ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 08/11 クルマン『キリストと時』読了

2014-08-13 14:57:10 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。9月の聖研のテキスト確認。読書なし。昼寝1時間。練習1時間半。ラベル印刷用ソフトPrintworksを買う。「遺留捜査」(録画)を見る。外出なし。夜は「軍師・官兵衛」、「親父の背中」を見る。このシリーズは見応えがある。10時に就寝、5時起床。体調・快調、チュン、チュン。

森分 和基さん、藤木 冨士子さん、東山 富昭さん、他22人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 おはようございます。昨日は、雨風が強くて、礼拝をささげに教会へ行った以外は、外出をひかえました。今朝は、生ぬるい風が吹いていて・・・。ひょっとして又雨になるのかも・・・と思っています。
守られて、良い時間をお過ごしくださいませm(__)m

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りをします。良き日となりますように。お祈りします。
posted at 05:08:46

文屋 善明
今日の名言:RT @Bonhoeffer_jp:
教会は恐らく後には教会にとって有害となるであろう多くの芽生えを養育するであろう。しかし、教会は有罪を宣したり裁いたりせず、自己の歴史性の限界を意識しつづける。(ボンヘッファー『聖徒の交わり』)
<一言>同じ言葉でも、この人の言葉となると重いです。

樋口 重夫さん、Yoshiyuki Sakaeさん、峯田 敏幸さん、他46人が「いいね!」と言っています。

清水 行雄 先生、おはようございます。すごい言葉です(^_^)

清水 行雄 キリスト者の祈りと叫びが論理になったような言葉です。感銘を受けました。

文屋 善明 分かって頂いて感謝です。この言葉は「祈り」というより「懺悔」として受け止めました。

清水 行雄 キリスト者になるということは、それほど重たいことなのでしょうか?

清水 行雄 すみません。また失言してしまいました。

文屋 善明 どこに失言があるのかわかりませんが、キリスト者になるということは「重さ」を取り除くこと、あるいは自己にに破れることであって、断じて重たいことではありません。その逆です。もっと気楽になりましょう。

清水 行雄 先生の「贖罪」という言葉に引かれて、重たく感じてしまいました。僕の考えでは、個人の過去にしろ、歴史にしろ、その過ちを反省し、教訓として学ぶところに、進歩があると思っています。(^_^)

文屋 善明 ごめんなさい。「贖罪」なんていうヤヤコシイ言葉を使ってしまって、聖書における「贖罪」という概念には私も疑問を感じています。ただ、「贖罪」という場合、私が何とかするという意味ではなく「神のドラマ」における概念で、私がそのために何かを犠牲(いけにえ)にするということでは決してありません。

播 稔 今の世は神の「ドラマ」なのか、神の「摂理」なのか。申し訳ありませんあまり深く考えないで書いてしまいました。

Satoshi Mizota 重いか気楽かといえば重いかもしれませんよ。キリスト教が体質として合わない人がいるのは、しょうがないと思います。

文屋 善明 そりゃ「贖罪」なんていうことを振りかざせば、重くなりますよね。でも、人間の救済には贖罪は関係ないという宣言が福音でしょう。そしたら、福音は軽いじゃないですか。

Satoshi Mizota そこまでは軽くてもキリストの血とか、あなたのために死んだんだ、とか言われると、やはり重いでしょうね。そりゃ「復活がある」から「死んだ」のも「無意味」にさせられた(つまり人間の罪はチャラになった)んだけど、入り口が重いのにはやはり変わらないんです。「イエスさまは拷問の末に抹殺されたけれど、復活したんだよ、そうでなきゃあなたも殺した罪を負ったままだよ」なんていわれて「信じる」選択肢しかしかありませんよ(現実世界に実際に起こったと信じようが、他の可能世界のひとつとして信じようが結果は同じです)。でも、やっぱり「復活したといくら信じても、その前にイエスさまはとんでもなく苦しんだじゃん、おまけにそれ、わたしじゃんか」と毎日問い直すのは、本当に骨が折れるとともに、気持ちもそこそこ折れるものです。

文屋 善明 そんなこと少しも知らなくてもいい、というのがキリスト教なのです。そういうややこしいことを知りたい人だけが「勉強?」して学べばいいのです。

Satoshi Mizota うーん。私なんか、説教は寝てればいい、教会にはとりあえず出てくれさえすればいい、と思っていますが、それでもいやでも「耳に入り」ますし、洗礼の際に不勉強でいい、なんてことはなかったですから、最低限でも知ってしまうものです。十字架を見るだけで、それは何かを表していると、ある程度は「異教徒」でも知っていますから。一番いいのは、十字架をイヤリングなんかの宝飾に出来る若者くらいのナチュラルさでしょうね。でもそれでも、胃にもたれるんじゃないかなあ。勉強しなければよけい胃にもたれると思いますよ。十字架だけで脱出口がないんだから。

文屋 善明 私はそのことを考える時いつも判断基準にしていることは、幼児洗礼の有効性です。もし何らかの「理解」が必要だとすると、幼児洗礼は成立しません。

Satoshi Mizota その問題がまさに、幼児洗礼者(慣れきっている)と大人の洗礼者(学ぶ必要がある)の「認識の差」を生んでるんだろうなあ、と思いますね。もちろん、幼児も大人も両方とも有効ですよ。しかし、「幼児の受洗者」が成長して、キリスト教の信仰を公に告白するような通過儀礼を経ないと、教会の共同体に実際的に入らないわけです。はてさて「望んだ信仰だったのか」という問いは、神の超越的で、絶対的な救済がありながら、幼児の頃の洗礼者に一種の反抗主義が見出されることに、理想と現実の「アイロニー」があるように見えます。(私は反抗主義の味方はしませんが、反抗主義「者」の味方ではありたいなあと思います。)

文屋 善明 なぜそんなに信仰の道を狭くしたがっているのでしょうかね。信仰の道を狭く、苦しものにしたいと思うのは勝手だし、そうすることによっていろいろな恩恵(内容は人によってそれぞれ異なる)があるでしょうが、もっともベースにあることは、誰でもただ信じさえすれば、でその信じるということは幼子のようになることを意味しています。

Satoshi Mizota いやあ、「意味」と「実体」は異なってるんじゃないんでしょうか。私が問題にしてるのは、「理想をすてろ」ということではなく「理想に近づくことは神の力によってしか出来ないだろうなあ」ということで、「現実的な『策略』が『胡散臭さのもと』になってるんだろうなあ」ということですね。(朝ドラの言葉じゃないけど、「つらいときにこそ、想像の翼を羽ばたかせる」ということが大切なんじゃないのかとか。)。。。「改宗至上主義」は、洗礼の普遍的で絶対的な有効性を「むしろ毀損する」と考えます。

Satoshi Mizota > 幼子のようになる
幼子の持つ「正直さ」は、大人の社会感覚など無視していますから、結構「きつい」ものです。お母さんはいつも言っています。「そんなこというんじゃありません」。大人が幼子の素直さを手に入れるのは、かなり大変だろうなあ、と思っています。


清水 行雄 夜中に目が覚めました。たとえば、ゴシックのケルンの大聖堂がありますよね。あれなどを写真で見たりすると、ヨーロッパのキリスト教信仰は、凄いものだったんだなと思いますし、事実凄かったのでしょう。
posted at 06:03:05

「昨日のツイート 08/09 長崎の平和祈念式典」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/a618161fa2b12b876f1b4a407738775…
posted at 06:38:15

文屋 善明
お目覚めの花。「さぁ、台風も去った。新しい週が始まるよ」「ところで、あなたの名前は『桜満月』っていうの?」「どこが『桜」で何が『満月』7日、よく分かりませんが、まぁ、そのな「レッテル」みたいなもん、どうでもいいじゃありませんか。私は私です」。
文屋 善明さんの写真

後藤 喜美江さん、竹本 耕造さん、萩野 秀子 さん、他31人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 私は私と仰る彼女?は、桜満月という種類のダリアです~♪
優しい色ですね(^^♪

藤木 冨士子 淡いピンクからついた名前でしょうか。かわいい花です。

佐藤 清一 おはようございます。お花の会話に、うふふ。。です。(#^.^#)

文屋 善明
2014日々の聖句 08月11日(月)
すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。(詩117:1)
ヨハネの言葉:わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」(黙5:13)

私の黙想:
今日の聖句は詩編中で最も短い詩。想像するに、詩人は普通に詩を作り始め、先ずこの句を口にした。続いて「主の慈しみとまことはとこしえにわたしたちを超えて力強い。ハレルヤ」という言葉を書き加えた。続いて、詩107、詩113のように多くの言葉を書き加える積もりであった。ところが、ここから言葉が詰まってしまった。おそらく詩人の心には多くの言葉が現れては消え、現れては消えしたことであろう。考えてみると、1節、2節に書き加えるべき「新しい言葉」が出てこない。心に浮かぶ言葉は全て陳腐な臭がする。もうこれ以上書き加えるべき言葉がないではないか。神への賛美の言葉はこれで十分ではないか。言葉が多いのが良い詩とは限らない。神に捧げる、また人々に伝えるのは、言葉ではなく、私の生き方である。それは「イエス(神)のなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ21:25)の心境であったのだろう。

舟田 譲二さん、竹本 耕造さん、Yoshiyuki Sakaeさん、他35人が「いいね!」と言っています。

森内 幸春 主を賛美することはとても楽しいことですね。

播 稔 たしかに、言葉が多いのが良いとはかぎらない。

文屋 善明
クルマン『キリストと時』読了。これは厳密に新約聖書神学のカテゴリーに属する。原始キリスト教における「時間観・歴史観」を非常に厳密に取り出しており、その視点から現代神学を批判している。しかし、一般の歴史観や時間観との接点を求めることは非常に難しい。それだけにファンダメンタリストの立場との親近感は濃厚である。

樋口 重夫さん、藤木 冨士子さん、金井 由嗣さん、他25人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明 注:新約聖書学と新約聖書神学とは異なります。クルマンノ場合は歴史上のカイロス/カイロイを「啓示」と捉えることから「神学」になります。救済史とは同時に「啓示史」とする。これは歴史学としての新約聖書学の領域から「神学」の領域に踏み込んでいます。

Akira Ueda 神学が神学たり得るのは啓示故であるという単純な表現、教えられるところが多いです。

文屋 善明さんが嶋津 雅彦さんのリンクをシェアしました。
娘もロンドン公演に参加する予定です。

合唱団京都エコー・ホームページ
www.kyotoecho.com
京都を活動中心とする合唱団京都エコー・公式ホームページです。指揮者は全日本合唱連盟理事長・浅井敬壹です。京都府合唱連盟加盟。

森内 幸春さん、Yutaka Tanabeさん、播 稔さん、他22人が「いいね!」と言っています。

文屋 善明さんがリンクをシェアしました。
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Twitter / miharayasunori: 安倍政権がやろうとしている事。このとおりなんだけど氣づかない ...
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