ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 09/21

2012-09-22 06:22:22 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。我が家の「大図書館」を調べていて、レヴィナスの『タルムード四講話』(内田樹訳)を発見。25年ほど前の出版である。すっかり忘れていたが、その頃私はこれを途中まで読み、途中で投げ出してたいたのである。早速読見始める。ユダヤ人の聖書解釈の方法が具体的に示されていて、難しいが非常に面白い。成る程、こういう風にしてユダヤ人特有の知恵と文化は継承されていたのかと納得する。10時に就寝。4時半に起床。体調快調。チュン、チュン。
posted at 04:38:04

#losungenj 09.21(fri) 主なる神よ、あなたはわたしの希望。わたしは若いときからあなたに依り頼んできました。(Ps71:5)
あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。(2Tim1:14)
posted at 05:03:00
#losungenj 私の黙想:
この詩では「母の胎」から「老いの日」までの私の全体が取り上げられている。その間ズッと「あなたに寄りすがって」きたという。正直に言って、こういう人生は好きではない。太宰治に共通するこういう人生の捉え方は一見「信仰的」に見えるが、信仰者らしくない。本当に神を信じ、神に従う人生は、明るく堂々としたものである。私の内に秘められている「良いもの」は「守る」ものではなく、「攻める」ものである。勿論「聖霊によって」。
posted at 05:14:20

今日の名言: 人生では、良いことも悪いことも起こる。それは、ある状況をどう捉えるかによって変わってくる。そう考えると、決断をせずに、何もやらないというのがいちばん害になることがわかるだろう。(本田健『ユダヤ人大富豪の教え』より) <一言>決断により損する時もあれば得する時もある。どちらにせよ、決断しなかったことを悔いるよりはましだ。
posted at 05:30:21

「昨日のツイート 09/20」をブログにアップしました。 http://t.co/C45PKRgv
posted at 06:09:50

<FBより>
曽我ひとみさんの手記。全文読ませて頂きました。貴重な経験です。全ての日本人に読んで頂きたいと思います。

曽我ひとみさんの手記。http://t.co/U3CTA9yL 書かれていない不可解なことがある。曽我さんは10年前にテレビで平壌宣言を知る。「遺憾な問題」という部分に「私のことを言っているのか」と思った。9月下旬に日本に戻れと突然指示がある。なぜ曽我さんを出してきたのか不明だ。
これは有田芳生氏のポストのシェアです。

FB『もしニーチェが短歌を詠んだら』016(121頁)
付き合いの浅い人にはわたしのヒミツが秘密にみえてはいない
  『人間的、あまりに人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第254節
※ FBでの付き合いは決して深くはない。

FB<閑暇閑話017>ユダヤの知恵 2012.09.21
読書の合間の息抜きにユダヤのジョークを一つ

ノアの大洪水のとき、あらゆる動物がノアの箱船にやってきました。そのとき、「善」も急いで駆けつけてぜひ乗せて欲しいとノアに頼みましたところ、ノアは「この船にはつがいしか乗せないことにしている」ると断りました。でもどうしても生き残りたいと思った「善」は大急ぎで林に戻り、自分のつがいになる相棒を捜しました。そして見つけたのが「悪」です。それで「善」は急げと「悪」ともども箱船に戻り、無事に乗船することが出来ました。それ以後、善のあるところ常に悪もあるようになりました。

昨日、レヴィナスの『タルムード四講話』を読んでいると、こんな文章がありました。
……ミドラッシュの中で、タルムードの博士たちは(皮肉をこめて)、箱船に乗って生き残った生き物の中に「シェディーム(悪魔たち、身体なき霊、ポスト洪水期文明の誘惑者)を付け加えています。なぜ悪魔もまた洪水をまぬかれることになったのでしょう。それは悪魔ぬきでは、本来の人類はせっかく再生したにもかかわらず真の人類たりえない、と彼らが考えたからです。…………(82頁) ※ミドラッシュとは聖書本文を直接引用して解釈するユダヤ教の文献。

上野 博志 ジョークでなく本当のような気がします。

金井 由嗣 深いジョークですね。

文屋 知明 実は、善と悪とは「雌雄同体」でした。つがい(カップル)でないと乗れないと言うことで、一時、二つに分かれましたが、洪水後、元の「雌雄同体」になりました。名前は、と尋ねると、「人間の心」と応えました。(「弛むーど」より)

上野 博志 ヘブル語ですか?

<補遺>レヴィナスの『タルムード四講話』は同じところを何度も繰り返し読まないとなかなか理解出来ない。第1用語法がかなり異なる。決して翻訳が悪いのではない。思い切って自分なりの「意訳」をしないと理解に達しない。理解に達しないと「意訳」にもいたらない。何かレヴィナス風の言い方になってしまった。「十戒は暴力的に強制された」。「強制された十戒は守らなくても弁解できるのではないか」。「内容が理解出来ていない十戒を自由意志で受け入れることができるのか」。「啓示とは本質的に理解出来ないことを先ず受け入れてそれを実践に移す時に理解される」。本当にユダヤ人のラビは恐ろしいほど理窟屋だ。イエスもラビの一人と考えていいだろう。



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