ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/11/12~11/18

2017-11-18 18:57:39 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/11/12~11/18

2017 日々の聖句 11月12日(日)
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。(レビ19:17)

怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。(1テサロニケ5:14)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳とは別の原文かと思うほど違う。多分、新共同訳の方が原文に近いのであろう。今日の戒めのポイントは、「彼の罪を負うことはない」にある。同胞、友人、親戚、家族とう身近な人間の問題行動は必ず自分自身に関わっている。だから、もしそういう問題行動を見たら「率直に戒めなさい」。もし、戒めなければ、同罪だという。ところが実際生活では遠い他人の問題行動は簡単に批判し、憎むところまで行かなくても、軽蔑することは簡単だが、それが身近な人間になるとかえって難しくなる。
それは決して「同情」ではなく、「愛」でもなく、関係そのものを大切に思うからである。「率直に戒める」という行動は、関係の断絶を覚悟しなければならない。関係の断絶を避けようと思うならば「見て見ぬふり」をする。
話題を変えて、先日も総選挙がなされた。投票行為は夫婦間でもそれぞれ独立している。投票上から出て来て、「誰に入れたか」と「告白しあう」ことが出来るのだろうか。我が家ではお互いに誰に入れたから普段の行動を見ているから、「分かる」ので尋ね合わない。みなさんのところはどうでしょうか。マスコミが盛んに「出口調査」というのをやっている。私は今までされたことがない。マスコミのアンケートには率直に答えることができるのに、身近な関係ではそれが問えない。面白い現象だ。

2017 日々の聖句 11月13日(月)
悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください。(詩25:17)

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ4:7)

私の黙想:
今日の詩編では、その「痛み」が精神的なものか身体的なものか、曖昧である。その点口語訳は「わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください」で、その「悩み」と「苦しみ」とが精神的なものであることがハッキリしている。この詩は一応ダビデの詩となっているので、その痛みは精神的なものであろうと思う。「悩む心を解き放ち」よりは「心の悩みをゆるめ」の方がリアリティがある。他のほとんどの訳も口語訳の線と同じである。特に、16節後半の「わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです」(口語訳)、「わたしは一人きりで、みじめな様なのです」(関根訳)との繋がりも明白である。
今、世間で大問題にっている「自殺願望」。これは「自殺願望」という言葉が悪い。現実的には「孤立感」「孤独感」の深刻さである。昔の「孤独感」には高度な文学的意味合いが込められていたが、現在の「孤独感」には次元の違う深刻さがある。この深刻さに、教会は何処まで取り組めるのだろうか。単に上からの目線で「あなたは孤独ではない」とメッセージを発しているだけでは、この問題は解決できない。教会が「和気あいあいで楽しいところ」では済まされない。伝統的には教会には懺悔室があり(今もカトリック教会では必ずある)、そこで個人的な悩みを安心して打ち明けることができた。日本にカトリック教会が伝わったとき、洗礼式や聖餐式よりも司祭に「懺悔する」ということが尊重され、それが教会の重要な機能であったという。その機能がだんだん「罪の告解」ということに限定されてしまって、「心の悩みを打ち明ける」という機能が弱まってしまった。今、もう一度それを回復する必要があるのではないだろうか。そのためには聖職者の人格と教養とが求められている。

2017 日々の聖句 11月14日(火)
(助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。)天にしるしを見る者、星によって占う者、新月によってお前の運命を告げる者などを、立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし、炎の力から自分の命を救い出しえない。この火は体を温める炭火でも、傍らに座るための火でもない。(イザヤ47:13~14)

わたしは自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。(3ヨハネ4)

私の黙想:
今日の聖句は長いので日々の聖句の編集者はかなり短縮している。要するに現代風に意訳すれば、評論家が多すぎて何が正しいのか訳が分からなくなる。彼等をお互いに議論させれば、彼等は相互に批判し合うだけで、彼等の意見は、屁の突っ張りにもならない。と、まぁ、ほぼそういう意味であろう。確かに、何か大きな災難がありそうで、人々は不安がっている状況である。ここは第2イザヤの預言の部分であり、イスラエルの民はバビロンの捕囚の真っ最中である。書かれていることから推測すると、新興勢力ペルシャが起こり、あれほど権力を誇っていたバビロンにも危機が感じられる状況を反映しているのであろう。しかし、その危機は捕囚民であるユダの民にとっては解放の時であるかも知れない。預言者はむしろそれを語る。この部分の描写はあまりにもあからさまである。変に解説などしない方が生き生きする。「身を低くして塵の中に座れ、おとめである、娘バビロンよ。王座を離れ、地に座れ、娘カルデアよ。柔らかでぜいたくな娘と呼ばれることは二度とない。石臼を取って粉をひけ。ベールを脱ぎ、衣の裾をたくし上げ、すねをあらわにして川を渡れ。お前は裸にされ、恥はあらわになる。わたしは報復し、ひとりも容赦しない。
わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主イスラエルの聖なる神。
5 沈黙して座り、闇の中に入れ、娘カルデアよ。諸国の女王と呼ばれることは二度とない。
わたしは自分の民に対して怒り、わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐れみをかけず、老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした。
わたしは永遠に女王だ、とお前は言い、何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった」(イザヤ47:1~7)。
旧約聖書の神は身勝手だ。自分に従わないユダの民を懲らしめるためにバビロン国を利用した。そのバビロンがユダの民への取り扱いが暗黒であったと、怒り、報復している。

2017 日々の聖句 11月15日(水)
あなたたちはわたしたちの神、主と心を一つにし(、今日そうであるようにその掟に従って歩み、その命令を守ら)なければならない。(列王記上8:61)

主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。(1コリント6:17)

私の黙想:
今日の聖句は、ソロモン王が神殿に契約の箱を設置したときの言葉である。いわばイスラエルの民が新しい歩みを始めるときに王が国民に語っているのである。注目すべき点は、「私たちは心を一つにしなければならない」ということではなく、「主と心を一つにする」ということで、先ず王が「主と心をひとつにし」、それと同時に国民が「主と心を一つにする」。そうすることによって、王の心と国民の心とが「一つになる」。これが健全な国家のあり方だという。
この文章、文語訳は面白い。「されば汝ら我らの神、主と共にありて今日のごとく汝らの心を完全(まっとう)し、主の法憲に歩みその戒めを守るべし」。現代語訳では「主の定め」(口語訳)、「主の掟」(新共同訳)、「主の命令」(フランシスコ会訳と新改訳)、「その命令」(岩波訳)、となっている言葉を「法憲」という言葉を使っている。私は10年ほど日本聖公会の法憲法規審議委員を務めていたので、この「法憲」という言葉に異常に反応する。これは国家でいうと「憲法」に相当する。王が憲法に従い、国民も「憲法」に従うということによって、国家は安定する。しかし先ず、王が「憲法」を無視するようになったら、国家の箍は緩み、国内の規律は乱れる。イスラエル史においては「主と心を一つにする」ということと「主の法憲」に従うことは一つであった。ところが、ソロモン王が傲慢になり、主の法憲に従わなくなったとき、国家は2分した。恐ろしい教訓である。

2017 日々の聖句 11月16日(木)
国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。(イザヤ60:3)

神の国では、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。(ルカ13:30)

私の黙想:
何か希望を懐かせる聖句だ。しかし、よく読むとここの「あなた」とは、エルサレムを指す。ただし、ここでは「シオン」(59:20)と呼ばれている。全世界がエルサレムを中心にして輝くという思想、これがいわゆる「シオニズム」である。
イザヤ書におけるこの時代のエルサレムはまだ再建されず、神殿も破壊されたままで、荒廃した状況である。バビロンに捕囚民ユダヤ人が解放されたまま、まだ帰還していない。そういう状況の中で,第3イザヤはこの言葉を語る。だから希望に満ちている。シオニズムは(ユダヤ人にとって)輝く思想であり、希望の思想である。希望とは現実化していないときに輝く。だからエルサレムが混乱しているときに,世界に散らばったユダヤ人にとっての精神的統一のシンボルであり得た。そこにユダヤ思想のエネルギーがあった。しかし、希望が現実化すると色あせ、絶望を経験する。
キリスト者の間でもいわゆる「聖地旅行」が盛んである。ちょっと経済的に余裕ができると,聖地に行きたがる。別に負け惜しみではないが、私はいわゆる「聖地」を旅行したいとは思わない。私にとってパレスチナはイエスの時代のままでいい。現実のパレスチナを見たくない。観光地化したエルサレムを見たくない。それはもはや「聖地」ではない。

2017 日々の聖句 11月17日(金)
あなたの死者が命を得る。(イザヤ26:19)

今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いであると。“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。(黙示録14:13)

私の黙想:
なんとまぁ、今日の聖句は一体何を考えろというのだろうか。この節をぜんぶ引用すると、こうだ。「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」。口語訳ではこうだ。「あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである」。先ず、今日の聖句の部分は祈願文なのか。祈願文なら、あり得ないことを祈願することもあり得る。口語訳ではそうではないようだ。14節には「死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはありません」という言葉も見られる。要するに、あり得ないことが起こると言うことである。しかも、それはいわば、それは救済についての象徴的な表現であろう。しかも、個人の話ではなく、将来に起こる民族的な出来事を述べているのであろう。
そう読んでくると「あなたの死者」の「あなたの」が気になる。詩人は「わたしたち」は死者にようになっているが、それでもなお「あなたのもの」「あなたに属するもの」として自分たちのことを規定している。死んでもなお、あなたのものだ。死んでもなお「あなたのもの」だから生き返る。もし、「あなたのもの」でなければ、死んだらそれでお終い。「「死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはありません」となる。そこで今日の新約聖書の言葉と結びつく。「主に結ばれて死ぬ人は幸いであると」。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:5)。

2017 日々の聖句 11月18日(土)
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。(イザヤ9:1)

キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。(テトス2:14)

私の黙想:
「闇の中を歩む民」、なんと悲しい表現だろう。「暗中模索」、方向も分からないし、先の見通しが不透明。考えて見たら、結局、すべての民がそういう状況である。自由、民主、平和、希望、喜び、人間が考え掲げる理想がすべて色あせてしまっている。何処の国の指導者も、結局、指導力を持っていない。思想がない。まさにそうゆう状況下にある民は「死の陰の地に住む者」である。そういう民が見る「大いなる光」はどこから来るのだろうか。
今、『キリスト教は「宗教」ではない』(竹下節子)の本を読んでいる。せっかくイエスによって照らし出された「自由・解放」と理想が、「宗教化」することによって、イエスの「教え(=大いなる光)」は人間の闇へと変換してしまった。
今日の聖句の「闇の中を歩む民」とは、文脈から読み取ると「異邦人のガリラヤの民」である(イザヤ8:23)ある。この不思議な符合を私たちはどう読むのか。

最新の画像もっと見る