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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/09/04~09/10

2016-09-11 06:40:50 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/09/04~09/10

016 日々の聖句 09月04日(日)
(この神は)わたしたちの神、救いの御業の神、(主、)死から解き放つ神。(詩68:21)

夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。(マルコ1:32)

私の黙想:
先ずつまらないことを一言。どうもローズンゲン(日本語)の編集は聖書のテキストをいじくりましすぎる。今日の聖句から、カッコの中を省いてしまっている。特に冒頭の「この神は」を省いてしまうと、「わたしたちの神」が文章として成り立たず、宙に浮いてしまう。むしろ、「この神は」はそれに続く3つの文章の主語であり、少し冗長になるが、正確に書くと、「この神はわたしたちの神、この神は救いの御業の神、この神は主であり、死から解き放つ神」となりる。たとえ、新共同訳が正しくなくても、ローズンゲンはそれを勝手に改変してはならないと、私は思う。
この聖句、口語訳とかなり違う。「われらの神は救の神である。死からのがれ得るのは主なる神による」。意味にはそれほど違いはないが、これは表現が命の「詩」である。どちらが正しいのか私には判断できない。フランシスコ会訳は明解である。「わたしたちの神は救いの神。わたしたちを死から救い出すのは主なる神」。新改訳はさらに明解である。「神は私たちにとって救いの神。死を免れるのは、私たちの主、神による」。口語訳、フランシスコ会訳、新改訳はすべて2文章であり、その点、岩波訳は「この神(エル)はわれらのため、救いの出来事の神(エル)。わが主ヤハウェこそ、死からの出場所[がある]」。なかなか手が込んでいる。原文では2文章とも取れるし、3文章とも取れる。いろいろ読み比べてみると、新共同訳も捨てがたい。とにかく、聖書の翻訳とは難しいものだ。

016 日々の聖句 09月05日(月)
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。(列王上19:11~12)

主の霊のおられるところに自由があります。(2コリント3:17)

私の黙想:
今日の聖句は私の好きな聖句の一つである。あれほど正々堂々とバールの多くの預言者たちと対決し勝利した預言者エリヤも、独りの女王イゼベルの復讐を恐れて荒野を逃げ回る姿が、滑稽に見える。40日40夜、歩き続けてやっとホレブ山にたどり着き、洞窟に身を隠して夜を過ごす。どんなに不安な夜だっただろうか。そこにヤハウェが現れて、洞窟から出て山の中に立てと命じられた。今日の聖句は、そこで経験したエリヤの神体験である。そのエリヤを台風が襲い、地震が襲う。その中でエリヤ独り立ち続ける。地震の後に山火事も起こる。それでも、エリヤはそこに立ち続ける。あたりは静けさを取り戻す。そこで、微かな神の気配、神の声が聞こえた、という。そこで初めてエリヤは自分がこれまでにしてきたこと、バールの多くの預言者たちを殺してきたこと、そして命を狙われて逃げ回っている自分の惨めさをヤハウェに訴える。そこでヤハウェは「行け、あなたの来た道を引き返せ」と新しい使命を命じられた。使命を終わった(つまり、使命が無くなった)預言者は弱い。預言者は使命に生きる。逃げ回るエリヤに神は新しい使命をお与えになった。

016 日々の聖句 09月06日(火)
わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。(イザヤ54:7)

憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かしてくださいました。(エフェソ2:4~5)

私の黙想:
なかなかの神と人間とのドラマ。何か、メロドラマに近い感じがする。これを人間側から言うと、「しばらく、あなたから離れておりましたが、深く反省して戻って参りました」と言うことか。イザヤ書を読むと、人間は「不妊の若妻」らしい。そのため、家を追い出されたのか、それとも自分から家出をしたのか。ドラマがある。本当のドラマは、若妻に家出をされた憐れな主人の方で、妻を探して呼び戻すというドラマ。チョット想像がたくましすぎるか。しかし、最後の「引き寄せる」という言葉がそのようなそのような雰囲気を醸し出しているのかも知れない。
これが口語訳となると、チョット趣が違う。「わたしはしばしばあなたを捨てたけれども、大いなるあわれみをもってあなたを集める」。これではドラマにならない。主人側の不妊の妻に対する嫌がらせの物語で、あまりに可哀想だから呼び戻してあげる、という話の筋になってしまう。そこには「愛の欠片」もない。フランシスコ会訳と新改訳とは、「しばしば」を「ごく僅かの間」「ほんのしばらくの間」と訳し、ほとんど口語訳と同じだ。この「しばしば」を「ほんのしばらくの間」と解するだけで物語の方向性はかなり違ってしまう。文学作品の翻訳とはこれだけの幅がある。同じ原作をテレビドラマに仕立てるときにも、このような「改変」がなされているのであろう。

016 日々の聖句 09月07日(水)
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)

十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。(1ペトロ2:24)

私の黙想:
今日は「この一点」に集中。余所見は許されない。そしてこれこそキリスト教信仰の「核」。
パウロと共に、「『キリスト・イエスは、罪人とを救うためによにこられた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」(1テモテ1:15)と言えるだけである。また、ヘブライ書の著者と共に、「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです」(ヘブル7:26)と告白するだけである。なお、ヤコブでさえ、こう言う。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(ヤコブ5:15~16)。これはこの信仰に基づく具体的な実践で有る。教会の大長老ペトロも口を添える。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(1ペトロ1:18~19)。最後にヨハネの有名な言葉、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(1ヨハネ3:16)。これらの言葉は全て「この一点」から出て、この一点を指し示している。

016 日々の聖句 09月08日(木)
声を響かせ、賛美せよ。そして言え。「主よ、あなたの民をお救いください。」(エレミヤ31:7)

(イエスはお癒しになった人に)言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マルコ5:19)

私の黙想:
「声を響かせ」、美しい言葉だ。声楽の極みのようだ。誰でも大声は出せるが、声を響かせるのは難しい。口語訳にも、フランシスコ会訳にも、新改訳にも、文語訳にも、この言葉がない。他は単に「叫べ」である。面白いのはケンブリッジ註解で、「大声で、はっきりと叫べ」である(訳者、松浦大)。イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて帰国するとはそれほどの喜びだったのだろう。それはそうとして、この「声を響かせ」は何処から出て来たのか。まさか、どこかの注解書から取られたきたのではあるまい。
想像を逞しくすると、この「声を響かせ」という言葉で、その叫びがただ単なる大声ではなく、訓練された合唱団を想定しているのだろうか。それもあり得る。合唱団の「声の命」はその「響き」である。この響きが人びとを感動させる。

016 日々の聖句 09月09日(金)
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(イザヤ43:2)

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは弟子たちに言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」(マルコ4:39~40)

私の黙想:
今日の聖句、とくに「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない」という言葉を読むと、一つの出来事を思い起こす。文語訳ではこうなっている。「汝、水の中をすぐるときは我ともにあらん。河の中を過ぐるときは、水、汝の上にあふれじ」。1945年8月15日、敗戦と同時に、当時北朝鮮の平壌に居た日本人は、ソ連軍の捕虜となり、旧兵舎に収容された。それからほぼ1年間、ソ連軍、北朝鮮軍の完全支配下に置いて食糧もほとんど与えられず、約3分の2は飢え死にした。1年たった8月、このままわれわれは北朝鮮の冬を過ごすことは出来ないと判断し、約30人のグループで収容所の鉄条網をくぐって脱出し、南朝鮮を目指して歩き始めた。2週間ほど朝鮮半島の山野を逃げ隠れしながら、なんとか38度線国境の間近に到着した。周囲はソ連兵たちがうようよしていたが、それよりも、わたしたちの目の前には大雨のために濁流が激しく流れるかなり大きな川が横たわっていた。この川さえ渡れば、南に入れる。が、この川を母一人と10歳の私と弟二人、一番下の弟はまだ4歳である。大陸育ちのわたしたち3人は泳げない。それで母は、4歳の弟を背に負い、私の中の弟を両腕に抱えて、母は絶対にこの腕を放さないようにと言明して、その濁流に足を踏み入れた。台湾育ちの母は多少泳ぎには自信があったと言え、この状況だ。もちろん子供の背は足りない。4人の運命を支えているのは、母の二本足だけだった。その時、母はこの聖句を唱えながら一歩一歩足を進め、とうとう向こう岸に着いた。私たち4人は川辺で暫く横たわっていた。

016 日々の聖句 09月10日(土)
罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちをあなたは贖ってくださいます。(詩65:4)

徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ18:13)

私の黙想:
今日の聖句、前半と後半との間に、何かなければ、甘っちょろい信仰になってしまう。本当な何があるべきなのか。口語訳を見ると、3節の合体してややこしい。「祈を聞かれる方よ、すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。われらのとががわれらに打ち勝つとき、あなたはこれをゆるされる」。ここでは「祈り」があり、「あなたに来る」があり、「打ち勝つとき」がある。成る程、それで納得する。ただし、ここには「贖ってくださる」がない。フランシスコ会訳では「罪の業を負うって。咎はわたしたちにのしかかっていますが、あなたはそれを取り払ってくださる」で、3節の終わりはピリオドではなく、4節の冒頭の「罪の業を負うって」で、ピリオドが打たれている。かなり工夫をしている跡が見られる。新改訳にはそのような工夫は見られない。もともと、節で分けるのは後代のことなので、時には混乱の原因にもなるのは仕方がない。岩波訳によると「私を圧倒する諸々の咎の言葉、われわれのそろそろの不義は、あなたが覆うってくださる」と訳し、「咎とは可視的な罪で、覆うは、それを見えなくすることを意味するという。日本語的に言うと「汚いものに蓋をしてくださる」と言うことか。イメージとしては「ふしだらな生活をしていて、部屋が散らかしばなしのところに、親が来て、部屋を片付け見られるようにしてくれること」を想像する。ここでは「親が来る」というより、私が親の元に行くとされてはいるが。ヘブル語原文を直訳風に訳すと、「不正の言葉が私よりも強くなり、あなたはわたしたちの咎を覆ってくださる」。そうか、神さまの方がわたしたちの汚れた生活を見かねたのだ。(「見かねる」とは「平気で見ていられない」)。新共同訳が「贖ってくださる」という非常に神学的な表現をするから、混乱する。そんな言葉はここにはない。

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