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昇天後主日講話(総括)

2014-06-02 09:44:46 | 説教
昇天後主日講話(総括)

ヨハネ福音書17章「大祭司イエスの祈り」

はじめに
現在の祈祷書では、復活後第7主日つまり昇天後主日の福音書は毎年、ヨハネ福音書の第17章が読まれる。この個所は読んで直ぐにわかるように、これはイエスの祈りでこれだけまとまったイエスの祈りが新約聖書にあることは非常に珍しい。伝統的にはこの祈りは「大祭司イエスの祈り」と呼ばれ、天に挙げられたイエスが大祭司として日毎に献げていると理解されてきている。
その1つの祈りを3年越しで分けて祈るのはおかしい。この全文をゆっくり読んでもたかが3分である。たった3分で読める祈りを3年もかけて読むのはおかしい。もちろん、この祈りを研究の材料として学ぶのには、細かく分析する必要があるだろう。そのために3年ぐらいかける必要もあるかも知れない。しかしそれとこれを礼拝で読むのとでは意味が異なる。従って先ず全体を読むことが基本である。一回通読するのに3分かかる。10分もあれば3回ぐらい繰り返して読める。その10分は他に代えられない貴重な体験となるであろう。私自身は読むだけでは物足りないので、私自身の言葉で翻訳を試みた。別にギリシャ語本文からの翻訳ではない。すでに手元にある日本語訳聖書を読み比べて、私なりの言葉で言い直しただけである。それで私それを「超超訳」と読んでいる。

超超訳 ヨハネ福音書第17章
語り手:イエスはこれらのことを話し終え、天を仰いで次の祈りを献げられました。
イエスの祈り:
(天の)父よ、時が来ました。あなたの子、わたしがあなたの栄光を現わせるように、わたしに栄光をお与えください。あなたはわたしにすべての人に仕える使命をお与えになりました。そのために、わたしはあなたから委ねられたすべての人に、永遠の命を与えることができるのです。
(福音書編集者注:永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。)
わたしは、あなたが託されたすべての業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
(天の)父よ、今、御前でわたしに栄光をお与えください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。世から選び出してわたしに委ねてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはすべて、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れました。わたしがみもとから出て来たことを知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに委ねてくださったあの人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。
聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。
(福音書編集者注:わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。)
しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
(天の)父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
(天の)父よ、わたしに委ねくださった人々をわたしのいる所に共におらせてください。それは天地創造の前からわたしを愛してお与えてくださったわたしの栄光を彼らに見せるためです。
正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

訳者註:ヨハネ福音書第17章はイエスが「天を仰いで」なされた祈りです。通常「大祭司の祈り」と言われますが、どこで、どういう場面で祈られたものか不明です。不明だからこそ、いろいろ想像できます。わたし自身は「ゲッセマネでの祈り」だと思っています。もちろん、ゲッセマネでのイエスの祈りを筆記した者はいません。わたしはこの祈りにヨハネ神学の精髄が結晶化していると思っています。出来るだけ原文を残しますが、3節は原著者註であると思われます。同様に「子」という言葉も必要に応じて「わたし」に変えました。

1.昇天後主日とヨハネ福音書17章
ヨハネ福音書はいわゆる「ゲッセマネの祈り」には触れていないので、ヨハネ福音書の第17章のイエスの祈りは最後の祈りということになっている。イエスの十字架以前の弟子たちがこの祈りの内容が理解したはずがないので、復活後にイエスの言動を「思い起こす」プロセスにおいて「復元された祈り」であろうと思われる。その点については文献学的にいろいろと議論があると思うが、ともかくイエスの祈りとしてこれほどまとまったものは他に見られない。
伝統的にはこの祈りは大祭司としてキリストによる教会のためのとりなしの祈りとされる。日本聖公会の聖餐式日課においては、昇天後主日の福音書日課には、A年(1節~11節a)、B年(11節b~19節)、C年(20~26節)が読まれる。
この主日は復活されたキリストが天に昇られ、地上に残されたイエスの弟子たちがイエスの命令に従って、「エルサレムを離れず」聖霊の降臨を待ち望む「10日間」に属する。あたかも地上における弟子たちの祈りと呼応し、支え、執り成す「天上の大祭司の祈り」であるかのようである。
この祈りの中に、神と子と、聖霊と教会、つまり三一神と教会との関係が述べられている点は注目すべきであろう。1節の導入部においてイエスは「天を仰いで」「父よ」と呼びかけている。イエスの見上げる彼方には「父なる神」がおられる。イエスの傍らには弟子たちがいる。この弟子たちの集団が近い将来「聖霊」を受けて「教会」となる。これが三位一体の構造である。

この祈りは、部分に分けて一部だけを取り上げて論じることは慎むべきである。全体をゆっくり読んでも、たった3分足らずで読める。この祈りを理解する最善の方法は、先ず一読し(約3分)、続いて1分間文章全体をじっと眺め、また再読し(約3分)、次ぎに気付いた同じ言葉を拾い出す。たとえば、「御名」とか「世」など。その上で、もう一度全体を通読する(約3分)。以上で、約15分、そうすると必ず何か感じるものがあるはずである。それから後は、各自で思うように分析してもよいし、しなくてもよい。

2.以下、この祈りを祈祷書の区分に従って3回に分けて論じる。
A 父よ、時が来ました(1節~11節a)

1.「父よ、時がきました」(1節)
この祈りは「父よ、時が来ました」という言葉で始まる。この言葉はヨハネ福音書では特別な意味を持っている。この福音書によれば、弟子たちはこれまで繰り返し「わたしの時はまだ来ていない」という言葉を聞かされてきた。カナでの婚礼の席で(2:4)、イエスの兄弟たちの勧告に対して(7:6,8)、イエスの敵たちについて(7:30)、イエスが逮捕されないこと(8:20)等である。従って弟子たちは、この祈りの冒頭で「父よ、時が来ました」という言葉が発せられた時、一瞬驚き、緊張の風が流れたことであろう。
わたしの時はまだ来ていないとはっきり言えるということは、当然のことながらイエスがただ者ではないことを示している。わたしたちにはそれが言えない。「わたしの時」がわからないのが、わたしたちである。わたしたちにとって「わたしの時」とは、まさにわたしの「勝手な時」であって、決して「神によって定められた神の時」ではない。イエスにとって「わたしの時」とは、神によって定められた「神の時」である。わたしたちは、しばしば時が来ていないのに、気まぐれに、自分の都合に合わせて、行動をとってしまう。また「神の定めた時」が来ているのに、いつも自分の都合によってそれを断わっているのではないか。(ルカ14:15-24)

2.「わたしに栄光を与えてください」(1節)
イエスがここで祈っておられる内容も、弟子たちにとって驚くべきことであった。「わたしに栄光を与えてください」(1節) 「 父よ、今、御前でわたしに栄光をお与えください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(5節)。これまでのイエスの生き方は、一口でいうと「自分に栄光を帰さない」ということに尽きる。論敵に対してイエスは自分の真実さを証明するために、「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義はない」と述べられた(ヨハネ7:18)。また、別なところで「わたしは、自分の栄光を求めていない」(ヨハネ8:50)とはっきりと宣言しておられる。
ところがここでは、「わたしに栄光をお与えください」と祈られる。その栄光とは、今、ここで初めて与えられるものではなく、世界が造られる前に、すでに神とともにあってもっていた「あの栄光」と言う。その栄光は、人間としての生活の中で完全に手放していたもの、人間としては全く栄光を持たず、求めず、ただひたすらに神にのみ栄光を帰する生き方に徹底してこられた。今、イエスはその人間としての使命を完全に果たし、人間としての生活を終わろうとしておられる。まさに「時がきた」という「時」とは、「この時」である。それは人間としての使命、「神に遣わされた人間として生きるという特別な課題」の終了であり、完成である。

3. 「今、彼らは知っています」(7節)
栄光を捨てて生きた神の子イエスの特別な使命とは何か。ここにキリスト教の特記すべき特質がある。これがなければ「キリスト教らしくない」という性質である。人間としてイエスの生き方は「栄光を捨てて生きる」ということであった。ところが栄光を捨てて生きたイエスの生き方の中に、これはただ者ではないと見破り、イエスを神の子と信じた者がキリスト者である。現在のキリスト者を見るとき、この点が非常に弱くなっている。人間の真実をハッキリと見ること、偏見から自由であること、自己のエゴイズムを克服していること、少なくともこれらのことができなければ、イエスを神の子と見破ることは出来なかったであろう。
「わたしに与えてくださったものはすべて、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています」(7節) 。「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れました。わたしがみもとから出て来たことを知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」(8節)。
ここで弟子たちのことについて2つのことが言われている。一つは彼らは「わたしに委ねてくださったあの人々」(9節)であり、もう一つは「 わたしは彼らによって栄光を受けました」(10節)という。これがイエスが父なる神に対する関係における「わたしのもの、あなたのもの」(10節)だという。これが教会である。

4. 「わたしは、もはや世にはいません」(11節a)
「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」。これが教会の現実である。この現実において大祭司イエスの祈りは現在も続いている。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」。この祈りは現在も続いている。わたしたちの日毎の祈りは、天上での主キリストの祈りと今日も響き合っている。
祈りは現実に先行する。祈りは現実の先取りである。信じて祈る祈りは「未だ起こっていないこと」を現実とする。大祭司キリストの祈りは、地上での弟子たちの祈りと呼応して現実となる。それが聖霊の経験である。聖霊の経験は「棚ぼた式」に降って湧いてくるのではない。エルサレムでの「泊まっていた上の部屋」での120人ほど弟子たちの「熱心な祈り」と天上での大祭司キリストの祈りとが響き合ってペンテコステの奇跡は起こる。それが教会の誕生である。

B 「わたしに与えてくださった御名」 ヨハネ17:11b~19

1.大祭司イエスの祈りの第2部は「聖なる父よ」という言葉で始まる。この「聖なる」という言葉はイエスにとってというよりも、イエスが去った後の「弟子たちにとっての神」である。イエスにおいては神の聖性は不要である。従って「聖なる父」への祈りは教会の祈りであり、教会にとって神とは「聖なる父」である。ここではイエスは教会に代わって、教会のために、「聖なる父」に祈っている。

2.イエスは教会のために「わたしに与えてくださった御名によって彼らをお守りください」と祈る。つまり教会はイエスの御名によって神との関係に置かれ、イエスの御名によ言う。イエスは彼らと共にいる時「あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」といわれる。この「わたしに与えてくださった御名」とは何か。
はじめに述べたように、この祈りは一応、3部に分けて論じているが全体を通して読み考えねばならない。特にこの「御名」については、6節で「御名を現しました」、11節で「御名によって彼らを守ってください」、「あなたが与えてくださった御名によって彼らを守った」(12節)、26節では「御名を彼らに知らせました」と全体を通じて4回も繰り返されている。しかも非常に重要な文脈においてである。

3.イエスの御名の秘密(キリスト教の祈りの特徴)
キリスト教の祈りでは、祈りの最後に「主イエスの御名によって」という言葉が必ず添えられる。ところがイエスご自身が教えてくださった主の祈りでは、「御名が聖とされますように」という祈りはあるが、「主イエスの御名によって」という言葉がない。何故だろうか。この場合の「御名」とは何か。
「御名を彼らに知らせました」(26)。
この祈りの中で、主イエスは「御名」ということについて、重要なことを祈っておられる。26節に、「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。」その目的は「わたしに対するあなたの愛が、彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
これはもう、「秘密を打ち明ける」世界である。神と主イエスとだけが持っている特別な「内密」の世界を弟子たちに打ち明けたということを「父なる神」に打ち明けているのである。
その「打ち明け」は、弟子たちだけではなく、その後の弟子たち、つまり全てのキリスト者にたいする「打ち明け」でもある。私たちは、「御名を打ち明けられている!」。

4. 神の名前
この祈りの中でイエスは「父なる神」に向かって、弟子たちに「あなたの名」を知らせたと報告している。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます」(26節)。その目的は「わたしに対するあなたの愛が、彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」。これはもう「秘密を打ち明ける」世界である。神とイエスとだけが持っている特別な「内密の世界」を弟子たちに打ち明けたという。その内密の関係を示すのが「神の名」である。その「打ち明け」は弟子たちだけではなく、その後の弟子たち、つまり全てのキリスト者に対する「打ち明け」でもある。わたしたちは「御名を打ち明けられている!」。
しかし、本当にわたしたちは「神の名」を知っているのだろうか。祈りというものの本質を考えて見ると、わたしたちは「御名」を知らないでは祈ることが出来ない。祈る相手の名を知らないで祈るのは、祈りではなく、単なる自己の願望の「独り言」である。
旧約聖書で、モーセが「神の名」を神自身に訊ねたとき、神は「有りて有るもの」という名を明かされた。この時も「秘密を打ち明ける」情景が描かれている。後に、その名前は「みだりに口にしてはならない、という戒めも付け加えられた。それが「ヤハウエ」という「神聖四文字」と言われているものである。「神の名」とは本来そういうものである。しかしその「名」はイエス以前に既に知らされていたことである。それではイエスがわたしたちに教えてくれた神の御名とは何か。聖書を詳しく調べてもあまり明白に記されていない。ただイエスご自身が祈っておられる姿と祈りの言葉を注意深く読むと、イエスは神に対して「聖なる父」(11節)とか、「天におられるわたしたちの父よ」と呼び掛けておられる。これは非常に重要である。イエスがわたしたちに教えられた神の名とは「父」ないしは「アバ」である。わたしたちは神を「父」と呼びかけて祈る。

5.「あなたの名」から「主イエス・キリストの名」への転換
ここにキリスト教における祈りについての重要な秘密がある。神の名から「主イエス・キリストの御名」への転換である。この言葉を付けることによって、父なる神に受け入れられる祈りとなる。その意味では秘密というよりも、むしろ「おまじない」に近いといってもいいかも知れない。神のもとには全世界から様々な祈りが届けられている(と思う)。仏教徒からの祈りもあり、イスラム教徒からの祈りもある。もちろん、無神論者からの祈りもあるだろう。幼い子どもの無邪気な祈りもあれば、死を前にした老人からの祈りもある。それらすべての祈りが毎日、毎瞬間、神のもとに届けられているはずである。それらの無数の祈りの中で、「主イエス・キリストの名による」祈りは、特別に取り扱われる(と、信じている)。イエスの「大祭司の祈り」には、どうか「主イエス・キリストの御名によって献げられる祈りには特別のご配慮をください」という願いが込められている。イエス自身がこう言っておられる。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる」(ヨハネ14:13)。これは神の子イエスに従う者の特権である。だからこそ、この特権によって神に祈りを捧げる者は次の3つのことを常に吟味しなければならない。
(1)その祈りは御子の名にふさいわしいかどうか、
(2)その祈りは御子の名を汚すものでないだろうか、
(3)その祈りはわたしとイエスとの関係を深めるものであるかどうか。
これはこの特権に生きる者、イエスを愛する者の最低のけじめである。

C 「完全に一つになるため」(20節~26節)

1.20節は注目すべき言葉である。
「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。この言葉はイエスの直接の弟子、使徒たちの宣教活動によってキリスト者になるであろう人々のための祈りで、わたしたちはここに位置づけられている。大祭司イエスは直接にわたしたちのためにも祈っておられる。その祈りの内容は「わたしたちが一つになるように」ということである。言い換えると、イエスは後に発展する教会という組織がバラバラになることを知っておられ、そうならないようにと祈っておられるのである。(という読み方もできるが、むしろ神の右に坐位している大祭司イエスにとって、時間はないので、バラバラな教会の現実の中で一つになることを祈っていると読むことも可能であろう)。しかし教会の歴史を振り返ってみると、実は教会という組織が初めは一つであったが、後代の教会がバラバラになったということではない。初期の教会からいろいろな流れがあったようである。しかし、重要なことは組織的に一体化するということではなくて、たとえ組織的に多様であったとしても、なおキリストにおいて一つであるという現実を生み出すかどうかということであろう。父なる神と子なる神イエス・キリストとが別々の人格でありつつ一体であるという在り方、イエスは教会がそうなることを祈っている。つまり三位一体の構造こそが教会の一体性の秘密である。
もう一つ重要な点は、教会が一つであるということによって、この世の人々がキリストのことを信じるようになるという点である。教会が分裂し対立している時、宣教は弱体化する。実はヨハネが所属していた教会は分裂の危機にあった。事実、この福音書が書かれた直後、ヨハネの教会では「去る人たち」が出て来た。そのことについて、その頃書かれたヨハネ第1の手紙に少し触れている。
「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました」( 1ヨハネ2:18~19)」。
ヨハネがこの福音書を書いている頃、もう既にその分裂の危機は迫っており、ヨハネは何とかしてそれを避けたいと努力をしているのである。教会が分裂状態にあるということの最大のマイナス面は宣教の不振ということに現れる。ヨハネはとくにその点をここでは問題にしている。「彼らの言葉によって、わたしを信じる人々のために」という祈りの言葉がそれを示している。
信徒たちが心を一つにする秘訣は、わたしたちのために祈ってくれている共通の大祭司がいるということを忘れないということである。今日も、明日も、次の日も、わたしたちのために大祭司イエスは神の右の座で祈っておられる。もし、何かの危機が迫ったとき、「大祭司の祈り」を思い出し、繰り返し読む必要がある。できたら、それぞれが自分の言葉に翻訳して。

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