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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/4/1~4/7

2018-04-07 11:14:47 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/4/1~4/7

2018 日々の聖句 4月1日(日)
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう。あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。(申命記28:2~3)

イエス・キリストのことを思い起こしなさい。(わたしの宣べ伝える福音によれば、)この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。(2テモテ2:8)

私の黙想:
「申命記史観」という言葉がある。この「史観」は捕囚期に形成されたと思われる。その史観に基づいて書かれたのがヨシュア記以降のいわゆる歴史書の基本的な歴史観である。キータームが、今日の聖句、律法に「従えば祝福、背くと呪い」である。
今日は復活日だ。何故この日の聖句がこれなのか。ただ単に「くじ」で選ばれただけのことか。そうではないだろう、と思う。この日、復活ということなしにこの日は始まらない。新約聖書の聖句では「復活」という単語がみられる。
申命記史観はイスラエル史におけるどん底、バビロン捕囚の中で捕まれた歴史理解である。死んだような民族の現実の中で、過去を「思い起こし」、この歴史観が把握された。そしてこの歴史観に従って、現実的な民族史が書かれた。
イエスの弟子たちはイエスの死という現実の直面し、失意の中で、イエスとの日々を「思い起こした」。そこで始めてイエスの本性を自覚した。
「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(使徒2:24)。神はイエスを墓の中に見棄てるはずがないではないか。

2018 日々の聖句 4月2日(月)
わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。(詩22:3)

二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。(ルカ24:29)

私の黙想:
今日の聖句は、神による無理難題。昼間、どれ程一生懸命祈っても答えてくれない。疲れ果てて、夜には寝たいのに寝させてくれない。一体どういしたらいいのか。今日の聖句何か違和感がある。祈りに答えるつもりが内なら、せめて夜は寝かせてくれとぼやきたくなる。と考えつつ、口語訳を見ると、「わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません」。要するに、神は昼でも夜でも私の祈りを聞いてくれないので、夜になっても答えのないまま寝付かれない。
文語訳とフランシスコ会訳は口語訳とほぼ同じ。ただ新改訳は面白い。「夜も私は黙っていません」、成る程、そういうことかと思う。少しヒントとなる。岩波訳はほぼ新改訳と同じだ。「夜もまた私に沈黙はない」。関根訳はそれを別の角度から、「夜もわたしは安きをえない」と訳す。
原文を参照すると、後半の「ドーミャー(〜〜ない」という言葉をどう解釈するかである。「黙っておれない」と解するか、「安心できない」と解するか。それにしても新共同訳の「夜も、黙ることをお許しにならない」は頂けない。

2018 日々の聖句 4月3日(火)
(彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う。)<お前は>わたしに顔を向けず、かえって背を向け、しかも、災難に遭えば「立ち上がって、わたしたちをお救いください」と言う。(エレミヤ2:27)

<あなたは、>神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らない(で、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじる)のですか。(ロマ2:4)

私の黙想:
今日の聖句は「彼らの」偶像礼拝と「あなた」の御都合主義、要するに、困った時の神頼みが鋭く対比されて批判されている。その意味では、「神頼み」の対象となる「神」とは偶像と同じではないだろうか。
私は一般論としての「神頼み」を否定しない。どんなに熱心な信仰者でも、その心の奥底に「困ったときの神頼み」がある。ホントウに困ったときには、神に向かって一生懸命に祈る。それは当たり前のことである。
ここで批判されているのは、前半の「顔を向けず」、「背を向け」ということであろう。これは普段の信仰、日常化した信仰生活の問題である。
(今日の聖句は括弧の中は省かれており、<お前は>が補われている。括弧の中を省くと、偶像礼拝との対比が見えなくなってしまう。)

2018 日々の聖句 4月4日(水)
あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。(詩63:8)

神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。(1ヨハネ5:18)

私の黙想:
今日の聖句のキイタームは「必ず」であろう。「あなたは必ずわたしを助けてくださいます」。力強い言葉だ。神における「必ず」は絶対である。今日の聖句での絶対は「あなたの翼の陰」である。その絶対は「私の絶対」でもある。絶対のある人生は強い。
あ〜あ、ここまで黙想して、他の邦訳はどうなっているのかと確認しようと思ったら、あ〜あ、新共同訳以外のどの訳にも、この「必ず」がない。ヘブル語原文にもない。あ〜あ、どうしよう。この黙想を全部廃棄してしまおうか。残すとしたら、どの様にして残すべきか、「助けてください」と祈りたくなる。
そうだ、他の訳を見なかったことにしよう。何しろ新共同訳は日本聖公会総会で決議された公式の聖書なのだし、一般の信徒はこの訳の聖書しか読まないし、この訳によって生かされているのだから。聖書においては翻訳のプロセスの際においても「霊感」が働くのではないだろうか。

2018 日々の聖句 4月5日(木)
地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。(イザヤ45:22)

(この方)<イエス・キリスト>こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(1ヨハネ2:2)

私の黙想:
全世界に対する堂々たる神宣言。ヤハウェはもはや「イスラエルだけの神」ではない。これは決して観念的な「信仰」の問題ではなく、具体的には大帝国バビロンに対しても神であることの宣言なのだ。だから、この宣言はスゴイのだ。
「私の神」に対するこの確信。それはポンティオ・ピラトの前に立つイエスの姿でもあった。
ローマ大帝国における貧しいキリスト者にも受け継がれた。
それは明治期の日本のキリスト者の確信でもあった。彼らには深い神学的知識を持ち合わせていなかった。しかし彼らにはこの確信があった。だから彼らは堂々と自分たちの信じるところを人々に語った。

2018 日々の聖句 4月6日(金)
主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。(詩126:1)

イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。(このマリアは、)以前イエスに(七つの)悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。(マルコ16:9~10)

私の黙想:
生々しい喜び。そこには驚きがある。そんなことは考えられないことが起こったという喜び。想像もしていなかったことが起こったという驚き。
「シオンの捕らわれ人」という言い方に首をかしげながらも、それがバビロンに捕囚されているイスラエルの人々だと言うことは明らかである。今日の聖句はその人たちが祖国に帰還することが「夢を見ているようだ」という。
ところが、口語訳では「主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった」と訳している。新京津訳は珍しく文語訳の路線である。因みに関根訳(文庫版の関根訳だけを病院に持参した)では、「ヤハウェがシオンの運命を変えられたとき、われらは夢見る者のようになった」と訳しておられる。三者三様で、同じ原文の訳文とは思えないほどであるが、ここではそのことに深入りしない。
この詩について関根先生が解説で面白いことを述べておられる。「この詩で問題になるのは、1節で既にシオンの運命が変えられた、とあるのに4節でまた同じことを祈っている点である。(中略)しかし祖国帰還後も神殿建築も進まず、生活は困難を極めた。それ故4節の祈りと矛盾しないと解したい」。聖寝先生の解釈によると、祖国帰還はバビロンから解放されただけで終わるのではなく、神殿再建までのプロセスで、この詩はその中間に位置づけられるのであろう。信仰には常に、「既に」と「未だ」との間にある。

2018 日々の聖句 4月7日(土)
(彼らは銀を外に投げ捨て、金は汚れたものとなる。)主の怒りの日には、銀も金も、彼らを救うことができないからだ。(エゼキエル7:19)

この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。(マタイ25:45)

私の黙想:
金銀を虚しいものと見る。本当に尊いものは金銀では買えない。そんなことは誰でも知っている。しかし、私たちは「本当に貴いもの」だけで生きているのではなく、むしろ普段の生活はそれ以下のものによって生きている。生きるということを中心に考えたら、金銀は汚れているとはいえ、捨てがたいし、それを確保するために必死になるのも十分に理解できる。
今日の聖句のキイ・タームは「主の怒りの日」であり、そこでは普段の価値観が通用しない、という。それまでの価値観が通用しない。価値観の根本的な検討が迫られている。
ここで言われている「主の怒りの日」とはバビロン帝国がペルシャ帝国によって滅ぼされる日を意味するのであろう。そういう危機感がバビロンに住むイスラエル人にもひしひしと迫っている。その日にはそれまでの価値観が根本的に変わってしまう。その日にはその人の本音が問われる。それまではバビロンの支配という現実に合わせて生きてきたイスラエル人一人ひとりの本音が問い直され、金銀というバビロンでの捕囚生活の中で有効であった現実的な価値観を捨てることが要求される。
聖書ではペルシャ帝国のクロス王のことを「メシア」と呼び、多少、英雄化しすぎていると思われるが、このクロス王の命令によってすべての捕囚民は解放され、祖国への帰還が始まった。そのとき、バビロン時代にすっかりバビロン文化に馴染み、一定の成功を収めていた人たちには、それまでの現実的な価値観による財産を捨てなければならない。そのような人たちの多くは祖国帰還を拒否していたのであろう。預言者エゼキエルの使命は、彼らに呼びかけて祖国復帰を促進することにあったようである。

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