ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(3)

2014-04-02 19:43:31 | 小論
概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(3)

Ⅳ「幸福であること」(38節~48節)
(a) 38節~41節 狂気と幸福
(b) 42節~44節 うぬぼれとへつらい
(c) 45節~47節 幸福であること
48節    閑話3:天上からの眺め

Ⅳ 「幸福であること」(38節~48節)
(a) 狂気と幸福(38節~41節)
38節 狂気には2種類ある。
愚者に対する哲学者たちの批判
愚者が幸福であるという痴愚女神の意見に対して賢者たちが反論してくることでしょう。彼らの意見はこうである。「愚の甚だしきは狂気に近い、いや狂気そのものである」と。その反論に対して痴愚女神は以下のように反論する。
彼らは狂気には2種類あることを見落としている。一つは復讐の女神(フリアエ)が地獄の底から送り込んでくる狂気であり、もう一つは私、痴愚女神からくる狂気で、後者は心楽しい錯覚であると述べて一つの実例を語る。この話がとても面白い。
ある男が、実際には何も演じられていないのに、すばらしい悲劇が演じられているものと信じ込み、何日もの間ただ一人劇場に座って、笑ったり、拍手喝采したり、喜んでいたという。ところがこの男は、普段はとても真面目で、友だち付き合いもよく、「妻にはやさしく、召使たちには寛大で、酒甕の口がこっそり切られていても怒りもせず」というふうだったのです。心配した親威縁者たちが骨折った甲斐あって、薬を飲まされて病気も治り完全に正気に返りました。この男、親戚縁者に感謝するとおもいきや、彼らに向かってこう嘆いたのです。「君たちはこの僕を助けたんじゃなくて、殺したんだ。こんなふうに楽しみをもぎとってしまったんだからな。楽しい夢想を無理矢理に奪われてしまったよ」とね。
これは笑い話ではありませんね。こんなにも幸せで楽しい狂気を、まるで不幸ででもあるかのように、薬漬けにして追い払わねばならないと考えた御当人たちこそ、癲狂治癒妙薬(ヘレポロス)を服用する必要があったのですからね。

39節 いろいろな狂気
世の中にはいろいろな狂気がある。問題は狂人なのか、狂人でないか、その違いは何かということで、痴愚女神は面白い例を上げて説明している。
かぼちゃを見てそれを女だと思う男は気が狂っている。なぜならそういう者がごく僅かしかいないからである。ところが自分の女房がたくさんの間男を作っているというのに、わが妻は貞淑だと固く信じている男は狂人とは呼ばれない。なぜなら、こうした思い違いは世の亭主族に多く見られるからだという。
続いて、各種の趣味に狂う人々を上げている。今で言ういわゆる「マニア」である。料理、建築、錬金術、賭博等々。それらを並べてみるとその狂気が復讐の女神によるものなのか、痴愚女神によるものなのか区別することが難しいことがわかる。

40節 迷信と信仰
この節と次の節は、エラスムスの時代、つまり宗教改革の直前のカトリック教会のリアルな姿が描き出されている。むしろ、この部分を語るために、この作品が書かれたのではないかとさえ思われる。ともかく、非常に面白い。ルターが突然登場して、宗教改革が起こったのではなく、エラスムスのこの作品を買って読む階層がいたこと、おそらくルターこの書を読んで大きな刺激を受けたであろうと想像される。従って、ここは全文掲載する。ここはあまりにもリアルすぎて痴愚女神の発言というよりも著者自身の声のようである。という訳でこの節は少々丁寧に読むことにする。

不思議で突拍子もない作り話を喜こぶ連中は、結構いるものです。幽霊だの、お化けだの、亡霊だの、地獄だの、いわゆる怪奇物語はその馬鹿げた内容とは関係なく、本当らしさがなければないほど、嬉々として耳を傾け信じ込み、楽しがるものである。こういった、馬鹿話は、退屈な時間つぶしに役立つばかりではなく、懐を潤すという効用もあります。えっ、誰の懐だって。そりゃもちろん坊主や説教師たちの懐ですよ。
これと同類なのは、馬鹿馬鹿しい迷信を本当に信じ込んでいる連中です。ポリュペモスのように背の高い聖クリストポロスの木像を拝んでいたら、その日のうちに死ぬことはないとか、聖バルバラの彫像にあらかじめ決まった祈りを唱えてお参りしておくと戦争から無事に帰れるとか、聖エラスムスの日に決まった数の蝋燭を供えて祈りを棒げると、まもなく金持ちになれるとかいったことですね。
同様に、犯した罪が司祭の唱える赦免によって救われるとか、免罪符によって煉獄での滞在時間が短縮されるというので水時計で測り、数値の表を作って、計算したり、さぁどう言ったらいいのでしょうね。まじない札だの、短い祈りの文句だの(そんなものは、どこかの信心深げな詐欺師が、楽しみのためか金諸けのためにひねりだしたものですが)を頭から信じ込み、富、名誉、快楽、飽食、いつまでも続く健康、長寿、若々しい老年、天国でキリストの傍らに座を占めることなどの一切が得られるものと考えている人たちについては、なんと言ったものでしょう。もっとも、この最後の願い事だけはできるだけ遅く、つまりは現世の快楽にしぶとくしがみつきながらも、ついにそれにも見捨てられ、それに代わる天国での楽しみしかないとなったときでなけれぱ、成就してほしくないと思っているのです。
さてここにある商売人なり、兵士なり、判事なりがいたとしましょう。この男が悪事を働いて大儲けをし、その中からたった一握りの金を喜捨し、それでもって生涯にわたる数えきれぬほどの偽証、淫行、酒浸り、喧嘩、殺人、欺瞞、背信、裏切りがまるで契約てもしたかのように、きれいさっぱり償われたものと思い込み、それも、もう一度尽くせるかぎりの悪行をやれるほど十分に、償いえたと思っているのです。
『詩編』のうちのあの7つの小節を毎日唱えさえすれば、至福にまさる幸福が得られるものと思い込んでいる連中ほど愚かな、いえいえ幸福な者がいるでしょうか。ところで、この7つの小節に魔法のような功力があると聖ベルナウドゥスに教えたのは、ある悪魔だったと信じられていますが、 こやつはふざけたやつで、奸知に長けたというよりは軽はずみだったので、あわれにも自分の仕掛けた罠に自分がはまったとのこと。この話はあまりにも馬鹿馬鹿しくてさすがに私でさえも恥ずかしくていられないのに、これが世の一般の人々ばかりか、宗務にたずさわっておられる先生方によっても、 本当のこととされているのです。
それぞれの地方が、それぞれ自分たちには特別の守護聖人がいると主張し、それぞれに固有の御利益が振り当てられていて、それぞれ違った礼拝 の仕方がなされているのも、まぁこれと同類ではないでしょうか。
歯痛を治してくれる聖人、お産の痛みをやわらげてくれる聖人、盗まれた物を見つけ出してくれる聖人、船が難破した折に輝く光としてあらわれ救ってくれる聖人がいるかと思えば、家畜の群れを護ってくれる聖人、その他よろずのことを守護してくれる聖人がいるといった具合で、全部数え上げたらきりがありません。一人でいくつものお役めを引き受けている方々もおられますよ。聖母マリア様がそれで、世の人々はこの御母に、その御子が担っておられる以上の役目を押しつけております。

41節 狂気の沙汰で満ち溢れたキリスト教徒
さて、世の人々がこういった守護聖人たちに祈り求めているのが、痴愚にかかわることでないとしたら、いったいなんでしょう。あちらこちらの寺院の壁という壁を天井まで埋め尽くしている奉納品の中に、痴愚から癒えたとか、少しでも賢くなったのいう感謝の奉納品は一つもない。難破船から泳ぎ出て助かったとか、敵の激しい攻撃を受けたが生き残ったとか、最前線から脱走して運良く帰還できたとか、どこやらの盗賊庇護の聖人のお陰で絞首台の縄が切れて命拾いしたとか、いろいろな感謝を込めた奉納品、まだまだありますよ、金満家の心配事助けるために金庫の中身を軽くしてやったとか、牢破りを手助けしたとか、毒を飲まされたのに、下痢をしたお陰で医者への治療費が無駄になったと逝って嘆く男とか、馬車がひっくり返ったのに、馬も無傷のままに家に帰ったとか、家がつぶれたのに生きながらえたとか、浮気をした相手の亭主につかまりながら、うまく逃げられたとか、いろいろなことでいろいろな方のぶつが積み重ねられているのに、痴愚から逃れられたということで、感謝している者は一人もいない。要するに無知であることは、とても楽しいことなので、人は他の何を失っても痴愚女神の手からだけは逃れたくないと願っているのでしょうね。


以上のように、すベてのキリスト教徒の一生は狂気の沙汰で満ちあふれている。言いたくないが、そのことについて司祭連中は唯々諾々とそれを許し、かえって助長している始末である。多分、そのことによって、何らか利得があるのでしょう。
こういう状況において小憎らしい賢者が現れて、「正しく生きなさい。そうすれば立派な最期を迎えることができます。喜捨するわずかのお金に、悪を憎む心、悔いの涙と祈り、そして断食を添えて捧げなさい。そして生き方を改めて、聖人を見倣いなさい」とお説教したら、人々の心から幸福感を一挙に奪い去り、混乱へ突き落としてしまう。つまり、賢者が当然のことを語ると人々は不幸になるのである。もう一言、この阿呆仲間に入れていいのは、まだ生きているうちから自分の葬式のやり方を入念に決めておく連中です。蝋燭の数は何本にし、喪服を着た参列者は何人にするとか、弔い歌の歌い手は何人にするとか、泣き男を何人雇うとか、いちいち前もって書き留めておいて、まるで死んだ御当人に知覚が甦って自分の葬儀の有様を眺められるかのようである。あるいは亡骸が盛大に葬られないのは、故人にとって恥だといわんばかりである。その様子は、新たに造営官に選出された者たちが、競技や宴会を催すことに熱心に努めるのと、ほとんど変わるところがない。

(b) うぬぼれとへつらい(42節~44節)
42節 実体なき貴族の称号
貴族連中の滑稽な自慢の種をあげつらっている。馬鹿らしいので省略する。ただ、この馬鹿げた自慢話から、「うぬぼれ」という言葉に突き当たり、43節と44節で「うぬぼれ」について詳しく論じている。

43節 お国自慢
自然は人間一人一人に生来のうぬぼれをもたせている。その個人レベルのうぬぼれが、国民や都市にまで拡大されている。たとえば、
イギリス人は、風采が優れ、音楽に長け、洗練された食事を楽しんでいると自慢し、
スコットランド人は、生まれの良さ、王家とのつながり、精密な議論に長けていると自慢し、
フランス人は、洗練された生き方、パリ市民は神学の名声などを誇りにし、
イタリア人は、古典学と雄弁、ローマの住民であることに幸福感を抱き、
ヴェネツィア人は、高貴な血筋であると自慢し、
ギリシャ人は、数々の学問の創始者であることを自分のことのように吹聴し、
トルコ人は、自分たちの宗教が最も優れていると自慢し、
ユダヤ人は、メシアの到来を待ち望んでいることに生きがいを懐き、
スペイン人は、武勇の誉れ、
ドイツ人は、背の高さと魔術を心得ていることを自慢している。

44節
うぬぼれを「美徳として」論じている。うぬぼれは自分自身を喜ばせ、へつらいは他人をよろこばせる。
全人類を幸福にしているのはうぬぼれであり、その妹がへつらい(22節)で、これらが全人類の人間関係を保つ甘い蜜であり、味わいを添えるものである。

(c) 幸福であること(45節~48節)
45節 騙されることの幸せ
追従に騙されることは幸福である。それは教会での説教を見ればわかる。
さて、ここで痴愚女神は面白い例え話を語る。
口が達者で冗談好きの友人が新妻に偽物の宝石を贈った。その時彼は言葉巧みに、その宝石が本物で非常に珍しいもので、非常に高価なものだと思い込ませた。新妻はそのガラス玉を手にしてうれしそうに眺め、ウキウキしていました。その安物細工をまるで特別な宝物のように、大切にいたしました。友人の妻は高価な贈り物をで貰ったことを喜び、友人は安い出費で済んだことを喜びました。
さて、このことをあなた方はどう思いますか。
これは、ブラトンのあの洞競の話を思い起こさせます。洞窟の中に住んでいて、さまざまな物の影とその似姿のみを眺めていて、それ以上のものを望むことなく自足している者たちと、洞窟を出て物事の真の姿を見た賢者との間に、どんな相違があると、みなさんはお考えでしょうか。
物語に騙されている愚者の方が、賢者よりも幸福なのではないでしょうか。まず第一に、愚者にとっては幸福というものは恐ろしく安上がりなもので、 ちよっとした思い込みさえあればころがりこんできます。

46節
どんな幸福を得たとしても、仲間とそれを分かち合わなければ楽しくはありません。喜びを分かち合える仲間は多ければ多いほど、幸福感も大きいものである。
ところが、喜びを分ち合おうとしても賢者は非常に少ない。ギリシアでも数世紀を集計しても僅か7人程度で、しかもその7人にしてももっとよく正体を見れば半人前あるいは3分の1人前の賢者にすぎない。つまり本当の喜びは賢者の間にはないということである。その意味では、酒の神、バッコスによる幸福感は、たとえ一時的であっても繰り返し私たちを陶酔状態に浸して、喜びと甘い思いと熱狂で満たしてくれます。

47節
ところが、どうだ。人間たちは私にどれだけ感謝の気持を表しているのか。私はそのことによって特別な感謝の礼拝を求めているわけではないが、もしこんな仕打ちを他の神々にしたら、大変なことになる。

(d) 48節    閑話3:天上からの眺め
痴愚女神が天上の神々と共に人間の住む地上を眺めて語る。それはまさに「落語の世界」である。という訳でこの節についてはちょっと「講談調」で紹介する。

こういうけちな人間どもが、どれほど神々に笑いのネタを供し、楽しみや慰みを作り出しているか、とても信じられないほどです。神々はお神酒をきこし召されない午前中は公務に勤しまれますが、お昼ともなると、そろそろお神酒に手を出し、ふらふらと天上界の高殿に腰を下ろして外界を見下ろし、人間どもが何をしているのか、とくと見物なさるのです。神々にとってこれにまさる楽しい見世物はありません。神々は「まぁなんという芝居小屋でしょう! 」とか「なんとまぁさまざまな阿呆が、大勢いることでしょう」とか言い合って笑いこけます。私も、時折、誘われて神々と同席いたします。
小娘に身も世もあらぬほど恋い焦がれて、冷たくあしらわれるとますますのぼせあがる男もいれば、妻ではなく持惨金を娶る男もおり、花嫁に情婦をやらせている亭主もいれば、嬢拓深て、アルゴスみたいに油断なく女房を見張っている亭主もいます。こっちには死者を弔うに際して、なんとまぁ馬鹿なことを口にし、またやらかし、金で雇った役者たちに悲嘆の場面を演じさせたりしている男がいるかと思えば、あっちには継母の墓の前でさめざめと泣いている奴がいます。まもなく頓死するというのに、どこでも手当たり吹第に食ベ物をかき集め、胃の腑に詰め込んでいる男もいれば、眠りをむさぼり、なんにもせずにいることにまさる幸せはないと、心得ている者もいます。他人のこととなると大騒ぎして熱心に奔走するくせに、自分のことはほったらかしている者たちもいれば、破産の崖っぷちに立たされているのに、借金を重ね、人様の金で金持ちになったような気がしている輩もいます。
また、ある男は赤貧洗うがごとき身でありな がら、相続人を金持ちにすることこそ無上の幸福だとばかりに奔走する男、こっちの男は、わずかばかりの、あてにもならぬ利益を追って海という海を飛び回り、どれほど大金を積んでも二度と戻ってはこない大事な命を、風波に弄ばせています。家にいてずっとのんびり暮らしているよりは、戦争に行ってひと財産作るほうがいい、などと思っている男もいます。
子供のいない老人をまるめこんで、労せずして財産を手に入れることを考えている連中もいれば、同じことを企んで、裕福なお婆さんを色恋沙汰でたらしこむことを好む輩にも事欠きません。この手の連中のいずれもが、騙しにかかった相手から一杯食わされて騙されるという事態になりますと、これをご覧の神々は拍手喝采しております。
あらゆる人間のうちで、最も愚劣で下等なのは◯◯という人種で、そのやり方がまたこの上なく卑劣なのです。行く先々で嘘をつき、偽証し、騙し取り、瞞着し、横領するといった具合ですが、そのくせ自分たちは第一級の人間たちだと思っているのです。それも指に黄金の指輪をはめているからというだけのことなのです。またこれにごまをするような坊主どもにも事欠きませんで、こういう輩を褒めあげまして、世人の前で「私たちの尊敬すベき閣下どの」などと呼んだりいたしますが、これは無論、◯◯があくどく搾取した金銭の、なにほどかのリベートがあるのを期待してのことです。
ここで少しばかり眼を移せば、世の中のものはすベて「みんなのもの」「みんなのものは私のもの」と頭から信じ込んでいて、人が監視の目を光らせていないものはなんでも私物化し、まるで先祖代々からの遺産であるかのように、平然としている◯◯◯派なんぞもおりますよ。
金持ちになりたいと願って、それだけで金持ちになった気になっている者もいますが、楽しい夢を思い描いて、それだけでもう十分に幸せだと思っているのですね。人前では金持ちに見られたがってはいるものの、家ではまったくの食うや食わずという人も少なからずいます。
持てるかぎりの財産を使い果たすことを急ぐ者もいれば、なりふりかまわず蓄財に走る者もいます。選挙に打って出て、民衆の人気を博することを喜びとする者もいれば、自宅の炉端にじっとしているのを楽しみとしている者もいます。
多くの人たちが果てしのない訴訟沙汰を起こし互いに相手に打ち勝つために、裁判の引き延ばしを図る裁判官と、それとぐるになった弁護士の懐を潤すという結果になっています。
新奇なことに眼の色を変えて打ち込む者もいれぱ、何やら壮大なことを企んでいる男もいます。家に女房子供をほったらかしにしたまま、なんの用もないのに、わさわざエルサレムや、ローマや、聖ヤコブ詣での旅に出る連中もおりますよ。
要するに、人間どもが引き起こしている数知れないてんやわんやの大騒動を、その昔メニッポスがしたように、月世界から眺め下ろすことができたら、蝿やか蚊が群れをなして、互いに喧嘩し、戦い合い罠をかけ合い、略奪し合い、ふざけ合い、病に倒れ、死んでゆくのを見る思いをすることでしょうね。本当にすぐにも命尽きてしまうこんなちっぽけな生き物が、なんという大騒動、なんという悲劇沙汰を引き起こすものか、信じがたいほどです。なにぶん、時折さしたることのない戦争が起こったり、疫病が荒れ狂ったりしただけで、一時に何千人もの命が奪われ、消えてしまうんですからね。
あっ、もうお時間となりました。

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