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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第5主日(特定7) (2018.6.24)

2018-06-22 09:56:26 | 説教
断想:聖霊降臨後第5主日(特定7) (2018.6.24)

嵐を静める   マルコ4:35~41

<テキスト>
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った

<以上>

1. 2つ奇跡集
第1奇跡集(1:21~2:12)においては、カファルナウムの会堂での癒やし(1:21~28)、シモンの姑の癒やし(1:29~34)、重い皮膚病の人の癒やし(1:40~45)、中風の人の癒やし(2:1~12)等、4つの病気の癒しという奇跡が述べられており、その情景の中では弟子たちの影は薄く、弟子集団がまだ十分に形成されていない頃の雰囲気を多く残している。それだけに、病気を癒やすイエスの姿がことさらに強調されている。
第2奇跡集では(4:35~6:6)においては、嵐を静める奇跡(4:35~41)、ゲラサの人の癒やし(5:1~20)、ヤイロの娘の癒やしと12年間出血の止まらない女の癒やし(4:21~43)、故郷での癒やし(6:1~6)等、5つの奇跡が集められている。第1奇跡集と比べると、いずれもドラマティックな物語になっている。それだけにイエス以外の登場人物の描写も明確で、イエスとの関係が鮮明である。

2. 奇跡に対する基本的姿勢(理解)
福音書における奇跡物語を私たちはどう受け取るべきか。キリスト教に関心を持ち、聖書を読み始める人々の最初の躓きは、この問題にある。現代ではこの問題をまともに取り上げている神学者はほとんどいない(ように思われる)。確かに、これはキリスト教信仰において「初歩的疑問」ではあるが、一応キチンと押さえておく必要はあるだろう。
そこで、私の恩師の文書ではあるが、現在でも訂正の余地がないほど明確にこの問題を論じているので、これを紹介し、私の奇跡理解とする。文章は少し古いがしっかりしているので、一部省略し、一部他の個所から自由に引用を補って掲載する。
福音書はイエスの行為を語るにしばしばこれを奇跡であるとし、また時にはそれを謎、ないしは象徴と見ている。ヨハネ福音書はこのような奇跡をすべて「徴」または「不思議」と呼んでいる。これらの記事を私たちははいかに受け取るべきであろうか。正統派の信仰に従えば、それはそのまま文字通りに受け取られるべきものであるとする。しかし私たちはそういうことが信仰の唯一の態度、正しい道であるとは考えない。真理は学問的な批判を超えるものではあるが、それをさけて成立するものではなく、それに耐え、それを貫通してその光を輝かすものだと信じるからである。福音書に記されている奇跡物語は種々の形また性格をしているので、これを一様に論じるわけには行かない。その批判・検討はその一つ一つの場合に従って行なわれなくてはならないが、今その型を事柄の性質に従って分類するならば、これを大きく3つに分けることが出来る。 第1類は、肉体的な疾患に対する医療行為であり、 第2類は、精神的疾患に悩む者、即ち悪鬼に憑かれた者からこれを追い出して健康な者とする奇跡である。 第3類は、暴風を鎮めるとか、波の上を歩くとか、あるいは5つのパンと2匹の魚で5000人を満腹にすること、またイエスの言葉に従うと大魚を得たり、魚の口から銀貨を得たりする記事、呪いによって無花果の樹の枯れたことなど、いわゆる自然現象に関する奇跡と言ってよいものである。
このうち第1類および第2類に属するものは大雑把に言ってその歴史性、事実性を承認できるものが多い。現代の歴史批評において注目を牽きつつある、様式史的方法は、福音書記事の文体・用語・構成などを精密に検討することによって、福音書の史料となった口伝の形成過程ないしはその性格に眼を注ぎ、口伝の背後に横たわる教団の状況と口伝を生み出した生活地盤とを考慮しつつ、歴史批判に新生面を開いたのであるが、これらの研究によっても、大体以上の結論は確かめられている。
第3類のものになると、これは最初から物語的興味によって形成されたと見られる伝説、ないしは物語といわれるものが大部分を占めている。しかしそういうものを生み出した背後にはやはり何らかの驚異の経験が事実として弟子たちに存したことは否定し得ない。ただ、私たちは今日それを明確な姿で確定することが出来にくいだけのことである。
無花果に関する物語については、イエスの語った譬話がイエスの為した事実として語り継がれるに至ったのではあるまいかという懸念が濃厚である。この話の組み入れられている文脈からそういう感じを受ける。
一体、奇跡物語と譬話とはその意図において同じ性格をもっている。いずれも日常生活の中でこれを割って(ママ)超越的に内在する神の国の実在、その現実に人々の注意を喚起し、見えるものの奥にこれを支え活かしている見えない真実に向かって人々の信仰の眼と耳とを開くようその内的感覚にと訴えるものに外ならない。奇跡はいわば劇的な譬喩(ママ)ということも出来よう。イエスの語った譬話が奇跡物語に変形することは不思議ではない。(『イエス』、62頁)
ゲーテは『ファウスト』の中で「奇跡は信仰の愛子である」という有名な言葉を遺しているが、およそ驚異の感情ないし経験なしに宗教は存立しない。ただ何を驚異として感じ見るかは、時と場所と人とによって異なる。私たちは今日の意識と感情と常識とによって、福音書の物語る奇跡物語に近付くことを先ず警戒する必要がある。今日においては何の不思議もない事柄が、かの処においては驚異として受け取られた。驚異として受け取られたものを説明し人に語ろうとする場合には素朴な想像力による脚色を避けることが出来なかった。私たちはそれらの概念や表象の背後に脈打っている彼らの感情と、物語の背後におおわれている事実の存在を調べなければならない。当時の世界にあっては、ひとりユダヤに限らずギリシャの文化社会においてすら奇跡はむしろ日常茶飯事に属したことを記憶すべきである。奇跡は自然法を破るものであるという今日の常識は、当時に適用させるわけにはいかない。一体自然法という概念は中世のスコラ学において生誕を見たものであって、しかも鉄則のような法則によって動く近代の機械的自然観のなどは、彼ら古代人の全く知らなかったものである。従って今日私たちが奇跡として報ぜられるものに対する奇異と警戒の感情は、彼らの精神性においては夢想することさえ出来ない。福音書が奇跡、あるいは能力ある業、として語るものは以上のように自然法に対する矛盾・困難というような問題を当時の人々に感じさせたのではなく、これらの業においてはたしかに神が働いているという積極的なあるものを深く印象づけたものである。神の働きを感じさせる出来事はすべて、奇跡・不思議として受け取られたので、逆にまた偉れた人、神に生きる人においては奇跡が期待された。それ故に福音書もまた、奇跡は神の働き、能力の現れとして人々のうちに信仰を呼び覚ます徴、信号として語られていると共に、他面、人々の側に信仰の存する場合にのみこれが報ぜられて、信仰のない処ではイエスは奇跡を行なう事が出来ず、またこれを否定したことを明らかにしている(マルコ6:5,6、マタイ13:58)。(松村克己「イエス」弘文堂、1948.8.14 30~34頁

3. 物語のあらすじ
個別的な問題については、それぞれの個所が取り上げられるときに考えるとして、本日は「嵐を静める奇跡」における問題点を取り上げる。
その日も、イエスは多くの群衆に追いかけ回され、忙しく過ごされた。イエスは群衆と共に過ごす時間はとても楽しく、決して苦痛ではなかったらしい。それでも、さすがに夕方になると疲れを感じたのか、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。向こう岸は、こちら側とは違って、人も少なくゆっくりできる所であったらしい。そこで弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。この表現はなかなか微妙である。ここでのイエスの姿は、あたかも病人のようである。かなり疲れておられたのかも知れない。それでもなおイエスを乗せた舟を追いかける人たちもいたようである。
イエスを乗せた舟が沖に出た頃、突然激しい突風が起こった。ガリラヤ湖ではしばしばこういうことがあり、これは決して珍しいことではなかった。さすがに、この嵐により他の舟はイエスを追いかけることを諦めて帰って行った。嵐はいよいよ激しくなり、舟の中にまで浸水し始め、舟は沈没しそうになった。弟子たちの何人かはもともと漁師であり、舟を操ることには慣れていたはずであるが、この時の嵐は想像以上に激しいものであったらしい。弟子たちは忙しく働いた。イエスはどうしているのかと、舟の艫の方を見ると、そこで寝ているではないか。しかも枕までして寝ているではないか。弟子たちは驚いて、イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った、という。
イエスは起き上がって風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。弟子たちは非常に恐れて「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
以上がこの物語のあらましである。この物語から私たちは何を学ぶのだろうか。ここに描かれている信仰とは、どんな嵐の中でも動じないで「枕を高くして眠る」イエスの信仰であり、イエスがついているのに、イエスの実力を過小評価して、恐れ、慌てふためき、大騒ぎをする弟子たちの不信仰である。このエピソードはこの単純な教えを語り伝えるものとして、信徒たちの間に伝搬していったのだろう。この物語は弟子たちにとって、決して自慢できるものではないだろう。従って、この物語を語りつないだ信徒たちは弟子集団とは一定の距離を置いていた人々だと思われる。

4. 弟子たちの態度
この物語を読んでいて、先ず第1に気になることは、嵐の中で弟子たちがイエスを起こす言葉と態度である。彼らが忙しく働いているのに、枕を高くして寝ているイエスが余程気に入らなかったのだろうか。それにしても、この「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉には屈折した心が示されている。寝ているイエスを見て、「あぁ、先生は余程お疲れになっているのだなぁ」と考えたっていいだろう。それは彼らが一番知っていることではないか。まして舟のことである。イエスが起きて手伝ったって、足手まといになるのが関の山ではないか。「舟のことは私たちにお任せください。それよりも先生はどうぞゆっくりお休みください」というのが弟子たる者の姿勢ではないのか。さすがにマタイもこの言葉を読んで、これはひどいと思ったのか、マタイ福音書では、この言葉を「主よ、助けてください。おぼれそうです」(マタイ8:25)と改めている。この言葉だと、信徒たちの伝統的な祈りの言葉に通じる。ルカも「先生、先生、おぼれそうです」(ルカ8:23)と書き直している。ルカの言葉だと、おぼれそうなのは弟子たちだけではなくイエスも危険なので、それをイエスに伝えているとも解釈される。もっともマルコがマルコ福音書を書いているときにはマタイ福音書もルカ福音書もこの世には存在していないのだから、マルコが彼らの真似をすることはできないが、後でマタイやルカはマルコの表現の「いやらしさ」に気付き、書き改めているものと思われる。
ともかくマルコが描く弟子たちの姿はなっていない。この弟子たちの言葉には、どこかの地方都市のベテラン市会議員が新任の若い市長に対する「偉そうな、ひねくれた態度」に通じるものがある。マタイやルカだけでなく、現在の日本人の聖書翻訳者たちもかなり苦労している。ちなみに、それを比較してみると面白い。
      「師よ、我らの亡ぶるを顧み給わぬか。」(文語訳)
  「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか。」(口語訳)
      「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」(共同訳、新共同訳)
      「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」(新改訳)
      「先生、わたしたちがおぼれ死んでも、かまわないのですか。」(フランシスコ会訳)
      「先生、あなたは私達が滅んでもかまわないのですか。」(田川訳)
      「先生!舟が沈みかけているのに、よく平気でおられますね」(リビングバイブル)
  「先生、かまわないのですか、私たちは死んでしまいますよ。」(キリスト新聞社訳)
      「師よ、我等の亡ぶることは汝に心掛かりし給わぬか」(永井訳)
      「師よ、我らの亡ぶるを顧み給わざるか」(ラゲ訳)
これだけ並べてみると、この言葉は舟の中の弟子たちの言葉を通り越して、現実の教会の中での信徒たちの言葉のような気がしてくる。「神さま、私たちは現実の生活の中でこんなに苦労しているのに、私の祈りに少しも耳を傾けてくれないのですね。このままだと、私は教会から離れてしまいますよ」。まるで神さまを脅迫しているようである。

5. イエスの怒り
この弟子たちの言葉を聞いて、イエスは起き上がり、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」。その剣幕はかなり激しい。これを聞いていた弟子たちは自分たちが叱られたように、ちぢみ上がったことだろう。風と湖とに対するイエスの威厳は圧倒的なものがあった。弟子たちはすっかり度肝を抜かれてしまったようである。この「黙れ、静まれ」という言葉は確かに、風と湖に対するイエスの叱責の言葉である。確かに、風と波とはその言葉に従って静かになった。しかし、それだけだろうか。それを側で聞いていた弟子たちは自分たちに向かって語られた言葉として聞いたのではなかろうか。ちょうど、兄弟で喧嘩をしている際に、母親は兄に対して叱る。しかし、その叱責の言葉は弟にも向けられている。もし、弟が母親の言葉を兄に対してだけ語られた言葉として、調子に乗ったら、同じ言葉が今度は弟にも直接に向けられる。弟子たちもイエスの言葉を自分たちに対する言葉として受け止めたに違いない。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という弟子たちに対するイエスの言葉は優しい。しかし、ここには風と湖に向けられたのと同じ威厳がある。

6.弟子たちの救い
最後にもう一度、この情景を思い浮かべながら、イエスの気持ちを想像してみる。
イエスにとって嵐を静める理由はあったのだろうか。イエスは嵐の中で、枕を高くして寝ていたのである。何も嵐を止める理由はない。弟子たちは弟子たちに与えられた自分たちの責任を果たせばそれでいい。事態はそんなに緊急ではなかったのだろう。だからこそイエスは寝ておれたのであろう。本当に舟が沈みそうな状況なら、さすがのイエスだって寝ておられるはずがない。むしろ弟子たちは寝ているイエスの姿を見て、穏やかなその顔を見て、落ち着きを取り戻し、舟の中に水が入ってきたのなら、かき出せばいい。何も慌てふためき大騒ぎする必要はない。ただ淡々と自分に与えられた務めを果たしておれば、嵐はやがて止むだろう。恐ろしいのは嵐そのものよりも弟子たちのパニック状態にある。危機的状況において、その危機を最小限に押さえる力は落ち着きである。その落ち着きは信仰以外からは出てこない。これはあくまでも私の個人的な解釈である。あくまでもその場に居合わせなかった者の評論家的感想にすぎないだろう。
しかしイエスは弟子たちの願いを聞き入れて、嵐を静められた。イエスは弟子たちの信仰のなさを嘆かれるが、その願いを聞き入れられる。この物語の重要なポイントはここにある。開き直って言えば、弟子たちだけではなく、私たちだってイエスから褒められるような信仰を持っているのだろうか。私たちの信仰は何時もイエスを嘆かせるものである。しかしイエスは弟子たちの不信仰を嘆きつつも、弟子たちの不安を理解し、同情し、祈りを聞き入れられた。たとえ弟子たちがイエスを裏切っても、イエスはその裏切りを赦し、悔い改めるとき受け入れられた。

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