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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/12/03~12/09

2017-12-17 06:01:45 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/12/03~12/09

2017 日々の聖句 12月3日(日)
新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。(イザヤ42:10)

父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放された。(ルカ1:67~68)

私の黙想:
教会暦では、この世の一般の暦より約1ヶ月先だって、2018年が始まる。降臨節第1主日だ。いわゆるアドベント、クリスマスに向かって4つの主日、主題は「待つ」だ。「待つ」を主題として季節から始まる教会暦は意味深い。私たちの思いは、「今」から「将来」に向かっている。いや、私たちの心では「将来」が既に「今」に先取られている。もう、すでにこれ自体が神秘(ミステリアス)であつ。
今日の聖句は、まさに今日に符合している。他の364日は「籤」で選ばれた聖句だとしても、今日の聖句は明らかに、今日のために「選ばれた」聖句だ。
今日の聖句の中で「主に向かって」の「向かって」はどういう意味だろう。ただ単なる「方向」ではないだろう。「ここ」から「そこ」までの距離がある。主は、まだ「ここ」にはいない。しかし「そこ」におられる。だから「そこ」におられる主に向かって歌う。詩人はここは「地の果て」だという。地の果てから世界の中央におられる主の栄誉を歌う。しかし、「新しい歌」を歌い、「主の栄誉』を歌っている限り、歌っている「今、ここ」は既に新しい時代になっている。
これが捕囚の地に住む第2イザヤが、祖国へ向かう「新しい歌」である。

2017 日々の聖句 12月4日(月)
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。(イザヤ65:17)

主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。(ルカ12:36)

私の黙想:
この日の黙想はどうしても理屈っぽくなるがお許し頂きたい。それが私が「新しい天と新しい地」という言葉に接したときの反応である。特に、教会暦では、古い暦が終わり(聖霊降臨後第28主日)、昨日から降臨節に入った。まさにこの「新天新地」という語句はこのときに相応しい。聖書では「新しい天と新しい地」という言葉は、4回しか使われていない(イザヤ65:17,66:22,2ペトロ3:13,黙示録21:1)。そのどれを読んでも非常に意味深長である。その結論をまとめると、それは「この世」の延長上の先に実現する理想の世界という訳ではない。むしろ、「この世」は完全に「終わり」、この世とは全く関係なく「創造される」世界であり、その間には深い断絶がある。マタイではそれを「この世」に対する「後の世」と呼ばれている(マタイ13:32)。またマタイではそれを非常に神話的な表現で「新しい世界」(マタイ19:28、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、12の座に座ってイスラエルの12部族を治めることになる)と呼ぶ。新約聖書では「この世」「後の世」(口語訳では「来たるべき世」と訳されている)における「世」には「アイオーン」という単語が当てはめられている。(このことについては、「聖霊降臨後第24主日(特定28)の断想」
において詳細に論じている)。
参照:http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/e69c521e2faf0bc8c2bc70ad0b7f00de
これが聖書における「この世」観、「あの世」観の基本である。
このような聖書に特有の「時間観念」を抜きにして、聖書を読むとき、大きな過ちを犯すことになる。特に、終末論においてはそれが著しい。

「今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10:30)。

2017 日々の聖句 12月5日(火)
モーセの言葉:あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対して証言するすべての言葉を心に留めなさい。(子供たちに命じて、この律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。)それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。(申命記32:46~47)

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。(ヨハネ1:6,8)

私の黙想:
今日の聖句は旧約聖書の中でも、とくに申命記の中でも最も感動する場面の一つである。今日のテキストのすぐ後で、ヤハウェはモーセをカナンの地が見渡せるネボ山に連れて行き、そこから豊穣なカナンの地を見渡させ、ここがあなたが一生をかけてイスラエルの民を導いた「新しい地」であると説明し、その上で、あなたはそこに入れない。その前に死ぬ、と宣言される。一つの大きな時代の変わり目である。
従って、今日の聖句は、モーセの生涯における最後の最後の説教である。読んでいて、ここと申命記6章のいわゆるシェアマーと呼ばれるイスラエル宗教の核心部分が呼応していることに気付く。だから今日の聖句の中で「律法の言葉」と呼ばれている言葉の内容は、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:6)に尽きる。おそらく現在でもすべてのユダヤ人はシェマーという声がかけられたら、その場で直立不動の姿勢をとり、この言葉をその場にいるすべてのユダヤ人と発声するに違いない。この言葉は「決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である」、と彼らは信じているに違いない。
私もこの言葉は「命」だと思っている。これは考えて、考えてて達した哲g公家記真理ではないし、先祖代々から伝えられた伝統的な言葉だというわけではない。それらの言葉は、結局のところ人間の内部から出てくる言葉であるが、「この言葉」はそれと次元が違う。人間にとって完全な「他者」、そこまで言ってしまうともう「教理的」になってしまうので、そこまでは言わないが、人間にとっての「創造者」から発せられた言葉である。だから、人間側の捜査によって、取り消すことも、訂正することも、無視することも出来ない。もう一度繰り返す。
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

2017 日々の聖句 12月6日(水)
わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。(エゼキエル34:22)

キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった。(エフェソ5:25)

私の黙想:
今日の聖句は非常に、というより異常にありがたく響く。しかしエゼキエル者34章を読むと、実は恐ろしい言葉である。何が恐ろしいか、それは事実その時代、ユダの民を牧していると言われていた牧者は自薦他薦、結構いたようである。ここでヤハウェは預言者エゼキエルを通してこれらのいわゆる「牧者」は自分の利益のことばかり考えて、民を養っていない(2~4節)。要するに、いろいろな形の民族的指導者がその役割を果たしていない。だから民にとって「飼う者のいない者」となり、ばらばらにされ、野山をさまよい、野獣や敵の食い物になっている。だからヤハウェは怒っている。「牧者たちよ、主の言葉を聞け」(9節)。つまり、今日の聖句はそういう状況の中でヤハウェ自身が民の羊飼いとなる、という宣言である。
この聖句がユダヤ史の中で何時に時代に位置づけられるのかは定かではない。しかし、この宣言により、ユダヤ史の中で「王制」は完全に廃棄された。政治的権力も取り上げられた。これ以後ユダヤ史においては、祭司、及び祭司長宗教的指導者のもとで宗教共同体として運営されることとなる。
ユダヤ史において「主はわが牧者」という言葉、「飼う者なき羊の群れ」という言葉など、こういう背景において読むとき、納得する。

2017 日々の聖句 12月7日(木)
主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。(詩119:64)

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(1ペトロ4:10)

私の黙想:
さて、今日の聖句、「この地」と「あなたの掟」とが対比されている。この聖句は最も単純に考えて、信仰者の考え方、つまり思想の基本の基本を示している。私たちの住む宇宙には創造者の慈しみが満ちている。これは世界の自然科学的サイドである。自然科学において、「この地はあなたの慈しみに満ちています」という視点が欠けたら、もはや人間の営みとしての「科学」、自然界における真理の探究に値しない。
同様に、いや、こちらの方人間側からの探求ではなく、創造主側からの働きかけとしての「論理」、「あなたの掟」を聞くことである。これはただ単に「論理」に留まらず、「倫理」をも含む。「あなたの掟」は決して固定的なものではない。これを固定化しようとするところに、人間の傲慢さがある。何と言っても「神の掟」が固定化されたら、もはや神は不要の遺物に化する。そうではない。神の掟は固定できない。神は生きておられる。だから、日々に新たに「教え続けられなければならない」。

2017 日々の聖句 12月8日(金)
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。(詩51:14)

使徒たちは主に、「わたしどもの信仰を増してください」と言った。(ルカ17:5)

私の黙想:
1941年12月8日、すべての日本人にとっては忘れてはならない日である。この日、大日本帝国は、宣戦布告もなしに、米国本土ハワイの真珠湾を爆撃しました。これが事実上の太平洋戦争の開戦です。もっとも、この暴挙については様々な陰謀論が取り沙汰され、真実は霧の中ですが、日本軍が爆撃したというもっとも単純な事実は隠しようもありません。これが米国人に対日憎悪を生み出し、戦争意欲を喚起させた。
個人であれ、集団であれ、人間がいったん決断し、実行した行為は消すことは出来まない。それをなかったことにはできない。詩51では、神の前にも人の前にもほとんど批判されるべきものなかったダビデ王の一生におけるほとんど唯一の罪が主題である。いかにしてその罪が赦されるか。
ダビデ王は、当初、その罪は誰の目にも隠されていたが、預言者から指摘されたとき、率直にその罪を告白した。自分権力によってそれを「なかったこと」にすることも出来たかもしれないが、それをしなかった。その行為について、いろいろの解釈を施して、犯罪性を減少することも出来であろうが、それもしなかった。ダビデ王の偉大さは、その権力の大きさによるのではない。自分の罪に対して一切の言い訳をすることなく、他人に責任転嫁することなく、それを認め、告白し、懺悔し、赦しを請い、神による「清め」を祈っているところにある。詩51はそのダビデ王の姿勢を前面に押し出す懺悔の詩である。
今日の聖句でのポイントは「再び」であろう。神による赦しの宣言がない限りは、「喜び」も「自由の霊」も「再び」がない。

2017 日々の聖句 12月9日(土)
主は、(不遜な者を嘲り)へりくだる人に恵みを賜る。(箴言3:34)

互いにへりくだることを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。(フィリピ2:5)

私の黙想:
謙ることが大切なことはよくわかっている。主が遜る人に恵みを賜る、と言うのも当然であろう。ふんぞり返って、威張っている者を見かけたら、予定していたその人への恵みも、へっこめてしまうだろう、その気持ちもよくわかる。しかし、難しいのは遜ることそれ自体にある。どういう態度が、真の意味での「謙遜」になるのか。何でも、かんでも遜っておけばいいというわけではない。真の意味での謙りとはまず「自己認識」が正しくなければならない。特に、それが誰かとの関係の中では相手の自分との「力の差」「立場の差」「性格の差」が政党に認識されなければ、遜っているつもりが逆に不遜になってしまう。その意味では、動物には動物特有の「動物的勘」によって、自他の強弱が一瞬にして把握できるという。ところが、この動物的勘が社会性と言う能力によって弱くなってしまっている。例えば、洗礼者ヨハネとヘロデ王、社会的立場ににおいては圧倒的な差がある。最終的にはその差にの犠牲になったのであるが、福音書は実は一人の人間として相対した場合はヘロデ王はヨハネの強さを十分に認識し、畏れさえしていた。だから、異常な出来事がなければヘロデはヨハネを殺すことが出来なかったであろう。人間社会においてはこういうことがしばしば起こるから要注意である。だからと言って、いつもいつも社会的制裁を怖れて、言うべきことも言えないでいるのは良くない。今日の聖句は箴言からである。その辺のところをよくわきまえて、行動せよという「世間知」が箴言である。

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