ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 10/9~10/15

2011-10-16 06:38:08 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 10月9日(日):
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り主の栄光はあなたの上に輝く。(イザヤ60:1)
あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。(1テサロニケ5:5-6)
私の黙想:
人間なんて弱い存在だ。チョとした薬の匙加減で身体に変調をきたし、精神にも影響する。今朝のローズンゲンは実に気分が良い。「起きよ」、「ハイ、起きました」。何か、身体中にエネルギーが甦って来る感じだ。

今日のローズンゲン 10月10日(月): あなたの神、主は、この広大な荒れ野の旅路を守られた。(申命記2:7)
キリストの言葉:わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。(ヨハネ6:48-50)
私の黙想:
荒野での40年、詩95によれば、あの40年は民の不信に対する神の「怒り」によるものであった。それでも、なお、神は彼らをお守りになった。旧約の神の懐の深さである。神の「一人芝居」などという奴は不見識だ。実は心のどこかでそう思っている不見識者は私自身だけど・・・・。

今日のローズンゲン 10月11日(火):
主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。(イザヤ40:13)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。(ロマ11:33)
私の黙想:
このイザヤの言葉については、ただパウロと共に「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」というしかないであろう。実際には、そのことさえも本当には分かっていないのが人間である。

今日のローズンゲン 10月12日(水):
私達は御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。(歴代誌上29:15)
このように言う人たちは、自分の故郷にまさった天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブル11:14,16)
私の黙想:
ダビデの人生最後を締めくくる祈り。神殿建築の全ての準備を整えて後継者ソロモンにそれを託す祈りでもある。神殿建築という「野望」が叶わなかったダビデは人生を顧みて、私の人生は「影」だという。この場面での「希望はありません」という言葉は理解不能。

今日のローズンゲン 10月13日(木):
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。(ザカリア9:9)
キリストはへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 (フィリピ2:8)
私の黙想:
「ろばに乗ってくる王」という預言はどれほど民衆から、あるいは知識層に受け入れられたのだろう。恐らくこの預言者は人々の「笑い者」にされたであろう。しかし彼の存在、生き方こそ、イエスの「原型」である。この預言を聖書の中に見出し、それをイエスに重ねた初期のキリスト者たちは本当に凄い。

今日のローズンゲン 10月14日(金):
わたしの主なる神は、わが力。(ハバクク3:19)
あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。(1コリント3:23)
私の黙想:
ここでは「神」という言葉が邪魔だ。文語訳では「主エホバはわが力」と訳されている。直訳すると「ヤハウェは私の力」で、ここでは「神(エロヒーム)」という一般名詞は用いられていない。「エホバ」という言葉が誤訳であることは確かであるが、これは神についての固有名詞ではないだろうか。神の名を固有名詞で唱えることと、一般名詞で唱えることとでは雲泥の差がある。それは「力」という言葉にも大きな影響力を持つ。一般名詞の「神」では力が入らない。これがキリスト教が抱える大きな問題である。

今日のローズンゲン 10月15日(土):
心の迷った者も知ることを得、つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。(イザヤ29:24)
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(ロマ12:16)
私の黙想:
この言葉は誰のことを述べているのかということが重要で、ここではそれまでイスラエルを罵っていた「彼ら」である。彼らが真実を知り、「彼ら」が見たことを正確に語る者となる。「彼ら」イスラエルの神を畏れるようになる。

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