ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/11/27~12/03

2016-12-04 08:08:37 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/11/27~12/03

2016 日々の聖句 11月27日(日)
わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55:11)

弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:20)

私の黙想:
天から降る雨水が、地を潤し、生物に命を注ぎ、生き物に糧を与え、また再び天に戻る(10節)。自然の循環が宣べられ、それと同じように、ヤハウェの口から発せられた言葉も、ヤハウェから託された仕事を果たして、ヤハウェのもとに戻ってくるという。何という壮大さであろう。この壮大な循環(作用)、イザヤ書においては一応、ダビデから始まる(3節)。イザヤ書においてはそれこそ全天地が更新される壮大な終末論で終わる。教会ではその完成をイエスにおく。ダビデから始まりイエスで終わる、これがいわゆる聖書が語る救済史である。それを教会では毎年繰り返し、追体験する。ダビデの子イエスの誕生から十字架での死、救済史はそれでは終わらない、その後に「私たちの時代」としての教会の歴史がある。これが教会暦である。
今日はその教会暦の初日である。毎年同じことの繰り返しのようであって、単純な繰り返しではなく、らせん階段のように、一年一年上っていく。そこには「無駄がない」。

2016 日々の聖句 11月28日(月)
いかに幸いなことか、主を畏れる人、主の戒めを深く愛する人は。(詩112:1)

(だが)あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。(この)書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。(2テモテ3:14~15)

私の黙想:
この聖句、ツッコミどころが幾つもある。「幸い」(アシュレー)、「懼れる」(ヤレー)、「戒め」(ミツバー)、「愛する」(チャフェッツ)。さて、何処を突っ込むか。
やはり「深く愛する人は」という言葉であろう。そもそも「戒め」を愛するということは、いったいどういうことなんだろう。面白いことに、この言葉、口語訳では「大いに喜ぶ人」と訳している。「愛する」と「喜ぶ」共通する点は沢山あるが、やはり違う。特に愛する対象が「戒め」となると、「愛する」のか「喜ぶのか」。フランシスコ会訳、新改訳では「大いに喜ぶ」、文語訳は「いたく喜ぶ」、岩波訳は「(命令を)大いに喜ぶ」。こう並べて見ると、新共同訳の「深く愛する」には何か翻訳者の「深い意図」が感じられる。やはり、ここは「大いに喜ぶ」であろう。「戒め」ようするに「法」である。私も一寸だけ意図的に解釈すると「新しい憲法が与えられて、大いに喜ぶ」という情景を想像する。「法」とは社会の秩序である。法のない社会は「アノミー」、無秩序と混乱である。自分のことは自分自身で守らなければ、たちまち「力ある者」によって餌食にされてしまう社会である。要するに、「自己責任論」の徹底と言うことになるのだろうか。その意味では「法」が制定されることは大いなる喜びである。
その視点に立って、今日の聖句を見直すと「主を畏れる」ということも「いかに幸いなことか」ということも、明白な形をもって読者の前に開かれる。

2016 日々の聖句 11月29日(火)
わたしが諸国の民の中から連れ出し、散らされていた国々から集めるとき、わたしは諸国民の前で、お前たちに自分を聖なる者として示す。わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。(エゼキエル20:41~42)

神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。(ロマ11:29)

私の黙想:
預言者エゼキエル、この預言者こそバビロン捕囚から解放、祖国帰還の時代の預言者である。その意味では、イザヤ、エレミヤよりも注目すべき預言者であるが、なかなか親しまれていない。この預言者のカギになる言葉は「聖」で、「聖なること」(28:22、28:25、38:16、39:27)、「聖なる者」(20:41,39:7) 。39章の方では、「わたしは、わが民イスラエルの中にわが聖なる名を知らせる。わたしはわが聖なる名を二度と汚させない。そのとき、諸国民はわたしが主であり、イスラエルの中の聖なる者のであることを知るようになる」と聖という言葉が3回も繰り返される。
宗教の本質は「聖性」にある。イスラエルの人びとはバビロンにおいて何を見たか。彼らは宗教というもののケバケバしい「俗性」を見て、初めて自分たちの宗教の特質を「聖性(ホーリネス)」と認識した。ここにユダヤ教からキリスト教に至る、他宗教にないものがある。この視点からいろいろなものが見えてくる。この聖性(ホーリネス)を現代風にいうなら、私はあえて「スッキリ感」と表現したい。

2016 日々の聖句 11月30日(水)
わたしは祝福してくださるまでは、あなたを離しません。(創世記32:27)

目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。(コロサイ4:2)

私の黙想:
ヤボクの渡しでの有名なお話。人生の大きな転換期、曲がり角で、得体の知れない怪物が現れ、ヤコブの通行を妨げる。ヤコブと怪物とは格闘となる。ヤコブは怪物と格闘しながら、怪物の正体を見破る。実は、この怪物ヤハウェの変身だったと想像される。そこからは立場が逆転し、今度はヤコブの方が相手を離さない。今日の聖句、聖書本文(新共同訳)を少々変形しているが、それは問題ではない。口語訳ではこうなっている。「その人は言った、『夜が明けるからわたしを去らせてください』。ヤコブは答えた、『わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』。ヤコブの迫り方がかなりリアルだ。
この場面はしばしば「祈りの姿勢」として解釈されている。祈りは決してお上品な姿ではない。整えられた祈祷文に従って、秩序正しく祈る祈りも「有り」ではあるが、人生の曲がり角というようなカイロス(危機的状況)では、そのような祈りでは応えられない。泥にまみれ、しがみつくような祈りが必要だという。ヤハウェもとうとう最後の手段としてヤコブの腿のつがいを叩き、はずす。それでユダヤ人は「今日まで、イスラエルの人びとは腿のつがいにある座骨の筋を食べない」(32節)という。

2016 日々の聖句 12月01日(木)
諭しをとらえて放してはならない。それを守れ、それはあなたの命だ。(箴言4:13)

わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。(1テモテ1:5)

私の黙想:
この「諭し」を「教訓」(口語訳)、「戒め」(フランシスコ会訳)、「訓戒」(新改訳)、「訓誨」(文語訳)、「規律」(岩波訳)と訳そうと、あまり問題ではない。その内容がここには明確に書かれている。それにしても訳語の多さに驚く。要するに、これは親(あるいは親的立場の者)が子供(子供的立場の者)に語る教えである(10節)。「知恵の道」であり「正しい道筋」である(11節)。その内容が詳しく書かれている。「よこしまな者の道に、はいってはならない、悪しき者の道を歩んではならない。それを避けよ、通ってはならない、それを離れて進め。彼らは悪を行わなければ眠ることができず、人をつまずかせなければ、寝ることができず、不正のパンを食らい、暴虐の酒を飲むからである」(14~17節)である。このことを親がちゃんと子供に教えておかないと、トンデモナイ大人になる。「悪しき者の道を歩んではならない」、これは分かりやすい。朱に交われば赤くなる。悪い連中の仲間になるな。まさに今のマスコミが、その仲間になっている。「不正のパンを食らい」、要するに悪い奴の「寿司を食うな」。連中は、悪いことをしなければ生きていけないのだ。「彼らは悪を行わなければ眠ることができず、人をつまずかせなければ、寝ることができ」ないのだ。もう詳しい説明は不要であろう。親が子にこのことをキッチリ教えておけば、この世はどれ程住み良くなることだろう。

2016 日々の聖句 12月02日(金)
身を横たえて眠りわたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます。(詩3:6)

キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。(1ペトロ5:14)

私の黙想:
詩人の状況を考えると、読む眠れるということが不思議なんだろう。こんな状況でよく眠れるなぁ。この新を読んでいて、変な言葉を思い出した。1960年頃の黒沢明監督の映画、『悪い奴ほどよく眠る』である。その頃、私は修道院のような聖書学校の学生だったので、この映画は見ていないはずだ。しかし、この言葉はその頃流行った。今で言うと「流行語大賞」ぐらい取れたかも知れない。何となく、善人はよく眠れて、悪人は夜眠れないはずだ、という思いが一般にはある。
さて、問題は今日の聖句だ。どうも、通常の状況ではないらしい。詩人が善人なのか、悪人なのか、分からない。ともかく、世間的にはかなり「やられている」らしい。日増しに「敵」が増えるという。人びとは「神さまだって奴を助けるはずがない。あいつは悪人だ。夜も眠れないだろう」と言う。しかしご本人はそんな世間の評判など気にしないで、「横たわれば、すぐに寝付き、朝は気持ちよく目が覚めますよ」。詩人の言葉は烈しい。「すべての敵の顎を打ち、神に逆らう者の歯を砕いてください」(8節)。要するに、アッパーカットを食わして下さいと祈る。こっちの方を今日の聖句にして貰いたい感じがする。こっちの方を聖句としてローズンゲンが取り上げたら、どんな黙想が出てくるのだろうか、想像してるだけで楽しい。
これが今朝の私の黙想だ。変な黙想、もう妄想である。主よ、たまには、こんなんのもお許し下さい。

2016 日々の聖句 12月03日(土)
神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い。(詩73:1)

シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んだ。(ルカ2:25)

私の黙想:
聖書の神、とくに旧約聖書の神は偏っている。偏愛の神だ。美人は愛するけど、それほどでもない人(これは隠語)は愛さない。しかもその基準がこちら側には明らかにされない。その典型が「カインとアベル」の物語だ。それって、いかにも神らしくない。人間である私が神に対して「神らしくない」なっていったら、自ら神に愛されない道を選んでいるようなものだ。でも私はすベての人びとを平等に愛する神を愛する。今日の聖句で最も頭にくるのは「イスラエルに対して」、まぁこれを言っているのがイスラエル人だから身勝手なのは分かるが。面白いことに、これを口語訳では「正しい者に」と訳している。その意味では偏狭な民族主義を越えているからまだましだ。この部分、フランシスコ会訳は面白い。「イスラエルよ、神は何と恵み深いことか、心の清いものに対して」。これなら、許せる。同じように「日本人よ、神は・・・」と言い換えても通る。新改訳、文語訳は新共同訳とほぼ同じ。岩波訳はユニークだ。「たしかに神は善き方、イスラエルに、心の清い者たちに」。岩波訳では「善き神」について「神について『善い』といわれることは後期文書とくに詩編に多い。34:9、52:11、73:1、86:5、100:5、106:1、107:1、118:1,29、119:68、135:3、136:1、145:9、エレミヤ33:11」と解説している。これだけ慣れべられると、変に納得してしまう。長いイスラエル史においても、一つの時代的特徴を示しているらしい。「心の清い」についてもここと24:4にだけ見られる言葉で、「心」はこの詩において6度現れるカギの言葉であるという。私には神における「善」と人間における「清さ」とが対応しているように見える。
さて、字句の解説はそのぐらいにして、この詩の面白さは、1節の言葉に対して2節以下で、自分の妬み心を反省しながら、実は「悪しき者」が栄えることを縷々述べている点である。この心の中での葛藤、正しい神は心の清い者に恵み深いと言いつつ、実は悪い連中が栄えているのを見て「妬んでいる」。神による「恵み」とは一体何なのか。神による「偏愛」とは一体何なのか。詩人は問いかけている。

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