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聖研:ヨハネ福音書(01) 徴と証

2015-06-15 11:21:09 | ときのまにまに
聖研:ヨハネ福音書(01)

はじめに
ヨハネ福音書にはいろいろなややこしい問題があるが、それらの諸問題は徐々に取り上げるとして、まず最初に、ヨハネ福音書の中心問題、つまり「ヨハネ福音書は何を語ろうとしているのか」という問題を取り上げる。これは専門家であろうと、素人であろうと、この福音書を読もうと思う者、あるいは既に読んだ者にとっても、共通の「当然の課題」であり、その答えは各自が全編を丁寧に読んで、自分なりの結論を出す以外にはない。

1.不可能への挑戦
この問題について、田川建三さんは「この著者の著作目的は鮮明である」といい、著者は「イエスの何たるかを読者に示そうとした」(田川建三『ヨハネ福音書 訳と註』後書き779頁)という。その答えは「イエスが神の子である、つまり『世』を絶対的に超越した神的存在である」ことを示すことである。 単純といえば、これほど単純なことはない。
その意味ではマルコ福音書が目指していたことと対照的である。マルコはイエスの実際の事実、彼が何を言い、何をしたのか、その一つ一つの事実を可能な限り正確に読者に伝えようとした。それに対しヨハネは実際に生きていたイエスの事実、つまりイエスの生涯にはほとんど興味を示さない。ヨハネはただ一点「イエスが神の子である」ということ、父なる神がそのひとり子をこの世界に派遣したということ繰り返し語る。そのことを「論理的に」語るのではなく、神の子が本当に人間として私たちの世界に姿を顕わしたのだ、と言う。そのためには実際の出来事をいろいろ書かないと、本当にこの世で私たちに間で生きていたのだ、という話にはならない。だから彼は「福音書」というジャンルを選んだのである。
さて、ここでいきなり大問題に突き当たる。つまり、そんなことが可能なのか。この世界から絶対的に超絶している神の子がこの世に生きたというようなことをどのようにして語り、証明するのか。答えははっきりしている。不可能である。言い換えると「無理な注文」である。ヨハネ福音書の著者(以下、著者を一応「ヨハネ」と呼ぶことにする)はその無理なことにあえて挑戦し、結論としてそれは不可能であることを告白する。というより、人間として生きたイエスが神の子であるということを証明する「証拠」の提出を断念する。ヨハネ福音書の面白い所はそこにある。不可能を承知の上で、その不可能にあえて挑戦し、不可能であることを証明した。この辺の面白さが分からなければ、どこかの新興宗教の独断的な主張と何も変わらない。

2.イエスが神の子であるということ
イエスが神の子であるとは一体どういうことなのか。いろいろ議論があるが、ここでは単純に「キリスト」あるいは旧約聖書が語る「メシア」であるということとしておく。ユダヤ人たちは「神の元から遣わされるキリスト(つまり「救済者」)」の到来を待ち望んでいた。そのキリストが到来することについて、いろいろな予測がなされていた。またキリストが到来したら、この世界はどうなるのかということについても、いろいろな憶測がなされていた。それがいわゆる「メシア観」であり、聖書の「終末観」である。そしてそうなる前に何らかの予徴があると信じられていた。それが「徴」である。奇跡を特に「徴」という場合に、そういう背景がある。そしてヨハネ福音書はイエスによる奇跡を「徴」だとする。ただし、ここでは文脈をスムーズにするために「徴」という言葉と「奇跡」という言葉を自由に使い分けることとする。
ヨハネ福音書には「徴」という言葉が18回用いられている(新共同訳では17回)。それらの言葉を拾いあげてまとめると、当時のユダヤ人のメシア観が浮かび上がってくる(2:18、3:2、4:48、7:31、6:2、9:16、 10:41、11:47、12:18 )。その中でも10:41の言葉が面白い。「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」。
この場面は、イエスがユダヤ人たちから殺されそうになったので、ヨルダン川の対岸に逃げた。そこはヨハネが洗礼を授けていた因縁の場所である。そこにイエスを支持する大勢の者たちが訪れて「ヨハネはそれらしい徴を何もしなかったが、ヨハネがあなたについて言っていたことは本当だった」という。そして多くの者がその場所でイエスを信じたという。つまり徴を行うか否かということがキリストであるかどうかの基準で、ヨハネは徴を行わなかったからキリストではないが、ヨハネはイエスをキリストだと言っていたことは本当だったのだという。果たして、この言葉を聞いてイエスは喜んだのであろうか。おそらく、ここでもイエスが思っていたことは2:23~24であっただろう。ヨハネは徴を行うイエスを描きながら、徴による信仰に対して不信感を抱くイエスを描く。


3.イエスが行った徴
ヨハネ福音書では7つの「徴(=奇跡物語」)が記録されている。

(1) カナの婚礼 2:1~11
(2) 役人の息子の癒し 4:46~54
(3) 38年病の女性の癒し 5:1~9
(4) パンの奇跡 6:1~15
(5) 湖上を歩く奇跡 6:16~21
(6) 生まれつきの盲人の癒し 9:1~12
(7) ラザロの甦り 11:1~44

これらの7つの徴を詳細に読んでいくと著者の意図の半分が見えてくる。ヨハネはこれらの7つの奇跡物語をかなり慎重に選んでるようである。ここでのイエスは奇跡を奇跡のためにしてはいない。マルコ福音書では、たとえばイエスは病気治療のために各地を巡回し(マルコ1:35~39)、弟子たちをそのために派遣している(6:6b~13)が、ヨハネではそのような記事は見られない。ヨハネはこの福音書の結びの部分で、「かくしてほかにもまたこの本に書いていない多くの徴をイエスは自分の弟子たちの前でなした。これらのことが書かれたのは、イエスがキリスト、神の子であることをあなたがたが信じるためである。そしてまた、信じて、彼の名において生命を持つためである」(田川建三訳、以下すべての聖書の引用は原則として田川訳)と書いている。ここに選ばれている7つの徴は「多くの徴」の中から選ばれた7つである。それにしては、これらの7つの徴の結果「信じた」ということが明白に書かれているのは、初めの2つと最後の2つで、真ん中の3つには明記されていない。

(1) カナの婚礼 2:1~11
ここでの徴は「私の時はまだ来ていない」と言いながら行われた徴である。しかもこの徴は一部の人たちしか知られていない。注目すべきことはこの段階での弟子たちが「信じた」ということであろう。このことによって逆にイエスがなぜ徴を行うのかということが明らかになる。つまり、イエスは神の子なので、何の目的もなく、信じさせるためではなく、ごく自然に徴を行うことができる。

(2) 役人の息子の癒し 4:46~54
この出来事の特徴は、ユダヤ人たちの徴信仰に対して厳しく批判しながら行われた徴だということであろう。「あなた方は徴と奇跡とを見なければ信じない」。ヨハネは徴を行うイエスを描きながら、これは信じさせるために行ったのではないということを感じさせる。

(3) 38年病の女性の癒し 5:1~9
この癒しは病人側からの願いに応えて行われた奇跡ではない。たまたま通りかかり、たまたま出会った病人への癒しであった。しかも、それが安息日で、誰も安息日にそのような大ごとがなされるとは予想もしていなかったであろう。この出来事の最後の部分でイエスのすべての行為はイエス自身の意志ではなく、イエスを派遣した方の意志だということが述べられる。この出来事からイエスが行う徴が社会問題化する。

(4) パンの奇跡 6:1~15
この出来事の面白さはイエスの奇跡の結果、イエスをメシアだと信じた人々と、ただ満腹したことを喜んだ人たちとに分かれたことである。イエスは前者からは離れた(15節)が、後者からは追いかけ「捜され」(26節)会って話をしている。しかもそれは彼らに対する重要なメッセージであった(29節)。

(5) 湖上を歩く 6:16~21
行きずりで行われた奇跡
(4)と(5)はマルコ福音書からの引用。

(6) 生まれつきの盲人の癒し 9:1~12
神の業を顕すための奇跡。「私が世にいる限りは、世の光である」ということ。

(7) ラザロの甦り 11:1~44
イエスが生命の根源であることの徴。この出来事の意味は、ラザロが甦ったということ以上に、イエス自身が徴であるということであろう。もう少し厳密に言うと、イエス自身が生命の根源であるということを示す徴となっている。イエスが徴である。イエス自身がそこに存在しているということが生命の根源を指し示す徴である。

イエスは奇跡を行うが、一般的傾向としては奇跡を行うことには消極的である。 むしろイエスは奇跡を求めることに対して批判的でさえある(2:23~25 、4:48、6:15)。
ヨハネ福音書の結論:「あなたは私を見て、信じた。見ずして信じる者が幸いである」(20:29)。この場合の「見る」は「徴を見る」である。

4.イエスを神の子と信じる根拠は何か
では、本物の信仰の根拠は何か。それが「証し」である。これは本書全体を通して繰り返されるメッセージである。証しを聞いて信じる。実は第1章冒頭の序詞が神の子イエスとイエスを証しする証人との関係を示す詩である。
本日は細かい議論は抜きに、ヨハネ福音書の成り立ちそのものをこの詩が示しているので、そのことを解説しながら詩そのものを味わいたい。
この詩の作者はヨハネ福音書の著者と同一人物か否か明白ではない。また、その詩が原型がどういうものなのかも明らかではない。もしこの詩がヨハネ自身の作でなかったとしてもヨハネ自身がこの詩をここに置いている以上、文責はヨハネ自身にある。そのためヨハネ自身が詩の途中で彼の注釈が挿入されている。その意味では詩人はヨハネ自身であるとみていいと思う。それを一応「原詩」とすると、この原詩にヨハネ自身が注釈を書いている。元々は欄外なのか、ルブリックのようなものなのかも明白ではないが、文体そのものが散文であるので原詩と区別出来る。それが6~8節である。次に、さらに後代になっていわゆる「教会的編集者」と呼ばれる人たちの加筆挿入が行われている。原著者の註、および教会的編集者の挿入を取り除いた部分が「原詩」である。
実は、このような編集的加工がヨハネ福音書全体に対して行われているというのが、田川氏の見解である。
その作業を経て、私自身が確定したのが以下である。


超々訳ヨハネ福音書1:1~18

私訳「ロゴス讃歌」 (1~5,9~10a,14a)

始めにロゴス(があった)
神のロゴス (であった)
ロゴスは神 (であった)

神のロゴスで 始まる
神のロゴスにより 万物は生成された
神のロゴスが 万物の根源

ロゴスは 生命
生命は  人の光
光は   闇の中で輝き 
闇は   光に勝てない
ロゴスは 真の光

ロゴスが 人を照らす
ロゴスが 人の世に来た
ロゴスが 人の世にある
ロゴスが 人の世を生成した
ロゴスが 人の言葉になった

わたしたちの間に ロゴスがある
わたしたちは見た ロゴスの栄光を

原著者註:6~8節
ひとりの人が神から派遣された。彼の名はヨハネ。彼は証言するために派遣された。彼は光について証言し、その証言によってすベての人たちが信じるためである。彼は光ではない。光について証言するために神によって派遣されたのである。

教会的編集者の解説:
そして世は彼によって生じた。しかし世は彼を認識しなかった。(彼は)自分のところに来たのに、自分の者たちは彼を受け入れなかった。彼を受け入れた者たちには、神の子となる権利が与えられた。つまり彼の名を信じる者たちである。彼らは血によるのでもなく、肉の欲によってもなく、人間的な願望によってでもなく、神よって生れたのだ。(10b~13)

父なる神のひとり子としての栄光であり、恵みと真理に満ちている。ヨハネが彼について証言し、叫んだ。「この人こそ、私よりも後に来る者が私の前になった、と私が言っていた方である。人である。私よりも先に居られた方である。私たちはみな彼の満ち溢れる恵みを受け、さらに恵みを重ねて受け取ったのだ。律法はモーセによって与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストによって生じたのだ。誰もかつて神を見たことがない。ひとり子の神、父のすぐ側にいた方、その方が解説してくれたのである。(14b~18)

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