ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 04/01~04/07

2012-04-08 09:11:42 | ローズンゲン
losungenj 2012.04.01(sun)
見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。主の戒めに聞き従うならば祝福を受ける。もし、主の戒めに聞き従わないならば、呪いを受ける。 (Deu11:26-27,28) 天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。 (Mat13:45-46)
私の黙想:絶対者との関係において、信じるか信じないかという選択は現実的ではない。結論が決まっている選択は選択にならない。信じたいけれども信じられない。常に絶対者の前では「信なき我を憐れみ給え」としか言えない。これこそがキリスト教信仰の本質である。
losungenj 2012.04.02(mon)
主を求める人よ、心に喜びを抱け。(Ps105:3) なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 (Lk24:5)
私の黙想:「主を求める人」は心の中に何か喜べない事情を抱えている。その人に「心に喜びを抱け」と呼びかける。この不躾さ、矛盾した言葉の中に、信仰者のあるべき姿が描かれている。苦しいからこそ、そこで笑顔を絶えさず、笑って過ごす。これは「無理」ではない。

losungenj 2012.04.03(tue)
エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。 (Isa40:2) キリストは十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪のために死んで、義によって生きるようになるためです。 (1Pet2:24)
私の黙想:
今回の病気(膵炎)の原因は何か。いろいろと思い当たることがあるが、どれが決定的か断定できない。医者も「分からない」という。しかし少なくとも、それは「咎」ではない。それを「咎」と思い込ませ、懺悔を促すところに宗教の罪がある。

losungenj 2012.04.04(wed)
主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。 (Num6:26) あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 (Phi4:7)
私の黙想:この種の言葉群の中では最高の表現。神が私の方を見ているというだけで神の恵みは私に十分である。真の情愛とは言葉でも行為でもなくただ「顔を向けて見る」こと。親は子の顔を、子は親の顔を、夫は妻の顔を、妻は夫の顔を、恋人同士は他の誰でもなくただ相手の顔を見る。これが信仰の極地である。その逆が「顔を背ける」。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15:34)。

losungenj 2012.04.05(thu)
まことに憐れみ深いあなたは彼らを滅ぼし尽くそうとはなさらず、見捨てようとはなさらなかった。(Neh9:31) 主イエスは、パンを取り、感謝の祈りを捧げて裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念として行え。」また、杯も同じように「この杯は、わたしの血による新しい契約である」と言われた。 (1Cor11:23-25)
私の黙想:今日の聖句を読んで「執行猶予」という言葉を思い起こす。厳しい論証と論理の積み立ての結果としての判決に対して、それを執行するのを猶予するという「付加」は理解できない。猶予期間が長い方が重いのか、軽いのか。人間は神に対して無期執行猶予期間中の罪人だという。

losungenj 2012.04.06(fri)
エルサレムよ、あなたの城壁の上にわたしは見張りを置く。昼も夜も決して黙してはならない。(Isa62:6) 私(パウロ)があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。キリストが、聖書に書いてある通りわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことです。 (1Cor15:3-4)
私の黙想:ここでの「見張り」とは敵に対するものではなく、城壁の内部の人々が敵に囲まれているという危機的状況を忘れて「寝込んで」しまうことのないように警告を発し続ける見張りである。宗教は危機的状況を忘れさせる麻薬となるか、それともやかましい警鐘となるか。

losungenj 2012.04.07(sat)
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないとあなたを憐れむ主は言われる。(Isa54:10) キリストの言葉:わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 (Joh14:27)
私の黙想:
今日は墓の中。墓とは別世界への入り口。イエスは「あの世」に行ってしまった。大きな石があの世とこの世とを隔てている。「(2人の女たちは)イエスの遺体が納められた場所を見つめていた」(マルコ15:47)。先週の日曜日に説教するはずだったテキストである。
三浦三千春:その説教も、墓に葬られたんですね。
私:いえいえ、未だです。これが私の十字架理解の核です。もう少し深めます。「埋葬」が十字架の死と復活とをつなぐ重要な要だと思っています。

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