさぞ嘆くことであろう。ヤハウェも。

伊藤 昭吉さん、Luke Etsuzou Nomahさん、町田 勝彦さん、他36人が「いいね!」と言っています。

二上 英朗 まことにまことに。

文屋 善明

聖職試験について私の提案

まず初めに「試験」ということについて私の考えをまとめておきたいと思う。
試験には「選抜」を目的とする「選抜型」と「資格」を認定する「資格型」とがある。前者は大学入試や入社試験のように合格者の枠が決まっており、それを希望する人が枠よりも多い場合に実施される。それに対して後者は、その人が試験後に、特定の任務ないしは仕事に耐えられるのかという最低基準を認定する試験であり、その最も典型的な試験が自動車運転免許証の交付という試験である。その人がどういう能力を持っているのか、どういう性格かということについては基本的には考慮せず、ただその仕事ないし技能が最低基準を満たしているのかどうかが問われる。その人がどれほど運転技術に優れているのかを問うのではなく、一般道路に出て運転する資格があるかどうかを問うのである。この試験の場合には合格者の人数には制限はない。
試験というものを考える場合に、この2つのパターンが考えられる。聖職試験とはこの2つの試験のどちらに属しているのかは疑問の余地はない。つまり、聖職試験というものはその人がどれほど高度な知識と持っているのかが問われるのではなく、聖職者としての任務に耐えることができる「最低のレベル」の能力と学識を試験するものである。
もちろん、聖職者の任務というものは学識だけで決まるのではなく、人格や性格、生きる姿勢等「総合的に」判定されなければならない。人格や性格、生きる姿勢等は1回のペーパーテストで判定できるものではないし、その意味で受験者の生活等を知っている複数の人々の推薦が重要な意味を持つことは当然であろう。
ここでは聖職者としての学識に関する試験に限定して論を進めたい。
私自身も数年間、日本聖公会京都教区の聖職試験委員を経験して感じたことは、試験を実施する側がこの試験の基本的性格を理解していなくて、試験の内容がいわゆる「選抜型」の試験になっているということであった。その結果、「最低基準の判定」ではなく「より高度な学識」を問う競争型の試験になっているということである。
この不毛な試験の問題は受験生の側にあるのではなく、試験を実施する側、問題作成者側の姿勢の問題である。この試験というものについての基本構造を理解しないで、やたらに高度な神学的知識を問うことには意味が無い。むしろ、聖職者として生きるための常識を問うことが肝要であろう。
その意味で、自動車学校のペーパーテストなどは非常に参考になる。いわゆる、3択あるいは4択のテスト、あるいは空欄を埋めるテスト、あるいは間違い探し、2つの文章を線で結ぶテスト等々色々なテスト形態が考えられる。また、「考える」型のテストというより、瞬時に正誤を判定するテストが好ましいと思う。そのためには答案も50問とか100問ぐらい出して、時間内にどれだけ答えられるかというテストの有効であろう。
聖職者にとっては「考える能力」も無視できない。むしろそれは論文提出という形で実施すれば十分であろう。それも各学科ごとに出すのではなく、総合的に、例えば「良識とは何か」とか「聖書は神の言葉だということについて」とか、「基本的人権についての聖書的根拠」とか、3題か4題ほど提示してその中の一つについて1,000字程度で論じさせれば、考える能力は判定できるであろう。

金丸 勝彦さん、Luke Etsuzou Nomahさん、藤岡 秀興さん、他72人が「いいね!」と言っています。

大坂 太郎 以前所属団体の補教師検定の試験問題作成者だったことがあり、大いに考えさせられました。「聖職者として生きるための常識を問うことが肝要」とは全くその通りだと思います。

岡村 章乃 · 共通の友達: 文屋 知明さん、他16人
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北村 良輔 私は試験委員ではありませんが、広報PRの資格に関する協会活動に携わっております。文屋先生の仰る意味が広報PRの資格においても重なる部分が大いにあります。ありがとうございました(^^)

文屋 善明 実際、私は「組織神学」の問題を作成しましたが、大変な作業でした。常識化している知識を問題形式にするということには大半な工夫が必要です。その時思ったことは、人間が人間を試験するという時、受験者より発題者のほうが「苦労する」ということが当然だと思いました。

河原 忍 志願以前の段階で立往生しています。

文屋 善明 例えば、聖餐論についていくつかの節を短文で表現して、ルター、カルヴァン、ツウィングリ等の名前を並べて、線でつなぐ、なんていう問題は答えより、問題作成のほうがはるかに難しいですが、それによって受験者の「常識」がはっきりします。ちょっとひねって、ウエスレーという名前などを混ぜておくと、混乱するでしょうね。

濱 和弘 今、私たちの教団では、教師に認容される際の試験は面接のみ、聖書学院の教育を信頼していると言うことでしょうか???。その後、教師試補と補教師になる際には、5人の検定委員が出題するブックレポートと面接。正教師になる段階では、修訂単位数を所得する為のレポート(9つだったけな)と5名の検定委員が出題する論文(8000字以上)となっています。今、妻がその論文に取り組んでいる最中です。

文屋 善明 だから、各教科の専門家が出す問題は「非常識」になりやすい。例えば、教会史の専門家が出す問題は特殊な問題になりやすい。従って、各科の教師たちが共同で問題を作成するのが相応しい。

Akira Ueda 日本キリスト教団では、6つ以上に及ぶ神学教育機関の課程を認めており、教会史の講座を設けていないところもあります。そういったところで勉強し真剣に牧師となることを志している人が、最低限何を知っているべきかということについて、枠を設けるのが検定試験の目的の一つです。これは神学教育の多様性を担保するためとも言えます。
持ち込み可にしてある教科では、文章で回答せず当該箇所を示すだけの答案などがあるそうです。どんな教科でも日本語が基本なので、最低限以上のことをどう文章で表現できるかというのは、学力のいわば基本なのではないでしょうか。(牧師志願者だけが昨今の学力崩壊から自由なわけはありません。)
尤も、これでわかるのは一種の「要領のよさ」に過ぎません。それでどんどん牧師になられても困るので、「学業は検定試験のすべてではない」ことがはっきりしなければなりません。教団では4つの基準の一つに学力がある、と規定されています。
ドイツでも、複数の神学部を抱えている領邦教会ではいろいろ苦労もあるようですが、ペーパー試験の中身を工夫することにとどまらず、志願者への複数回の事前面接などいろいろ工夫しているようです。

文屋 善明 私が実例を揚げた理由は、その程度でいいという意味です。こういう問題を100問ぐらい出すと、受験者の神学的常識(基本)はわかります。標準で80点程度、合否ラインを60点程度。

武者 龍男 全く御意にござりますね。非常に共感しますね。

文屋 善明 結局、私の提案は委員会においては賛意を得られましたが、それにもかかわらず出てきた問題は従来通りの、神学校の期末試験のような試験問題でした。それで、私は試験員を辞退いたしました。私の結論、試験官たちには問題作成能力がないということでしょう。

Akira Ueda 確かに百ぐらい作れば四択でもフェアとなるでしようね。過去問を公開することが試験の意義にもなっているくらいで、受験者には準備の具体的な示唆を与えられます。毎回作るなら検定委員の人手を増やす必要がありそうです。

文屋 善明 何を問うかということだけが、問題で、作業自体はコツさえ掴んでしまったら難しくはありません。そこで問われているのは検定委員の「常識」です。高校の教師たちは毎日それをしているのです。業者から問題集を買ってごまかす教師もいますが。

Tomomi Spennemann-Oshima そんな試験をするから、教会が閉ざされてしまっているのかも知れませんね。牧師という職業が、どんなにか「心」の大切かが分かるのに!

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