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ぶんやさんの記録

断想:降臨節第3主日(2018.12.16)

2018-12-13 17:03:31 | 説教
断想:降臨節第3主日(2018.12.16)

荒野の預言者ヨハネの説教  ルカ3:7~18

<テキスト>
7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
<以上>

1.ヨハネの説教
今週のテキストは先週の続きの部分で荒野の預言者ヨハネの説教が取り上げられている。先週のテキストではヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と総括的な表現にとどまっていたが、本日のテキストではその具体例があげられている。
先ずヨハネの説教そのものを読み分析しておこう。ここでの説教は3つの部分に分けられる。
第1部(3:7b~9)は「蝮の子らよ」という言葉で始まりかなり激しい批判と警告である。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」という言葉はイスラエル民族の危機的状況から眼を逸らそうとする指導者への激しい批判の言葉であり、また同時にそれを指示している民衆への批判の言葉でもある。この部分はマタイ3:7b~10とほとんど完全に一致している。おそらくこの部分はマルコにはないのでQ資料によるのであろう。しかし、この部分は同じ言葉であっても語る人の立場によって全然異なった意味になる良い例でもある。ユダヤ人であるマタイが語る場合には、同じ同胞として民族の退廃を嘆く言葉としてほとんど違和感なく読める。しかしルカの場合は非ユダヤ人であり、「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(3)という言葉は「ユダヤ人の特権意識に対する一種のアイロニーとして「神は石ころからでも」ユダヤ人を作り出すことができるという意味に響く。つまりルカ福音書における荒野の預言者はユダヤ民族主義を克服した普遍的な「荒野の声」である。
それに続く第2部分(10~14)では群衆の中から3つの質問に対してヨハネが答えるという対話的形式で語られる。この部分はマタイにもマルコにも見られないルカ独自のもので独自の資料によるのかあるいはルカ自身の創作であろう。専門的には「身分説教」(コンチェルマン『時の中心』、44頁)と呼ばれる。その内容は驚くほど凡庸である。この部分については後に詳細に述べる。この平凡すぎるほどの答えに対して群衆は「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」(3:15)という解説が挿入される。この言葉は明らかにルカの解説である。
この言葉によって第3部(16b,17)が引き出される。この部分についてはマタイもほぼ同じ言葉を記録している。おそらくこの部分もQ資料によるものであろうが、マルコもほぼ同じ内容のことを述べているので、これが原始教団におけるイエスと荒野のヨハネとの関係についての公式な見解だったのであろう。

2. 身分説教の主眼点
さて、この説教全体の主眼点は「悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:7)ということであろう。このメッセージを受けとって群衆は「では、わたしたちはどうすればいいのか」とヨハネに迫る。群衆も徴税人も、兵士も基本的には同じ質問をしている。それに対するヨハネの「指導」も単純明快である。それがこの説教の中心部となる。つまり悔い改めということについて3つの具体的な提案をしている。ここには福音とか清めとかという宗教的要素は一切見られない。ごく普通の社会生活の規範である。
(1) 公正な分配
(2) 規定以上のものは取るな
(3) ごまかすな(自分の給料で満足せよ)
特別なことは何もない。あまりにも平凡すぎる。第1部の激しさと比べてあまりにもやさしすぎて、驚いてしまう。荒野の預言者ヨハネの言う悔い改めとはこういうことであったのかと改めて考えさせられる。私たちはキリスト教の伝統に従ってヨハネの言う悔い改めということにあまりにも多くのことを盛り込みすぎてしまったのではなかろうか。その結果生活態度の変革という悔い改めの原点を曖昧にしてしまったのかも知れない。逆に言うとそのような当たり前のことを語ることが社会批判になるということは社会の側に問題があるということを示している。非ユダヤ人であるルカから見るならば、ここに登場するヨハネは旧約聖書の預言者というよりも社会活動家である。語られている内容はどこの民族にも通用する社会倫理であり非宗教的である。ユダヤ人の歴史や宗教にあまりにもこだわりすぎることへの批判が感じられる。その意味ではユダヤ人が後生大事にしている「律法」も何も特別なことはない。語られている内容は人間が人間として普通に生きる道、普遍的な倫理である。ルカはヨハネにそのことを語らせる。 ヨハネの説教の中でこの部分(10~14)はマルコにもQ資料にもよらないルカ独自のものである。だからこそルカのキリスト教理解においては非常に重要な問題の指摘がある。

3.福音
本日のテキストにおいて、先ず注目すべき点は18節の「ヨハネはほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」という言葉である。ヨハネの説教を福音だという。ルカは使徒言行録の著者でもある。彼にとって「福音」とはキリスト教そのものを意味する言葉である。福音書中でもイエスの死が間近に迫ったころ、ベタニヤで一人の女性がイエスの足下にひざまずき、高価な香油をイエスの足に注いだ。それを見た弟子たちは彼女の行為を批判した。それに対してイエス自身の言葉として「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と語られた(マタイ26:13)。また福音書の中でも最も古いとされるマルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で書き始めている(1:1)。ここから、「福音書」という文学のジャンルが生まれたとされる。確かにマルコはヨハネの活動から書き始めてはいるが、マルコでさえヨハネの説教を「福音」とは言わない。彼が「福音」という言葉を最初に用いるのは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)であり、この句はイエスの言葉と行為を総括する言葉とされる。マタイも同様で「イエスがガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えた」(4:23)で初めて用いられている。ヨハネ福音書では「福音」という言葉は一度も用いられていない。
こういうことを背景にして考えると、ルカのこの言葉を「福音を告げ知らせた」と翻訳するのは妥当なのかということが問題になる。「福音を告げ知らせる」と翻訳されているもともとの言葉「エウアンゲリゾー」で単に「良いことを知らせる」という意味である。ルカはここまでの部分で既に2回この言葉を用いている。最初はヨハネの誕生に際し天使ガブリエルがヨハネの父ザカリアに向かって「あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」(1:19)と語りかけた言葉である。次にクリスマスの物語で有名な場面で、天使たちが羊飼いたちの語ったとされる「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(2:10)という言葉である。確かに、これら2箇所とも天使が語った言葉であり、それは喜ばしいお告げであった。従って、これらの言葉を「福音」と翻訳するのには抵抗があり、ふさわしくないものと思ったのであろう。従ってここでもこの言葉を「福音」と訳さなければならないわけではない。むしろ、もともとの意味の通り「良い知らせ」、あるいは「良い教え」と訳す方がすんなりする。ルカにとって福音とは「神の国の福音」(16:16)であって、ヨハネの説教はキリスト教会用語としての「福音」ではなく、単に「良い教え」である。口語訳聖書ではこの部分は「民衆に教えを説いた」と翻訳されている。それより前の文語訳では「福音」という言葉が用いられていたので、口語訳聖書ではそれを訂正したのであるが、新共同訳になって再び「福音」に戻ってしまった。これは明らかに誤訳である。

4.ルカにとっての旧約聖書
ルカは荒野の預言者ヨハネの説教を「群衆への良い教え」としてとらえている。そのことの意味は小さくない。既に論じたようにルカはヨハネを旧約聖書の預言者を代表し総括する者として理解しているので、ヨハネの説教もまた旧約聖書全体を総括するものである。言い換えると非ユダヤ人であるルカにとって律法にしても人間が社会生活をする上で有益な良い教えとして理解している。ユダヤ人にとっては旧約聖書は神に選ばれた神の民としての神との契約の書であり、ユダヤ教の聖典であるが、非ユダヤ人にとってはそんなことは関係ない。その意味ではキリスト教にとっての旧約聖書は本質的には歴史的資料に過ぎないと考えられるが、ルカはそうは考えない。ルカにとって旧約聖書それ自体が非常に魅力的な良い教えであった。たとえそれはイエスにおいて成就した「神の国の福音」(16:16)ではないにせよ、預言者たちにとって語られた良い教えであった。それはユダヤ人には理解できない新しい見解である。
そのことを示す最もいい実例は、荒れ野の預言者ヨハネのことを述べるイザヤ書の引用に示されている。マルコは1:2~4で次のように語る。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』。」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ」た。実はイザヤの預言とされる言葉の前半の「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」の部分はイザヤ書にはなく、多分マラキ書3:1からの引用だと考えられるが、ルカはその部分を削除する。そして、その代わりという訳ではないがイザヤ書の続きの部分を付加する。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」。この部分は明らかに道を整えるということの内容を示す言葉で、重要なポイントは「人は皆、神の救いを見る」にあり、ユダヤ人の偏狭な民族主義を克服し普遍的な救済を語る。これがルカの立場である。従って、これを語るヨハネから「らくだの毛衣」をはぎ取り、腰から「革の帯」と取り除き、「いなごと野蜜」という食生活をやめさせても(1:6)、なおヨハネは「女から生まれた者のうち」(ルカ7:27)で最大の人物であった。その意味で彼の語る言葉は全世界のあらゆる人々に対しする「良い教え」であった。

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