ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 12/01~12/07

2013-12-07 08:04:00 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 12/01~12/07

日々の聖句2013 12月01日(日)

あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。(申命記16:17)
善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。(ヘブル13:16、口語訳)
私の黙想:
仮庵の祭(秋の収穫祭)に参加する者の心得(マナー)。ここでは「主より受けた祝福」とはその年の収穫を意味する。各自収穫に(収入)応じて献げ物(献金)をする。各自の収入にそれほどの格差のない社会では、これでうまく行く。しかし現代のように収入の格差が大きいと、その通りに実行されると献金額に大きな差が出て、かえって教会運営上問題が起こる。従って適当にバランスをとることになる。このようにして、教会内における経済感覚と一般社会での経済感覚に大きな差が発生する。お金持ちにとってはほんのポケットマネーに過ぎない額が貧乏人には生活費となる。まだ誰も手をつけていないが、全信徒(聖職も含む)の所得税と献金額とを対比してグラフにしたら面白い発見が見られるであろう。 ああ、今日は主日だと言うのに、とんでもないことを黙想してしまった。主よ、お許しください。

日々の聖句2013 12月02日(月)

あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。(出エジプト23:3)
心の底から新たにされなさい。(エフェソ4:23)
私の黙想:
この部分(20:22~23:33)は、(モーセの)十戒に基づく条例のような戒律。特に、この部分(1節~9節)は「隣人に関して偽証してはならない」の具体的な条項である。厳密な語義上の解釈はともかく、この文章を読むとき、私には「多数者に追随する」こと自体が「悪」であるという印象を持つ。当然、多数者の意見が常に「悪」だとは限らないし、むしろ多数の意見の方が「正」の場合が多いであろう。しかしこの言葉には、多数の意見に追随すること自体が悪とされる。特に、ここでは「法廷での証言」という文脈で取り上げられている。その事件において「あなたは何を見たか」「あなたはそれをどう思ったのか」「あなたの意見は」。
この旧約聖書の聖句に対して取り上げられている新約聖書の聖句は強烈である。「心の底から新たにされなさい」。本来これらの聖句は全く別な文脈であり、組み合わせることは、変な関係である。しかし、これを強いて組み合わせると、大勢の意見に追随しないで私の判断を述べるためには、「心の底から新たにされなければ」出来ないことである。つまり、事件そのものに関わる全ての先入観を取り除き、完全な白紙状況から見直さなければならない。これは実にクールな作業である。親子関係、友人関係、利害関係、主従関係、等をすべて取っ払って、事件そのものと私とが対峙しなければならない。これは実に至難の業である。証言するということはそういうことである。

日々の聖句2013 12月03日(火)

わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。(出エジプト6:7)
神は、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、すべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソ1:22~23)
私の黙想:
「あなたたちを民とし、わたはあなたたちの神となる」 という思想は、旧約聖書に無数にあり、新約聖書の最後の書、ヨハネ黙示録の最後の部分は21章から22章にある「新しい天と新しい地」との描写の中には、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21:3~4)という言葉が見られる。つまり「人間が神の民となり、神が人間の神となる」という神人関係が旧約聖書・新約聖書を貫く理想の姿である。しかも、それは人間側からの行為ではなく、全面的に神からの「仕掛け」による。逆に言うと聖書はこの理想が人間側の行為によって破壊され続けた物語という読み方も可能である。人間とは「神の顔を避ける存在」(創世記3:8)、「神から逃避する者」(ヨナ1:3)であり、神は人間に「どこにいるのか」(創世記3:9)と問いかけ、「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」(ルカ15:4)神であると語る。

日々の聖句2013 12月04日(水)

わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。(イザヤ65]19)
わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。(2ペトロ3:13)
私の黙想:
今日の聖句を含む詩の冒頭の言葉が「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(17節)と述べ、さらに「見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとしてその民を喜び楽しむものとして、創造する」(18節)と語る。「新しい天と新しい地」としてのエルサレム。この詩の主旨は、そのことが神の喜びでもあるという点にある。単に私たちが思い描き、待望する「理想」ではなく、神自身もワクワクする思いをもって完成を待つ。古い聖堂を解体し、新しい聖堂が完成するのを待つ信徒たちの思いと共通する。

日々の聖句2013 12月05日(木)

神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした。(詩66:20)
イエスはサマリアの女に言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方から頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(ヨハネ4:10)
私の黙想:
苦しい時の神頼み。何か後ろめたさがあるのか。詩人は苦しさの中で神に祈る。祈り自体は純粋である。その祈りを神は聞き入れて下さった。神は普段どんなにご無沙汰していても、苦しい時に「助けて」と祈れば聞いて下さる。友人の奥田知志さんが茂木健一郎さんと共著で『 「助けて」言える国へ~~人と社会をつなぐ』(集英社新書)を出された。「助けて」という声を発するか否かは、苦しんでいる人の側にある。しかし苦しんでいる人が「助けて」と声を出せるのはそれを受け止めてくれる人がいること、それを聞く社会があることによる。「特定秘密保護法案」は「助けて」という声を封じる法律である。大きな声で「助けて」と叫けんだとき、それを「テロ」と同じだという国では誰も「助けて」と叫ぶことが出来なくなる。この法案の一番問題点はそこにある。

日々の聖句2013 12月06日(金)

主なる神は、朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。(イザヤ50:4)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)
私の黙想:
「朝ごとに私の耳を呼び覚まし」、普通は「目を覚ます」というところ、弟子は「耳を覚ます」。神の言葉で「耳を覚ます」。預言者にとっては重要なのは目ではなく耳だ。旧約聖書での最初の預言者となる少年サムエルは神殿で寝ていた。夜も明けない、まだ暗いとき、ヤハウエの言葉を聞く。サムエルは師エリが呼んだと思いエリのもとに走る。エリは呼んでいないと言う。サムエルは二度寝をする。また声を聞く。3回繰り返され、エリはその声の主がヤハウエだと悟る。次にサムエルが声を聞いたとき、」サムエルはエリの言葉に従って「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答える。これが預言者サムエルの誕生である。
「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」(1サムエル3:19)。
神は「朝ごとに」弟子に新鮮な言葉を語る。それを聞く瞬間前まで、予想もしていなかったこと、考えもしていなかった「新しい言葉」を語られる。これを「聞く」のが楽しみで朝ごとに目を覚ます。いや、「耳を覚ます」。

日々の聖句2013 12月07日(土)

恐怖に襲われて、わたしは言いました。「御目の前から断たれた」と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声を、あなたは聞いてくださいました。(詩31:23)
キリストの言葉:わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(ヨハネ10:14)
私の黙想:
普段どんなに偉そうなことを言っていても、人間は弱い存在である。人間は危機的な状況に陥ると何を言い出すか分からない。「恐怖に襲われて」、「驚きあわてて」(口語訳、文語訳)「恐れうろたえたとき」(フランシスコ会訳)、「あわてて」(新改訳)、「恐れ惑い」( 祈祷書訳)、口走ってしまう。「神から見離された」と。しかし、私の体験から言うと、これは違う。そんな時に、人間は「神から見離された」などと口走らない。むしろ「神のことをすっかり忘れている」。少し落ち着いてから、「あのとき私は神さまのことをすっかり忘れていた」と思う(反省)。だから、「もう神さまは私のことを見離しておられるのだ」と思う。これが実体験であろう。そして、恐る恐る神に祈る(懺悔)。そのとき、『私の祈りを聞いてくださる」という事実に驚く。いや、あの時も神さまは私と共におられ、私をも持っていてくださったのだ、ということを悟る。こういう経験を一度でもすると、もう神から離れられない。これは神学や聖書観や教会観とは全く次元の異なる経験である。

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