ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 04/08

2012-04-09 06:32:56 | ツイッター
御復活お目出度うございます。今日も皆様方に上よりの祝福が豊かにありますように。昨日は一日外出もせずにゆっくりした。息子が様子を見に来た。午後11時に就寝。今朝は6時に起床。身体の火照はかなり治まったが、足のしびれはひどくなっている。今朝は足の甲に湿布。体調快調。チュン、チュン
posted at 06:21:17

#losungenj 04.08(sun) 苦役を課せられて、かがみ込み、屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。(Isa53:7)
posted at 06:24:39
#losungenj しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 (1Cor15:20)
posted at 06:24:53
#losungenj 私の黙想: 口語訳では「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」である。文語訳では「口を開かない」の前に「謙りて」という語が挿入されている。
posted at 06:31:15

文屋 善明 門叶さん、今朝は門叶さんの解釈を先に読みましたのでかなり影響を受けています。

門叶 国泰 今朝は、7時半には家を出るため、4時半に起きたので!明日は、寝坊します。文屋先生の黙想をゆっくり味わってから!

今日の名言: RT @wisesaw:
テレビという娯楽は、数百万人の人々に同じ冗談を聞かせながら、 それでいて各人を孤独のままに置く。 (エリオット) 
<一言>「うーん」と唸ってしまうような名言である。テレビの前で独りで笑えるか。笑いを共有する者がいて、初めて笑える。
posted at 06:41:40

「昨日のツイート 04/07」をブログにアップしました。 http://t.co/j5RdGiHO
posted at 06:54:28

「今週のローズンゲン 04/01~04/07」をブログにアップしました。 http://t.co/Q0WRMbDj
posted at 09:15:28

家内と孫息子とは近くの御受難修道会での礼拝に出かけた。私は一人で自宅で復活日についての黙想。
posted at 10:47:42

家内と孫息子とがイースター礼拝から帰宅。カトリックでの礼拝は無駄なもの(人間的要素)が洗い落とされスッキリしているとのこと。
posted at 13:25:27

孫息子が西宮に帰りました。
posted at 15:12:07

宗像の教会の牧師さんと信徒の方がイースターエッグを届けてくれました。感謝。
posted at 15:23:58

息子のところの長男(高校2年)が弓道の昇段試験に合格し初段になりました。弓道を始めてわずか1年で有段者、彼は武道に才能があるようです。彼は既に剣道では2段なので合計3段ということになります。
posted at 21:00:43
加藤 治 凄いですね、残るは柔道ですか。しかし、聞いたことがない。
文屋 善明 彼が剣道から弓道に変更した理由は1対1での勝負が嫌だったということらしく、弓道なら自己との戦いで「完成された形」が気に入ったものと思われます。だから柔道はないでしょう。

<息子のTwより>復活信仰雑感
一昨年のイースターは連れ合いと長男が出かけていたので、次男と長女と一緒に近くの黙想の家の森を散歩しながらイエスの最後の1週間を追いかけました。今年も黙想の家に行って礼拝に出席しようと思いましたが、父に習い(笑)自宅でイエスの死と復活について考えていました。
先日、ノンクリスチャンの同僚に「イエスの復活って本当だと思う?」と質問されました。この質問、するどい。キリスト教の核心をついています。日本人はキリスト教というと、クリスマスというイメージを持っているようですが、キリスト教にとってクリスマスはさほど重要ではありません。確かに教祖であるイエスの誕生が大切であることは否定しません。しかし誕生は宗教としての核心ではなく、クリスマスはいわばキリスト教の宗教としての性質を示すものです。
キリスト教は自身のミームの複製を維持・拡散させるためにさまざまな宗教と融合しました。クリスマスというのはそういうキリスト教の性質を端的に示す行事です。それはさておき・・・先の核心を突いた質問に対してクリスチャンはなんと答えるのか?実はけっこう曖昧に答える人が多いように感じています。
医学的に(科学的に)考えれば、心臓死にせよ、脳死にせよ、医学的に死が確認された場合、死人が蘇るということはありません。しかし「死んだ」と思われていただけで仮死状態になっていた場合には「死んで蘇ったように」見えることがあります。実際、イエスの死を「仮死状態」と考える人はいます。個人的にはラザロの死は仮死状態だったのではないか、と考えています。
さてイエスの場合、聖書をよく読むとイエスは十字架刑に処されたわけですが、十字架刑というのは、失血死と窒息死が合わさったような形で死亡する処刑法です。手首(手のひらではない)と足首(足の甲ではない)の動脈に釘を打ち付けられ、自分の腕と胸の筋肉がひっぱられることによって首が絞められた状態になる十字架刑は、失血死か窒息死、あるいは両方が死因となります。人によって死に至るまでの時間は様々ですが、イエスの場合は断末魔の叫びを上げていることから、明確に死亡しています。
だから死んでしまったイエスが肉体をともなって蘇るということはありません。ミイラが蘇るような形での復活はなかったということです。
しかしクリスチャンのなかには、「イエスの生前と同じように肉体も復活した」と考えている人がいます。私はこういう復活はなかった、と考えています。キリスト教の中心的な思想を形成した(というか、キリスト教という宗教をつくりあげた)パウロもイエスの身体の復活を信じていなかったようで、「イエスの肉の体は死んだが霊の体で蘇った」と主張しています。これがミソです。「霊の体が蘇った」というのは、結局、見える人にしか見えない、ということを意味します。
クリスチャンといっても人によってイエスの死と復活の捉え方は違う・・・ということです。肉の体で蘇る、霊の体で蘇る、あるいはこの「復活」というのはアレゴリーであって別の事柄を示している、などいろいろな解釈があるということになります。
だから人によって復活については曖昧な表現になります。ただ自分のことを「クリスチャンだ」と公言している人に共通していることがあります。それはキリスト教が長い間継承してきた「信仰告白(信条)」を受け入れているということです。この信仰告白には
「聖書にあるとおり三日目に復活し」という言葉があります。つまりクリスチャンであると公言するということはコンテンツはバラバラかもしれませんが、「復活」を「信じている」ということになります。
このことがクリスチャンの「救い」へとつながります。クリスチャンはイエス=救済者と信じるのですが、その核に「復活」があるのです。だから・・・クリスマスではなく、イースターが重要なのです。
残念ながらイースターは太陰暦に基づいて定められたイベントであるため、毎年日付が変わりますし、日曜日です。クリスマスのように毎年定められたイベントとして祝いにくいのです。本来は、キリスト教を建学の中心にすえるキリスト教主義学校でも教会と同様にクリスマスよりもイースターを盛大に祝うべきですが、祝うべき日に学校があいていない、ということで祝われてはいません。きわめて残念です。

<補遺>孫息子を赤間駅まで送っていき、帰りは私自身が運転した。病後初めての運転。足がかなり弱っている。


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