ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/06/29~07/05

2014-07-06 15:30:07 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/06/29~07/05

2014日々の聖句 06月29日(日)
戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。(箴言7:2)
自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(1テモテ4:16)

私の黙想:
「教えを瞳のように守れ」という表現は面白い。瞳は身体の中でも最も弱い部分である。これを守る瞼にしても頼りない。「防御メガネ」も有効とは思えない。眼を守るためには顔を全面覆うしかない。ドライブ中に眼が疲れると全身の活動能力が低下し、危険状態になる。そうなったら「眠る」しかない。
神の戒めとは「瞳」のようなものだという。まさに瞳だ。面白いことに人間は、いや全ての動物は自然状態では(鏡とかコンピューター使わなければ)、眼自体を見ることはできない。眼は瞳を見ることができない。紙に書かれた、あるいは石に刻まれた「神の戒め」は教えそのものではない。教えそのもののコピーに過ぎない。聖書の言葉も「神の教え」のコピーである。私たちは教えそのものを見ることはできない。見えない。見えないからないのではない。見えないけれども「見る」能力として私たちに与えられている。私たちは私たちの心に刻み込まれた「神の教え」によって外界を見る。それが「心の目」である。私たちは「心の目」を通して世界を見る。そして世界と私自身との関係を見る。
今日は主日だ。心の目を休ませる日だ。神の祝福が全ての人の上に豊かにありますように。

2014日々の聖句 06月30日(月)
まっすぐな人には闇の中にも光が昇る、憐れみに富み、情け深く、正しい光が。(詩112:4)
夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出した。(使徒言行録5:19)

私の黙想:
口語訳は「光は正しい者のために暗黒の中にもあらわれる。主は恵み深く、あわれみに満ち、正しくいらせられる」と訳し、フランシスコ会訳では「その人は闇の中で、正しい者を照らす光として現れ、憐れみ深く、親切で正しい」と訳し、「本節を非人称型に訳す者も、主を主語として訳す者もいる。しかし、前節や次節と同様に義人を主語とするほうが適切と思われる。義人は正しさの点で神に似ているからである」と註解している。岩波訳では「光はヤハウェを指す」と註解している。
今日の聖句については「翻訳」の問題ではなく、信仰者(ここでは「まっすぐな人」、「義人」)の体験を物語っている。「闇の中にも光が昇る」。「闇の中にも光が昇る」という神秘的な経験。光が昇ってしまったら闇ではなくなる。信仰者の経験は「闇は闇のままで」そこに光を見る。その光は目に見える「明るさ」ではない。その光は明暗のダイメンション(次元)を超えた光で信仰者にしか見えない。だから、後半の文章でその光の実体がメンタルなものとして定義づけられている。この光を見たら、その人自身も「光」に変えられる。反射としての光である。光は闇の中を走っても見えない。これは物理学の話である。しかし、その空間に塵とか何かがあると、光を反射し、それ自体が輝く。それと同じ構造が、ここで起こっている。参照:マタイ福音書5:14~16

2014日々の聖句 07月01日(火)
あなたは多くの災いと苦しみを、わたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。(詩71:20)
救い主キリスト・イエスは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。(2テモテ1:10)

私の黙想:
「思い知らせる」という訳語に引っかる。口語訳では単純に「重い悩みにあわされました」、他の訳もほぼ同じ。岩波訳だけは「わたしに見せた」。一体この「思い知らせる」という日本語にはどういう意味が込められているのだろうか。先ず第1に「災いとか苦しみ」は「あなた」から出てきているということ。第2にそれは「あなた」のわたしに対して何らかを知らせる意図があること。第3にその意図は善意の場合もあり悪意の場合もある。悪意の場合は「復讐劇」である。しかし、ここは悪意ではないであろう。こういう場合に「思い知らせる」という言葉が用いられる。ただ苦しめるのではない。苦しい訓練によってわたしを強くするというような単純なことではない。その苦しみを通して私自身の中にある何かに気づかせようとする意図がある。私自身がそのことに気づいた時、わたしは「再び命を得る」。ヘブル語原典にそこまでのニュアンスが含まれているかどうか、わからない。

2014日々の聖句 07月02日(水)
男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。(創世記5:2)
主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。(1コリント11:11~12)

私の黙想:
創世記2~3章の物語では、アダムの命名の記述はない。ただあるのは「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、とあるだけである。2章ではすべて「人」と訳されている。面白いのは23節で「これこそ女(イシャ―)と呼ぼう、まさに男(イシュ)からから取られたものものだから」と人が言った、とされている。3章に入って前半では「アダムと女」で、後半になって「アダムは女をエバ(命)と名付けた」(20節)と記されている。非常にヤヤコシイ。整理しないと問題点が見えてこない。口語訳ではも少しスッキリしており、アダムという名前は4:25で初めて登場する。いずれにせよ、「翻訳」上の話だから、原典で読む人には関係のない話であるが、いわば「非本質的問題」であろう。そういう背景を考えると今日の聖句はどういうことになるのか。「人と名付けられた」の「人」とは個別的な人間の「名前」ではなく、普遍的人間としての「人」ないしは「人間」である。つまり、私も「アダム」であり、あなたも「アダム」、男も「アダム」だし、女も「アダム」ということになる。ウーム、ますますヤヤコシイ。このややこしさをパウロはスッキリといいのけたのが、本日の新約の聖句である。これは明らかにパウロ、あるいはユダヤ人たちの「解釈」であり、「翻訳」である。本日は少々「遊びすぎたかな」。

2014日々の聖句 07月03日(木)
あなたの地は再び不法を耳にすることなく、破壊と崩壊は領土のうちから絶える。あなたの城壁は「救い」と城門は「栄誉」と呼ばれる。(イザヤ60:18)
神は彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。(黙示録21:4)

私の黙想:
まぁ、訳し方の違いであるが、フランシスコ会訳では「お前の地に暴力も、お前の国境内では荒廃も破壊も聞かれない。お前は、お前の城壁を『救い』と、お前の城門を『讃美』と呼ぶ」。ここでの「お前」はエルサレムのこと。つまり預言者エルサレムの回復、復興を描いている。いわば「理想の国家像」とでも言うべきか。この預言は祖国へ帰還することを躊躇している人々への呼びかけという意味を含んでいる。やがてこうなるのだから「祖国へ帰ろう」。現実には城壁は破壊され城門は崩壊している。それを修復するのはあなたたちだ。
今の日本は全ての問題で「閉塞状態」である。国論は分裂し、権力者による横暴は極限に達し、エネルギー問題では出口が見えない。マスコミを通して聞こえてくる声は「暴力」であり、「荒廃」であり、「破壊」である。これを克服して新しい日本を作り出すのは、わたしたち以外の誰でもない。それを甘い理想主義というなら言え。理想が現実を変革するのである。

2014日々の聖句 07月04日(金)
遠方からも人々が来て、主の神殿の建築に携わる。(ゼカリヤ6:15)
キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(エフェソ2:22)

私の黙想:
神殿の再建という大事業にすべての人たちが心を一つにして関わる情景が描かれている。今日の聖句は特にそのために「遠方からも人々が来る」ことが述べられている。おそらく彼らは何らかの事情によりバビロンに残留した人々であろう。彼らも祖国での神殿再建に協力してくれている。このことがどんなに大きな慰めになったことか。
神戸の時もそうであったが、東北でも、全国から復興のために献金し、訪問し、共に作業をしてくれている人々がいるということだけで、どれだけ大きな慰めになったことだろう。ああ、それだけに、復興資金を流用したり、除染、廃棄物の処理、等々の復興事業に群がる利権屋たちを思うと、情けなくなる。

2014日々の聖句 07月05日(土)
どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。(詩19:15)
イエスの言葉:まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(ヨハネ4:23)

私の黙想:
言っていることと、思っていることとは必ずしも同じではない。その事自体は罪でもないし、ウソでもない。むしろ人間とはそういう存在であり、いわばそういう在り方によって社会は平穏に維持されているという側面も否定出来ない。しかしそこに欲が絡み、憎しみが加わると、不信、諍いの原因となる。個人間の、あるいは個別的な問題はさておき、政治的な選挙における「匿名性」は、選挙結果が選ぶ者の本音であるという保証である。いわば選ばれた者(権力者)の正当性の保証である。つまり選挙行動(言っていること)が選挙人の「思っていること」とが一致していることによって、その権力は真実なものとなる。従って選挙制度に欠陥があったり、投票行動、あるいは投票結果に不正があると、その権力は弱体化する。
究極の権力者である神は人間の「誠」を要求する。人間は神の前に「口の言葉」と「心の思い」とを捧げる。実はこの姿勢は神の権力の強化ではなく、人間の誠実さの強化になる。ここが宗教の持つ不思議さである。人間は神に対して真実である時、隣人に対しても誠実な者となる。

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