ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 06/03~06/09

2012-06-11 08:30:53 | ローズンゲン
losungenj 2012.06.03(sun)
わたしたちの神は、その呪いを祝福に変えてくださった。((Neh13:2)
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(1Pet3:9)
私の黙想:
ネヘミヤにおける「敵」とは単に親切でなかったということである。イエスの敵を愛せよという教えは命を掛けた迫力がある。パウロのような敵の愛し方(ロマ12:20)には疑問が残る。現実の生活において敵を愛するということは本当に難しい。

losungenj 06.04(mon) あなたは食べて満足するとき、主を決して忘れないよう注意しなさい。(Deut6:11-12) こう祈りなさい。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。(Mat6:9,11)
私の黙想:
その日の糧にも困る程の貧困においてもその人の本性はが現れるが、ある意味で、それなりに納得できる。しかし豊かさにおいて現れるその人自身の本性は醜い。生活保護の不正受給は許せるが、それを追求する国会議員や高級官僚等の不労所得に近い高給には腹が立つ。

losungenj 2012.06.05(tue)律法をまだ知らない彼らの子供たちも聞いて学び、あなたたちの神、主を畏れるようになるためである。(Deut31:13)
パウロの手紙:わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。親が子のために蓄えなければならないのです。(2Cor12:14)
私の黙想:
子に対する親の責任が問われている。子に対する親の第1の課題は人間には畏れる者があるということ。これは言葉で伝わるらない。親自身が神を畏れて生きる。これしかない。ニーチェが批判するように形骸化した宗教は神を「恐れ」させる。重要なことは生きることへの恐怖心ではなく、根源的な信頼感(the Basic Trust)であり、それを旧約聖書は「畏敬」と呼ぶ。

losungenj 2012.06.06(wed)
主なる神よ、今この僕とその家とについて賜ったとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください。(2Sam7:25)
神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。(Act13:23)
私の黙想:
これが預言者ナタンを介してなされた神とダビデとの契約。この契約によってイスラエルは「永遠に」神に縛られるが、同時に神も永遠に縛られる。これ以後のイスラエル史は民族の契約違反と神の契約遵守とのドラマであり、それがキリスト教の成立にまで至る。ユダヤ人たちが自己の民族史の中でイエスをどのように位置付けるかということと、それが「私の信仰」といかに関わるのかについての説明にはなっていない。

losungenj 2012.06.07(thu)
わたしはこの地にあっては寄留者です。(Ps119:19)
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。(1Cor9:24) 
私の黙想:
イスラエル人の根底に「約束の地」においてさえ「寄留者意識」があり、それがかなり民族結束のエネルギーになっていたのではないか。この点は日本列島で生まれ日本列島に住んでいる大和民族とは対照的な意識であろう。外地で生まれ10歳まで外地で生活した私には「ふるさと意識」はない。五木寛之はそれを「デラシネ(根無し草)意識」と呼ぶ。
<黙想の補足>土地やその地の文化に根拠を持てない人間が持てる生きる根拠は「地から離れたところ」にある。イスラエル人の場合「アナタの戒め」こそが、唯一の頼るべき土台である。デラシネ(根無し草)の根は宙に浮いている。それが「アナタの戒め」。だからこそ彼らはディアスポラの民として生きていける。私には「ふるさと」がないから、「神の国」を故郷とする。

losungenj 2012.06.08(fri)
かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。(Jer31:28)
イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。(Mark12:1)
私の黙想:
やはりここのメッセージは神の心変わりであろう。あれほど絶対、全知全能、普遍の神が「心変わり」をする。これほど矛盾した信仰はない。でも、旧約聖書が描く神はそうなのだ。愛には「心変わり」、「にもかかわらず」、「止むに止まずして」が含まれている。ここに神と人間との歴史のドラマ性がある。イエス自身の中に「神のドラマ(矛盾)」が存在する。だからイエス自身が躓きなのだ。

losungenj 2012.06.09(sat)
赦しはあなたのもとにあり人はあなたを畏れ敬うのです。(Ps130:4)
わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。(2Cor6:1)
私の黙想:
もうこの歳になったのだから正直に言っていいだろう。私は自分を善人・義人だと思たことはないし、それと同じくらい神の前で罪人だとも思わない。だから神による赦しとか贖罪ということが理解できない。ただ、まっとうな人間として生涯を終えたいだけである。それでも私は自分のことをキリスト者だと思っている。

門叶 国泰 「罪」! 牧師先生方へのお願い:もうそろそろ(150年近く経ったのだから)「罪」に代わる用語(説明なしに使える)を作って頂けませんか。あまり分かりやすい用語を用いると、牧師が失業するかとも。私などは、昔から「つみ・とが」と言い続けられてきました。

文屋 善明 私もそれを考え続けています。私の祖母は厳格な仏教徒でしたが、娘(つまり私の母)の影響でキリスト者になりました。そのときに「悔い改めるべき罪」がない。そのときに思いついたのが「今までアナタのことを存じ上げなくて申し訳ありませんでした」という「罪(?)」を懺悔したとのこと。この話を私は小学生のときに聞き、それ以後今日までズッと考え続けています。これって「罪」ですか。

門叶国泰「愛」とか「罪」とか、キリスト教は「言葉」の説明に大半の時間を費やし、それだけで「説教」が成り立ってきた、などと言うと、牧師先生方から総すかんを食らうでしょうね。ローマのカサナンゼ文庫所蔵の和文「どちリな・きりしたん(1600年長崎刊)」の主の祈りには、「・・・われら人にゆるし申すごとくわれらのとがをゆるしたまえ・・・」とあるそうです(門脇文庫)。「とが」の方がまだ固定観念が薄いでしょうか。ただし、私(とが)には迷惑至極ですが。

澤木 俊和 その昔ミカエル八代斌助師父は信仰とは主イエスを知り生活の基盤を神の側に変える事だと言われました。この言葉は文屋先生のお母様の言葉にも通じるのではないでしょうか。又Aシュヴァイツエルの言葉に主イエスは未知の人として近づいてくる人は彼と共に生活する事でイエスが何者かがわかるとも言っている。日本のキリスト教(特にプロテスタント)は何も関係のないアメリカの清教徒の過去の倫理をキリスト倫理だと思い伝道している。もっと主にある喜び、解放を伝えるなら伝道は爆発的進展すると思う。

三浦 三千春  文屋さんのお母様のような意味で言うところの「罪」は、日本語の辞書の3番目とか4番目に「キリスト教に於いて、宗教上の…」と説明されるものだと思います。キリスト教の理解では多分、それがあるので、犯罪とかいわゆる、世間で「罪」と言われるものも発生することになるんだよ、と言いたいのだと思います。ただ、世間の常識において、3番目の理解はほとんどされていないので、誤解が生じるののではないかと思います。神ということばにしてもそうですが、「150年前にその言葉を当てはめよう。キリスト教が浸透していったら、キリスト教における意味が世間に浸透するだろう」と翻訳者は思ったのかも知れません。あと、100年経ったら、浸透するのかもしれません。しかし、その浸透の努力の中に、文屋さんや門叶さんのおっしゃる「罪」という言葉を使わないで言って欲しい、という努力が必須のように思います。なんか、釈迦に説法のようなことで・・・。自分の理解の整理のために書きました。

三浦 三千春  私の出身教派も、「伝道」といったら、「神・罪・救い」を把握させねばならず、罪の理解については、昔の刑事ドラマよろしく「ほら、正直に吐かんかい!あるやろ!」という具合に迫る場合すらあり得ました。それはやっぱり浅薄だと思います。ですから、罪と言う言葉への違和感は非常に私も感じます。

文屋先生の文のコメント中文屋先生おばあさまをお母と間違え誤記してすみせんでした。

三浦 三千春 あら、そうだ! 澤木さんと右に同じです(^^)

文屋 善明 正しくは、「(私の)お母様」ではなく、私の祖母です。私の母は東京聖書学院(日本ホーネス教団の神学校)の卒業生ですから、非常に保守的な罪理解と救済論を持っていました。

三浦 三千春  門叶さんのご指摘は、「罪というのは、世間で言うところのそれとは違ってなんらたかんたら」というのは労力の無駄だから、もっと手あかのついたいないことば(トガであるとか)を使っては、ということでしょうか。そういう発想なら、よく言われるところの「ギリシャ語のハマルティアの直訳で「的はずれ」ってのはどうでしょうか?長くなれば、いのちを与えた神への無視、とか、・・・。門叶さんってとがさんってお読みするんですね。30秒間考えて分かりました。

三浦三千春さん:言いたかったことは、そういうことではなそうです。もっとも、何が言いたかったかは、自分でも良く分かっていませんが。言葉の解釈ばかりしている「説教」は! と言っても、具体的な特定の教会のことではありません、これも念のため。澤木俊和さんの後半のご意見に同意!ということでしょうか。












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