ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/12/10~12/16

2017-12-17 06:05:47 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/12/10~12/16

2017 日々の聖句 12月10日(日)
アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。《創世記13:8)

多くの部分があっても、一つの体なのです。(1コリント12:20)

私の黙想:
日本の諺に「兄弟は他人の始まり」というのがある。兄弟とか親戚という関係は難しい。良い関係だと、本当にいいものだ。私には2人の弟がいるが、それぞれ仕事も違うし、生き方も違うが、お互いに付かず離れず、仲良くやっている。最近でlineなどで「老後3兄弟」というのを設定してホットラインで繋いでいる。
仲の良い兄弟とか親族とは長い人生を生き抜く一つの大きな力になる。
アブラハムとロトの関係は非常に良い関係だ。しかし、ここに両者の使用人・間での争い事が問題になっている。兄弟や親族が仲良くやっていくことで重要な秘訣は、お互いの距離の取り方であろう。あまり接近しすぎても良くないし、離れすぎてもよくない。見えていて、見えない距離。特に、両者にとっての第3者、ここではそれぞれの使用人にとっては相互に「他人」でなければならない。使用人同士は兄弟でも親戚でもない、完全な他人である。

2017 日々の聖句 12月11日(月)
主はあなたを祝服し、あなたを守られるように。(民数記6:24)

祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(1ペトロ3:9)

私の黙想:
キリスト教においてはここで詳細に論じられている「ナジル人」の規定があまり論じられていない。昔は「ナザレ人」と混同して、「ナザレ人イエス」をナジルとして論じられていたこともある。ナジル人、要するに神に特別な誓願を立てて、そのために自己に苦役を課す人のことである。パウロも誓願を立てたこともある。の生涯においても関わりがあり(使徒18:18)。これが修道院制度へと展開したのではないだろうかと推測される。宗教団体にとって修道者の存在は非常に重要である。時には行き過ぎによるトラブルの原因ともなりうるが、存在しなくなったら、いわは「祝福」の伝統が失われる。
今日の聖句では22節まで詳細に論じられているナジル人のこととの関係が断絶しているが、もともとは内的に強く繋がっていたのではなかろうか。イスラエルのため民の祝福の伝統はナジル人の存在によって支えられてきた。この点が、キリスト教、特にプロテスタントの伝統においては希薄になっている。日常性の対極にあるナジル人の生(非日常に生きる)が実は伝統の継承に担い手になっている。

2017 日々の聖句 12月12日(火)
わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう。あなたの戒めはことごとく正しいのですから。(詩119:172)

キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ3:16)

私の黙想:
「あなたの仰せ」、あなたが口に出して喋ったこと。ずいぶん変わった言葉をついかったものだ。口語訳では単純に「み言葉」。これを「あなたの仰せ」となると、むしろあなたが発せられた御言葉をほとんどオウム返しに私の舌が動く、というニュアンスが強くなる。あなたの語られた言葉が、正しいがどうか、よく考えて、良し「正しい」と判断したのでそれを歌う、というのではなく、あなたが言われたことは間違いないのでほとんど機械的に、ほとんど無反省に、あなたの言葉を私は口に発している。そこでは私の言葉なのか、神ご自身の言葉なのかももう区別されない。あなたの言葉が私の言葉であり、私の言葉があなたの言葉だというニュアンスが前面に打ち出されている。
長い長い「御言葉賛歌」である詩119編の最後の大合唱のような響きがここにある。

2017 日々の聖句 12月13日(水)
わたしは、彼らにわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らとの間のしるしであった。(エゼキエル20:12)

あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。(2テモテ1:14)

私の黙想:
まず、今日の聖句で「わたしの安息日」という言葉に驚く。うかつにもこういう表現に出会った自覚がない。しかし現実に口語訳でも、出エジプト 31:13、レビ 19:3、19:30、26:2、エゼキエル 20:13、22:8、23:38と、7回も出現している。新共同訳ではこれにさらに7回加えて14回も用いられている。因みに今日の聖句は口語訳では普通に「安息日」である。
たったこれだけのことで、安息日と言うことについての理解の幅はかなり異なってくる。安息日はまさに「ヤハウェの休んだ」と言うだけはなく、「ヤハウェの安息日」、ヤハウェが特権的に所有しているなのだ。単にヤハウェも休んだから、お前たちも休めではない。ヤハウェにとって「安息日」が何を意味し、その日には一体何をしたのか、ただ「休んだ」だけでははっきりしない。古代のイスラエル人にとってはそんなことは問題でなかった。安息日には何かをしなければならないという「規定」はそれから後に人間が作り出したものであり、ましてはつらい労働から解放される日として与えられた労働者の特権というわけもない。まさに、「安息日」は「ヤハウェの日」であり、それを守ると言うことが、他の民にはない「特権」だったのだ。

2017 日々の聖句 12月14日(木)
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創世記3:9~10)

(このように、)あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。(ガラテヤ4:6)

私の黙想:
今日の聖句が、神と人間とのドラマの「終わりの始まり」。神が人間を求め、人間に呼びかける。人間は「隠れて、答える」。隠れたままで応答しないということが、出来ない。隠れたままではおれない人間。見られたら「恥ずかしい」自分の姿を認識している人間。これが神と人間の物語の「終わりであり始まり」だ。「終わり」だという理由は、結局「終わりまで」の関係は変わらないということであり、「始まり」だというのは、これがドラマだということによる。
ここで始まらなかったら、神と人間は、創造者と被造者との関係のまま、何の「展開」もなく、ごく当たり前の「もう一つ自然」にすぎない。それでは「話にならない」。
神は人間に呼びかける。「どこに居るのか」。神のお作りになった世界、神にとって、人間がどこに隠れているのか知らないはずがない。知っていて、なお呼びかける。神は人間が応えるのを待っている。この場合「答え」を待っているのではない「応える」のを待っているのだ。応答を待っている。人間は黙っていることが出来る。つまり応答しないという態度をとれる。しかし、人間は本質として応答せざるを得ない。レスポンスする。このレスポンス、これを名詞化したら、レスポンシビリティ、応答性、責任ともいう。応えることを避けて、逃げ隠れする。それを無責任という。それが「人間性の喪失」である。アダムは逃げ隠れしたが、応答した。そして神の前に立った。神と人間とが本当の意味で向かい合った。ここからドラマが始まる。

2017 日々の聖句 12月15日(金)
恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4)

信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。(ヘブル11:27)

私の黙想:
今日の聖句は、これに続く後半がリアルで面白い。「うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな」。人間誰でも「若いときの恥」を持っている。その後の、「やもめのときの屈辱を再び思い出すな」については、一応同じようなものの女性版と考えておけば良いであろう。だから、若いときのことを知っているものの前では「頭が上がらない」。その最大の相手が両親であろうが、両親は何時でも私の立場に立っていてくれるから、一応「うろたえる」ことはない。困った相手が、「神さま」である。この神さまから何か言われたら、私は間違いなくうろたえる。その意味で、今日の聖句は、その神が、「忘れよ」と宣言してくださっているのだから、もう大丈夫だ。というような「安堵の気持ち」が今日の聖句である。
勿論、今日の聖句はそのような個人的なことを述べているのではなく、民族の歴史を振り返ってのメッセージである。今から考えると日本国形成の途中の歴史の幼稚さと内戦のばからしさ。それは国内の問題都市も、例えば、日露戦争の時代の日本人の国際感覚、それに引き続いても日中戦争、さらには太平洋戦争。まさに「若きときの恥」である。少なくともそれらの歴史を「恥」ととして受けとめる感覚は重要であろう。それを指摘されたら「うろたえる」。
「日本の神」は私たちに何というメッセージを送ってくださるのだろうか。

2017 日々の聖句 12月16日(土)
災いだ、(寝床の上で悪をたくらみ)悪事を謀る者は。(夜明けとともに、)彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。(ミカ2:1)

(そこで、)イエスは一同を呼び寄せて言われた。「(あなたがたも知っているように、)異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、(あなたがたの間では、)そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。(マルコ10:42~43)

私の黙想:
日本語の日々の聖句では括弧内(時間的要因)を削除して、一般的、何時でもの出来事(悪事)として述べている。しかし原文での面白さは、時間的要因にあり「寝床の上での悪の企み」という点が強調されているように思う。では、何が違うのか。要するに「寝床の上で」というのは、完全に一人の人間の独自の企みだというこことであろう。しかも、それが出来るのは、「夜明けと共に」実行に移せる人間の悪事だという。古代ユダ王国にしても、あるいは今日の日本にしても、それを出来るのはたった一人の権力者である。
ここで預言者ミカは一人の権力者の悪を糾弾している。そして彼の悪事とは「彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する」(2節)。単純に悪税である。ここではそれを実行する行為者が複数形だと言うことも面白い。寝ても、起きても、彼の考えること、そして彼らの行うことは税の取り立てである。
ここでは「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に」と3代の王の名前が列挙されている。この時代、宮廷預言者、要するに高級官僚たちの中に預言者イザヤがいたことも忘れてはならない。この時代、王を批判するミカの言葉がどれほど通じたか明らかではない。何しろミカは権力から遠い、一地方の預言者に過ぎない。しかし、今も、私たちはあの時代に王の権力を正面から批判した預言者がいたことを知る。その時、預言者イザヤは一体何をしていたのか。

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