ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 11/16

2017-11-18 18:45:52 | ツイッター
お早うございます。主の平和。11月16日、木曜日。宗像市は気温9度、最高13度、晴れて穏やかな空。今日は初冬の寒さ。ただ今室温19度。10時半就寝、6時15分起床、明け方4時半頃、強烈な腓返り、その他は熟睡。体温:36.2、血圧(125:83、79)。体調:快調。チュンチュン

30 Mabune Tatsuoさん、瀧本 直子さん、他28人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

Mabune Tatsuo おはようございます。今日も主と共に歩めますように!アーメン。

藤木 冨士子 おはようございます。

村田 多鶴子 おはようございます~♪よく晴れた寒い朝です。浜松は晴れ、最高気温は14度、強風・波浪注意報が出ています。先生ご夫妻がお守りの内によい一日をお過ごしになられます様にm(__)m

小貫 ツマ お早うございます。主の平和。

東山 富昭 こんにちは😃。今日、定期検診で、体温と血圧を測った結果は、文屋先生の体温や血圧と同じ値でした。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。よろしく、お願いします。

文屋 善明
11月16日 6:35 ·
昨日の日誌
午前:二人で整骨院へ。
午後:昼寝1時間半。読書「キリスト教は宗教ではない」、イズムとしてのキリスト教。ローズンゲンが届く。
夕方:家内は釣川散歩。私は田川建三の「黙示録」を読む。来年度の年間聖句。
よる:「相棒」、報ステを見て10時半就寝。

24 Mabune Tatsuoさん、磯野 眞紀子さん、他22人

文屋 善明さんが写真2件を追加しました。
11月16日 6:41 ·
お目覚めの花。11月の後半だ。来年の聖句「渇いている者には、わたしが命の水の泉から価なしに飲ませよう」(黙示録21:6)を考えよう。(今朝の花はマンションの玄関脇にて)
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、屋外

35 Mabune Tatsuoさん、瀧本 直子さん、他33人
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若月 新一 おはようございます。

文屋 善明
11月16日 7:10 ·
2017 日々の聖句 11月16日(木)
国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。(イザヤ60:3)
神の国では、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。(ルカ13:30)
私の黙想:
何か希望を懐かせる聖句だ。しかし、よく読むとここの「あなた」とは、エルサレムを指す。ただし、ここでは「シオン」(59:20)と呼ばれている。全世界がエルサレムを中心にして輝くという思想、これがいわゆる「シオニズム」である。
イザヤ書におけるこの時代のエルサレムはまだ再建されず、神殿も破壊されたままで、荒廃した状況である。バビロンに捕囚民ユダヤ人が解放されたまま、まだ帰還していない。そういう状況の中で,第3イザヤはこの言葉を語る。だから希望に満ちている。シオニズムは(ユダヤ人にとって)輝く思想であり、希望の思想である。希望とは現実化していないときに輝く。だからエルサレムが混乱しているときに,世界に散らばったユダヤ人にとっての精神的統一のシンボルであり得た。そこにユダヤ思想のエネルギーがあった。しかし、希望が現実化すると色あせ、絶望を経験する。
キリスト者の間でもいわゆる「聖地旅行」が盛んである。ちょっと経済的に余裕ができると,聖地に行きたがる。別に負け惜しみではないが、私はいわゆる「聖地」を旅行したいとは思わない。私にとってパレスチナはイエスの時代のままでいい。現実のパレスチナを見たくない。観光地化したエルサレムを見たくない。それはもはや「聖地」ではない。

19 磯野 眞紀子さん、西川 和子さん、他17人
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文屋 知明 黙想の通り。

文屋 善明
11月16日 8:25 ·
今日の名言:@lemoncyder
趣味とは感覚の洗練である。だが感覚はなにもしない。受けいれるだけである。(ヴィトゲンシュタインのメモ)
<一言>その通りだ。ここでの「感覚」という言葉は「感性」と置き換えた方が分かりやすい。感覚というと、外部からの機械的な刺激を受ける感受性であるが、「感性」とは感覚が受けとめた(感受)刺激を、主体の意志や理性によって意味づける能力である。

16 磯野 眞紀子さん、岩城 真紀子さん、他14人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
11月16日 9:36 ·
3年前のローズンゲン。多くの人前で「堂々と」信仰の証をする人がいますが、そんな人が羨ましい。私はただ、「信なき,我を憐れみ給え」と祈るだけです。
3年前
この日の思い出を見るchevron-right

文屋 善明
2014年11月16日 ·
2014日々の聖句 11月16日(日)
ヨブは主に言った。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ42:5~6)
神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。(黙示録22:3~4)
私の黙想:
ヨブ個人に対する神の語りかけ(40:6~41:26)に接し、ヨブは震え上がり、神に告白する。感動的な場面であるが、少し冷静にこの部分を読んでみると、神は「嵐の中から」語っているのであって、ヨブは神の姿を「見ている」わけではない。その意味では神の言葉を「聞いている」のである。その意味では「耳にしていた」が、今や、この目で「見ている」というのは言葉の綾である。むしろ、ここでのヨブの「告白」は、神の「(直接的)顕現」に出会って、今までの信仰が観念的であったということであろう。では、今までのヨブの信仰は観念的であったのだろうか。ヨブ記1章におけるヨブの信仰は決して「観念的」ではない。現実の中で生きた信仰生活を送っていた。ヨブの信仰にサタンさえ羨んだ。神も呼ぶの信仰には絶対的と言えるほどの信頼をおいていた。だからこそ、神はサタンにヨブの信仰を試みさせたのである。
それではヨブの信仰のどこに問題があったのだろうか。私は今日の聖句の中で「自分を退け」という言葉にひっかかる。口語訳では「みずから恨み」、フランシスコ会訳では「わたしの言葉を忌み」、新改訳では「自分をさげすみ」、文語訳では「みずから恨み」、岩波訳では「私は退けます」と訳している。うーん、なかなか含蓄がある。この文章では、何を退けているのか、何を恨んでいるのか、何を蔑んでいるのか、内容は明白ではない。問題は「わたし」である。私を退けているのが、私が退けているのか。私が恨んでいるのか、私を恨んでいるのか。つまり、ヨブは何を「悔い改め」るのか。岩波訳の並木浩一さんは、「(この文章は)退ける対象を語らない。この不完全な構文は意図的である」という。その意図は「読者に考えさせる」ためであろうという。私は考える。ヨブに何か「悔い改めること」があるとしたら、「自分」つまり現代的な言葉を使うとしたら「自我」であろう。具体的に言うならば、「私の信仰」「信仰者としての私自身」を退ける。もはや、私は信じているなんて言えない。またもや、「わたしは信じます」と告白する主日に相応しくない黙想になってしまった。

8 安井 郁夫さん、川染 三郎さん、他6人

文屋 善明
11月16日 9:58 ·
「昨日のFB 11/14」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

12 磯野 眞紀子さん、宮田 真也さん、他10人

文屋 善明
11月16日 11:21 ·
私たちの散歩友だち「える君」、昨日珍しく赤間駅前でであったのでパチリ
画像に含まれている可能性があるもの:犬、屋外

30 瀧本 直子さん、磯野 眞紀子さん、他28人
コメント

植村 光郎 犬好きの私には!一言も言葉が出ません。

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