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終末についての断想

2015-11-15 10:52:45 | 説教
終末についての断想<聖霊降臨後第24主日(特定28) 2006.11.19>

終末について マルコ13:14-23

1. 「降臨節前主日」(特定29)の名称読みかえについて
2006年5月に開催された第56(定期)教区会において、主教会提案の「祈祷書中の教会暦の一部を読み替え、その試用を認める件」が可決された。具体的には降臨節前主日(特定29)を「聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日)」と改めるということである。意図は、特祷の内容を重視し、世界各国の聖公会に合わせるということにあるようである。つまり、この主日は一年を総括し、すべてのものがキリストのうちに集められ、解放されることを祈り求め、わたしたちの心を新しい年へと向かわせる礼拝である。
それに対して、本日の主日は、わたしたちに「終わりについて」考えさせるテキストが選ばれている。キリスト教の思想においてはすべてのものの始まりを意味する創造論と共に万物の終わりについての思想も重要である。終末論(エスカトロジー)とは、「世界の終わりについての教え」であり、初期のキリスト教では「再臨論」として熱狂的に待望されたことでのある。その教えは現在でも使徒信経でもニケヤ信経でも唱えられている。従って、一年に一度ぐらい、終末について考えることは必要なことである。

2. マルコ13章問題
本日のテキストに入る前に、まず本日の福音書テキストを含むマルコ福音書第13章問題を整理しておく。第13章は「小黙示録」と呼ばれるように、世界の終末についての黙示文学的説教であり、構造的に一つのまとまりを示している。マルコによる福音書が13章までと14章以下とで用語・思想において微妙は違いがあり、本来のマルコ福音書は13章までとされ、14章以下はマルコあるいはマルコ以外の誰かの執筆による独立した受難物語であったとされる解釈も簡単に否定できない。もし、そうだとすると、第13章の最後の言葉は「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(36節)という言葉は、単に小黙示録の結びの言葉というよりも元来の福音書の結びの言葉としてもおかしくない。
まず、導入部において、豪壮な神殿を見て、賛嘆する弟子たちに対して、イエスは神殿の崩壊を予告する。このことをめぐって、4人の弟子たちが「それは何時のことか。そのことのしるし(予兆)は何か」と尋ねる。これを受けて5節以下のイエスの説教が始まる。説教のテーマは「人に惑わされないように気を付けなさい」。以下、6節から23節まで、旧約聖書黙示文学から世の終わりについてのさまざまな「しるし」が取り上げられる。これらの文章のほとんどは「主として教団(=初期教会)における聖書の講読から生まれたもので、その後次第に(たとえば紀元40年の一預言者の預言が付け加わる、というような事情によって)さらに増大していった」(NTD新約聖書注解マルコによる福音書366頁)。マルコはそれらの資料にところどころ彼自身の言葉を挿入しながら、ここで取り上げている。偽キリストの登場、戦争、部族闘争、地震、飢饉、キリスト者に対する迫害、家庭の崩壊等々、さまざまな災いが予告されている。しかし、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ終わりではない」(7節)。つまり、確かにそれらの災いは世界の壊滅を予感させる出来事ではあるが、それは歴史内の出来事であって、世の終わりの「しるし」ではない。むしろここで、イエスの言葉として警告されている点は「しるしや不思議な業」を行うのは偽メシアであり、偽預言者である(22節)という。
しかし、真の「しるしや不思議な業」について、一切触れることなく、いきなり24節以下の部分で真の終わりについて語られる。それが「イエスの再臨」である。いきなり、イエスは「戸口に立つ」。だれもそのための準備などできない。「その日、その時は、誰も知らない」。つまり、マルコが強調することは、世の終わりのための特別な準備が不可能であり、不用であり、「普段の生活」を見られるということが重要である、ということに尽きる。それが、「目を覚ましていなさい」(35,36節)という言葉に凝縮されている。

3. 第13章14~23節
このような文脈の中に本日のテキストは置かれている。ここは明らかにエルサレムの神殿崩壊という歴史的出来事が想定されている。エルサレムの神殿が破壊者によって占拠され、国土は戦場化する。これは歴史内部における出来事であり、現実である。従って、その対策も具体的である。そういうことが起こらない方が望ましいのは当然であり、そういう不幸が起こらないように細心の注意が必要であるが、やむを得ず起こった場合に慌ててはいけない。落ち着いて「逃げよ」。その災害は今まで誰も経験したことのないようなことではあり、まるで、この世の終わりのような悲劇であるが、だからといって、それは決して世の終わりの出来事ではない。こういう状況においては、偽メシヤや偽預言者が、あなたがたを惑わせるようなことを語るだろうが、決して惑わされてはならない。それら「一切の事」はあくまでもこの世界内の出来事であり、終わりの出来事ではない。それらの出来事を世の終わりのしるしとする発言は、すべて「選ばれた人たちを惑わそうとする」言葉であるから、あなたがたは気をつけろ。そのために、イエスはこれらの災害を「前もって」言っている、という。
この世の終わりを示すような「しるし」というものはない。マルコはこの部分ではそこまで明確にいっていないが、8:11-12ではそのことを明確に語っている。「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。『どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。』(8:12)」。

4. 世の終わりについて
すべての存在するものに始めがあるように、すべての存在には終わりがある。わたしたちは一年に一度ぐらい、「世界の終わり」について、真剣に考える必要があると思う。なぜなら、そのことが現在生きているということと密接に関係し、生命というものの大切さを覚らせてくれるからである。イエスが世の終わりに向かって「目を覚ませ」といわれる意味はそこにある。
今年一年間で何冊かの本を読んだが、その中で、世の終わりということについて、非常に深く考えさせられた小説がある。それは伊坂幸太郎の「終末のフール」(集英社)という作品である。私は現代の作家のものをほとんど読んだことがないが、本屋でこの本を見たとき「終末」という言葉に惹かれて手に取り、パラパラとページをめくり、何か感じるものがあって、購入し、早速読んでみた。本日は、この本を紹介したい。なぜなら、この本が本日の福音書のテキストの最善の注解書になると思うからである。

5. 終末のフールあらすじ
作者伊坂幸太郎さんは、最近3年間で4回も直木賞候補となり、安定した実力が文壇でも高く評価されている。彼のデビュー作は「オーデュボンの祈り」という、どちらかというとミステリー小説であり、その後「陽気なギャングが地球を回す」というような、どちらというとユーモア小説で多くのファンを掴んだ。ここに取り上げる最新作「終末のフール」は彼のそれまでの作品を総括し、今後の方向を示すものであると言えるだろう。この作品のあらすじは以下の通りでる。
「8年後に小惑星が衝突して地球は滅亡する」と発表されて5年たった時点での人間模様が8編の短編小説によって描かれている。それら8編の短編を貫く共通の舞台は仙台の新興住宅地「ヒルズタウン」にあるマンションである。「3年後に世界が終わる」という設定は突飛であるが、そこで描かれている状況は非常に現実的である。人々は最初の5年間はパニックに陥る。もう貯蓄する必要がなくなった人々は仕事を辞め、というより放棄し、いたずらにどこかより安全な場所を求めて放浪したり、あるいは、小惑星の衝突によって死ぬくらいなら、自分の意志で死んだ方がましだと思って、ビルから飛び降りたり、あるいは野獣的欲望のままに女性を襲ったり、商店を略奪したり、人を殺したりする。それらのパニック状況は極めてありそうなことである。しかし、5年もたってしまうと、それらのパニックも小康状態になり、穏やかな日々が続く。この小説はそういう状況での人々の生き方が描かれている。
この残り3年間という設定は微妙である。それ以上だと現実性が薄れ、それ以下だと再びパニックが始まる。そういう極めて現実的な終末を前にした人間は、同時に私たち自身の状況でもある。私たちが「生きられる時間」はあと3年間であるとしたら、私たちはどういう生き方を選ぶのだろうか。あるいは、選ぶということが可能なのか。そういう状況においても、私たちは今のように暮らせるのだろうか。
この小説の中で、特に私の心を引きつけた作品は5番目の作品「鋼鉄のウール」である。ここでは人々がパニックに陥ったとき、また5年たって虚脱状態になった今も、毎日淡々とトレーニングにを続けるに孤高の格闘家が登場する。世界の終りを前にしても、何事もなかったかのように自分のペースを守る彼に、「格闘をする相手もいないのに、何故トレーニングに励むのか」と主人公は問いかける。それに対して、彼はハッキリと「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?あなたの今の行き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?」と答える。この答えの前に、私は思わず襟を正す思いであった。

6. 太陽のシール
この作品で取り上げられている8つの作品はいずれも私たちに生きる意味を深く問うものであるが、本日はその中でも特に光っている一つの作品を紹介したい。それは「太陽のシール」である。
主人公は30代の夫婦で、夫・富士夫は、何かを決断をするということが極端に苦手で、絵に描いたような優柔不断な男性である。それに対して妻・美咲はものごとをテキパキと決めていく女性である。この夫婦の悩みは子どもが産まれないということで、結婚後かなりたってから、やっと夫も決断して病院で検査し、子どもが産まれない原因は夫側にあることが判明する。それが、7年前の出来事であった。つまり、小惑星衝突のニュースの2年前のことである。
ところが、地球最後まで残り3年という時に、妻が妊娠したというところからこの物語は始まる。さて、どうする。産むべきか産まぬべきか。普段から優柔不断な夫・富士夫は、悩みながら、結論が出ないまま、毎日を過ごす。妻の方は、どちらでいいよというような顔をしている。
そんな時、高校時代の友人に誘われてサッカーをすることになる。そこには高校時代のチームメイトたちから「大逆転の土屋」と呼ばれていた主将も来ていた。当時にサッカー部の要であった。彼は技術的にも、精神的にも、友人たちの中で常にリーダーシップを発揮していた。どんなに負けているときでも最後まで諦めず、「我慢してれば、大逆転が起きるぞ」と言っていつもチームを鼓舞し、実際大逆転は起こった。しかし、さすがの土屋でも今回の小惑星の衝突という出来事においては大逆転は期待できない。富士夫は土屋に他人事のような顔をして、「知り合いが、妊娠したらしい」と相談する。土屋はしばらく考えて、「今、生まれても、3歳までしか生きられないんだぜ」と言い、「俺なら出産は考えない」と答えた。富士夫はますます決断ができないで悩む。

7. オセロ
さて、子どものいない富士夫と美咲の夫婦の楽しみは、夕食後2人でオセロをすることである。何故、オセロなのかということについて、作者はオセロというゲームの特徴として、選択肢が非常に少ないので、優柔不断の富士夫の性格とマッチするからだと説明する。富士夫と美咲夫婦はオセロをしながら、子どもを産むべきかどうか話し合う。
「もし小惑星が落ちてこなかったら、子どもを産んでいなかったことを後悔することになるのではないか。もし、産まなかったら、子どもは怒るだろうな」と富士夫は言い、「私たちは誰かによって試されているように思う。子どもを諦めるという決断は、小惑星の衝突ということを事実として受け入れたことになる」。この会話は、もう既に宗教的会話である。そして、「宗教」ということについて、作者は主人公の口を借りて、「宗教という言葉がいつから非難語になってしまったのだろう、と嘆く。
この作品の中でオセロというゲームはかなり重要な役割を果たしているように思う。この日の会話の最後に、美咲は富士夫に「このオセロでわたしが勝ったら産むことにして負けたら産まないことにしようか」という。それに対して、富士夫は「それは嫌だ」と言い、美咲は「冗談でした」と答える。この半分冗談のような会話において、オセロというゲームと「宗教」との境目ははずされる。

8. 「大逆転」
その2日後、富士夫は土屋から、「俺は、最近、すげぇ幸せなんだ」という言葉を聞く。その意味が理解できなくて、富士夫は土屋に聞く。「後、3年しかないのに」という富士夫の言葉に土屋は「後、3年だからだ」と答える。土屋には7歳の娘・リキがいる。彼女は先天性の進行性なんとかという病気である。土屋夫妻にとって、自分たちが死んだ後、娘はどうなるのかということが深刻な悩みであった。それが、小惑星が落ちてくることによって、あと3年で終わることになった。「みんなで一緒に死ねることになった。そう思ったらすげぇ楽になった」と土屋はいう。
富士夫は土屋の言葉を聞いて、ただ「土屋はえらいよ」とだけしか言えない。土屋は声高らかに「大逆転だ」と叫ぶ。そして、土屋は正面の太陽を指さして「あれ、見ろよ」と叫ぶ。その指の先には沈みかけた太陽が、空に張り付いたシールのように鮮やかに輝いていた。土屋とともに太陽を眺めた富士夫は、産むことを決断する。「もし仮に、3年しか一緒にいられなくても、生まれてくる子どもは幸せだ」。これが富士夫と美咲との結論である。もう、いつ小惑星が来ても怖くはない。最後に、もう一度オセロが登場するが、そこは省略する。

9. 結び
8つの作品に共通する一つのメッセージは、不確定な未来に振り回されることなく、現在の生活を大切にせよ、ということであろう。たとえ、現在の生活がどんなに苦しいものであったとしても、ここで誠実に生きることが、未来の不安を克服する。
このメッセージはマルコ福音書第13章で語られるイエスのメッセージでもある。最近の小学生、中学生、高校生の自殺の流行の背後に、現在の生活を軽視する風潮があるように思う。未来のために現在があるのではない。未来は現在の結果にすぎない。私たちにとって重要なのは現在であって、未来のために現在を犠牲にしてはならない。このことを、分かりやすく語っているのが、32節から37節までの譬え話である。「主人が突然帰ってきて、あなたがたが眠っているのを見つけるかも知れない」。「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである」(ルカ12:37,38)。

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