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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/08/09~08/15

2015-08-16 08:43:27 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/08/09~08/15

2015日々の聖句 08月09日(日)
主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。(歴代上28:9)
あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイ6:6)
私の黙想:
今日の聖句は、ダビデ王がイスラエルの全指導者を集め、後継者をソロモンと定め、念願の神殿建築をソロモンに託す場面で、息子ソロモンに述べた非常に厳しい言葉である。神には誤魔化しは利かない。人は騙せても神はすべてお見通しである。このことは誰でもすぐに分かるような「普遍的な真理」である。何故、何を考えて、ダビデはわざわざ息子ソロモンに述べているのだろうか。ここからは、推測にすぎない。確かなことは神にしかわからないダビデの心の奥底の秘密であろう。私は思う、この時のダビデの心境は神殿建築という「大事業」を神は許されなかったということである。その理由は3節でいろいろ述べられている。それが本当だろうか。私は問われているのはダビデが神殿建築をしたいと思った「ホンネ」にあると思う。ダビデはすでに多くの良いことをしてきたが、それらはすべて過去のことであり、未来には繋がらない。ダビデは人生の最後に「歴史に残る名誉」が欲しかったのではないだろうか。「神のために」という大々的に掲げられた理由は、実はダビデのホンネを隠すためのものであったのだろう。それを神から見透かされてしまった。実は、それがダビデに神殿建築が許されなかった本当の理由ではなかろうか、と私は思う。

2015日々の聖句 08月10日(月)
主が勝利を得られるために、兵の数の多少は問題ではない。(サムエル上14:6)
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)
私の黙想:
今日の聖句はサウルの息子ヨナタンがペリシテ軍と戦ったときに、ヨナタンが部下を一人だけ連れて敵陣に乗り込んだときに部下に語った励ましの言葉。口語訳ではこうなっている。「多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。大枠ではほぼ同じ内容であるが、表現がかなり違う。この句だけを取り出すと、ぜんぜん違うといえるほどだ。フランシスコ会訳では「勝利を得るためには、人数の多い少ないは主にとって問題ではない」。新改訳も面白い。
「〜〜をするためには人数の多少は問題ではありません」。どこかで聞いた言葉である。「幾万人反対すれども、我征かん」。信念に基づく非常に勇ましい言葉で、主体性を示す言葉である。これの反対の言葉が「付和雷同」。こちらの方はほぼ完全にマイナスイメージだ。言葉というものは、その使う状況、語る人、聞く人によって、ずいぶん違ってくる。ヨナタンのこの言葉の前には「主が我々二人のために計らってくださるにちがいない」という言葉があり、人数の多少は問題ではないというのは、ヨナタンにとってではなく、「主にとっては」である。ここが一番肝心な所。この確信がない場合には、ただの無策・無謀にすぎない。

2015日々の聖句 08月11日(火)
モーセへの主の言葉:民を集めなさい。わたしの言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう。(申命記4:1)
バルナバはアンティオキアに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。(使徒言行録11:23)
私の黙想:
今日の聖句、いろいろなことを考えさせられる。だが、今日は少し捻って、モーセへのこの言葉を、教会の礼拝として考えてみる。これこそまさに教会の礼拝の「原型」である。「(主の前に)集め」、「主の言葉を聞かせ」、「畏れることを学び」、「それを子らに教える」。
ここに教会の役割のすべてが書かれている。

2015日々の聖句 08月12日(水)
今、あなたたちは主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕え、他の神々を除き去って、主に仕えなさい。(ヨシュア24:14)
わたしはあなたがたが、なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。(ロマ16:19)
私の黙想:
イスラエルの民全指導者に対するヨシュアの最後の演説。要するに、民族の最高指導者による「談話」である。2節の後半から13節までの長い文章は「主の言葉」であるという。ここでヨシュアは民族の祖アブラハム以来の全歴史を振り返る。そして現在「あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている」(13節)と言う。14節からがヨシュア自身の言葉となる。この言葉の中で、本日のローズンゲンでは「他の」と総括されて述べられているが「あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々」という言葉がある。つまりこれが民族の「恥部(=罪)」である。民族の最高指導者ヨシュアは明白に民族の罪を指摘し、反省することを宣言し、この演説に不満のあるものは出て行けと語る。その上で、すべての民が出て行っても「 わたしとわたしの家は主に仕えます」という。なんという強い言葉であろう。
この演説を受けて、民族の指導者たちは「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」と答える。
首相談話もこれほどの迫力を示して欲しい。

2015日々の聖句 08月13日(木)
わたしたちの主は大いなる方、御力は強く、英知の御業は数知れない。(詩147:5)
神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ロマ8:28)
私の黙想:
イスラエルの民の「神自慢」である。「子の親自慢」といって笑われるかもしれない。笑われたっていいではないか。自慢できる親を持つことは幸である。主観的だと言われようと、そんなこと構わない。親子関係において、客観性が何の役に立つ。私の親より、もっと力強い者、偉い人、高学歴の人、頼りがいのある人は世間にたくさんいるかもしれない。それが何だ。彼らは私のために何かしてくれるのか。私が弱っている時、困っている時、食べるものがなくて死にそうな時、私が世間から批判され、糾弾されるようなことがあっても、何かしてくれるのか。私の親は、自分が食べなくても私に食べさせ、そのために恥も外聞も恐れず、守り、助けてくれる。それが「私の親だ」。私たちとヤハウエとの関係はそういうものだ。イスラエルの民はそのように歌う。

2015日々の聖句 08月14日(金)
いと高き方はあなたの避けどころです。(詩91:9)
イエスの祈り:わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)
私の黙想:
今日の聖句は新共同訳とも口語訳とも違う。勿論、フランシスコ会訳とも新改訳とも異なる。おそらくドイツ語聖書からの翻訳であろう。ちなみに新共同訳ではこうなっている。「あなたは主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした」。まそら原文では、先ずキー(なぜなら)で始まり、「あなたは、ヤハウエよ、あなたの避けどころ、あなたはあなたの住まいを、いと高き所においた」ということか。この詩の冒頭の言葉は「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ全能の神の陰に宿る人よ」で、おそらくこの文章の言い換えであろう。文章全体が「あなた」を主語にしているので、誰が語っているのかよく分からない。「私」という1人称は14節以下に出てくるが、これは明らかにヤハウエを指している。ただし、これはカッコの中にある引用文で、ここでは本文の「あなた」が3人称の「彼」になっている。こうなると、文章そのものの解釈というよりも言語習慣の違いが目につく。この辺の所を文語訳は見事に「解決」している。「なんじ先に言へり、エホバはわが避所なりと、なんじ至上者(いとたかきもの)を住居(すまい)となしたれば」と文章の途中で切っている。
要するに、信仰者はこの世のゴタゴタから全く隔絶した「至上」に生きる根拠を持っているのだ。だから、地上のつまらないことに害されることもない。「あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く」(13節)のだから、勇気を持って行きよ。この言葉はマルコ福音書でイエスが弟子たちを宣教に派遣するときの述べられた最後の言葉につながる。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マルコ16:17~18)。

2015日々の聖句 08月15日(土)
主よ、御目は、真実を求めておられるではありませんか。(エレミヤ5:3)
あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。(ヘブル13:7)
私の黙想:
今日の聖句を実際に聖書を開いて読んで、目はその直前の一句に釘付けにされてしまった。「主は生きておられる」と言って誓うからこそ、彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。何が問題か。「主は生きておられる」と言って誓うからこそ、その誓い真実の誓いなのではないか。その通りだ。何も問題はない。自分の言葉の真実性を保証するのは「生きている主」である。何が問題なのか。自分の言葉の欺瞞性を隠すために、主を持ち出していることが問題なのだ。語っている言葉は、良いことを言っている。いくつか問題点があったとしても、「全体として」問題がない。良く出来ている。「主は生きておられる」という言葉まで持ちだして、得意そうに語る。騙されてはならない。それが「根本的に」偽りなのだ。内側から出て来た真実の言葉ではなく、「口先だけ」の作られた言葉なのだ。
その上で、今日の聖句。主は「美しい」演説を求めているのではない。「真実」を求めておられる。主の目は節穴ではない。真実と偽りとを見分けられる。「エルサレムの通りを巡り、よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか、正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう」(1節)。

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