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ぶんやさんの記録

断想:大斎節前主日(2018.2.11) 

2018-02-09 07:52:41 | 説教
断想:大斎節前主日(2018.2.11) 

変容の出来事 マルコ9:2~9

<テキスト、私訳>
それから6日の後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、高い山に登られました。すると、突然、彼等の目の前でイエスの姿が変化し、服はこの世の物とは思えないような白に輝き始めました。目をこらして見ていると、エリヤがモーセとが現れて、イエスと語り合っていました。
それを見たペトロは興奮してイエスに語りかけました。「先生、私たちがここにいるのは、なんとすばらしいことでしょう。この出来事を記念して、ここに庵を3つ建てましょう。一つはあなたのため、もう一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。実は、ペトロには、彼自身が何を言っているのかよくわかっていませんでした。3人の弟子たちは恐ろしさのあまりに興奮していました。すると、突然、濃い雲が現れてイエスとモーセとエリアたちを覆い隠し、雲の中から声が聞こえてきました。「これは私の愛する子。この人の語る言葉をよく聞きなさい」。
弟子たちは声の主を探して大急ぎで辺りを見回しましたが、そこには誰も見当たりませんでした。ただイエスだけが彼らと一緒におられました。
一同が山を下りるとき、イエスは、「私が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけませんよ」と弟子たちに命じられました。
<以上>

1.大斎節前主日
教会暦には2つの中心がある。一つは降誕日(クリスマス)を中心とした季節であり、もう一つは十字架と復活(イースター)を中心とした季節である。クリスマスは12月25日に固定しているが、イースターを中心にした季節は月暦を基本にしているため1ヶ月ほどの間を移動している。これら二つの季節をつなぐのが大斎節前主日である。つまり、この日を挟んでキリスト者の教会生活は大転換する。この主日の聖餐式の福音書は毎年「イエスの姿変わり」の記事が読まれる。何故この日にこの記事が読まれるのか興味深い。

2.イエスの人生の大転換
マルコは本日のテキストを明確な意図を持って一連のセットの中においている。ペトロの信仰告白、十字架の死と復活、イエスの姿変わり、これら3つの出来事は一連のセット(8:27~9:8)であり、それがイエスの人生の大転換となっている。これを高い山だとすると、イエスの人生はそこに至るまでの登り坂(3:7~8:26)とそこからの下り坂(9:9~10:52)に分けられる。登り坂のポイントはイエスの言葉と行為に人々に人々が驚きイエスの名が有名になるということ、そしてそれは同時にイエスに敵対する人々の憎しみが増大したことである。

3.マルコ福音書の全体構造
マルコ福音書を繰り返し読み、私なりにこの福音書の構造をまとめると以下のようになる。
(1)プロローグ(1:1~1:13)
(2)ガリラヤの春(1:14~3:6)
(3)ガリラヤの湖畔にて(3:7~8:26)
(4)高い山にて(8:27~9:8)
(5)エルサレムに向かって(9:9~10:52)
(6)エルサレムにて(11:1~13:2)
(7)終わりの日について(13:3~13:36)
(8)受難物語(14:1~15:47)
(9)復活物語(16:1~16:8)

この流れの中で、(9)の部分は(1)に対応するエピローグであり。(7)は(8)の受難物語に向かっての挿入物語である。(2)から(6)までがイエスの生涯を述べる本論である。以上のように全体の構造を考えると(4)は明らかにクライマックス、つまり「高い山」であることがわかる。この部分をさらに細かくみると、特に告白(8:27~30)、告知(8:31~9:1)と変容(9:2~8)の3つの部分に分けられる。その内、初めの二つの部分については大斎節のテキストであるのでそこで扱うこととして、今日は変容の部分だけを取り上げる。

4. 変容の出来事の意味
まず始めに、簡単にあらすじを確認しておく。前の出来事の6日の後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、高い山に登られた。彼ら3人より少し前を歩いておられたイエスの姿が突然変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。よく見るとイエスは誰かと一緒に話し合っておられるではないか。どうやら他の2人はエリヤとモーセらしい。ペトロは興奮して3人の話しの中に入り込んで、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を3つ建てましょう。ひとつはあなたのため、ひとつはモーセのため、もうひとつはエリヤのためです」と言う。このペトロの提案を無視するかのように、雲が現れて彼ら3人を覆い隠したかと思うと、雲の中から声がしてきた。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。3人の弟子たちは急いで辺りを見回したが、エリヤとモーセの姿は消え、ただ普段のイエスだけがそこに立って居られた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

5.「それから6日の後」
「それから6日の後」という言葉によって、これから起こる出来事と「6日前の出来事」とが結びあわされる。この山上の変容の出来事はもともとそれだけで独立して伝えられた伝承であろうといわれている。その伝承を「6日前の出来事」と関連づけたのはマルコであろう。もっとも、それが本当に「それから6日前」だったのかどうかということはマルコにも確定することはできなかったであろう。むしろ「あの出来事」と「この出来事」との間には「6日」という時間的な間があったということが重要である。6日という時間差は長いのか、短いのか事柄によって異なるであろうが、興奮がおさまるのには適当な期間であろう。
「6日前の出来事」とは、イエスとペトロとが激しく口論したという出来事である。イエスはペトロに対して「悪魔(サタン)」とまで罵ったのである。ペトロはなぜ自分がそこまで罵られたのかよく理解できなかったに違いない。イエスの受難の予告に対してペトロはイエスを「わきにお連れして、いさめた」のである。それはペトロのいわば忠誠心の現れであった。決して罵られるようなことではないとペトロもほかの弟子たちも思ったに違いない。こういう出来事があって「それから6日の後」である。冷却期間としてはちょうど適当なのだろう。
この日イエスは「ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた」。イエスがこの3人だけを選んで連れて行ったということにはいろいろな配慮があったのだろう。3人にすれば、まだイエスとの関係は破れていないということの確証であり、6日前のわだかまりを解くチャンスでもある。「高い山」への途中イエスと3人の弟子たちはおそらくあまり多くを語らないが、静かに和解の道が開かれたことであろう。そこに「高い山」ということに深い意味がある。イエスとペトロとの対立の原因はイエスが神の子であるということについての理解の相違である。そのことには、まだ解決していない。

6.ペトロ批判
山の上で突然イエスの姿が変わり、その衣は白く輝き、エリヤとモーセが幻のうちに現れたとき、3人の弟子たちは、驚きおののいた。ペトロにとって6日前のイエスは、いわば「対等」に近い師弟関係であった。「わきに連れ出して、いさめる」ことができるような関係であった。ところが、今、目前にしているイエスはエリヤやモーセと対等に語り合っているではないか。これは大変なショックである。こういう経験したら人間は変わる。そのはずである。しかしペトロもその他の2人も、その後の生き方を見ていると少しも変わっていない。それ程の経験をしたはずなのに、イエスが処刑される前夜、イエスを3回も見捨てたのは誰なのだ。
マルコはこの事件についての情報をどこから入手したのだろうか。直接ではないにせよ、この情報の発信源は、この3人から以外にはあり得ない。しかも、この3人はこの「経験」について、主イエスが復活するまで、完全に沈黙を守った(9節)という。ついでに確認しておく。実はこの事件について「ペトロ」という名前を冠している文書に、ペテロ自身の証言が記録されている。非常に厳かな単語が並べられ、次のように語られている。
私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。 荘厳な栄光の中から、「これは私の愛する子。私の心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」(2ペトロ1:16~19)。
ペトロと他の2人は、この経験を語ることによって、使徒たちの中でも特別な地位を獲得したことだろう。マルコは、この3人が経験したことを「嘘だ」と言っているのではない。むしろ、これ程の経験をしているのに、それを経験している真っ最中にその出来事を少しも理解していなかったということをレポーターとして報告しているだけである。

7.神の言葉
ペトロの軽薄な行動により中断してしまったが、この物語のメッセージはここから始まる。ペトロと2人の弟子たちが右往左往しているうちに、エリヤとモーセの姿はイエスと共に雲に包まれてしまう。雲の中から厳かな神の声が響く。「これは私の愛する子。この人の語る言葉をよく聞きなさい」(7節)。この言葉はイエスが洗礼を受けたときにイエス自身が聞いた言葉(マルコ2:11)である。洗礼の時はイエスだけが聞いた。しかし、ここでは3人の弟子たちが聞いた。その意味では3人の弟子たちはイエスと同じ経験をした、と言える。ここでは「この人の語る言葉をよく聞きなさい」という命令がある。しかし、残念ながらここまで経験していながら、彼らはこの経験の意味が十分には理解していなかった。そして、彼らがハッと気が付くと、当たりには誰も見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
この最後の言葉は印象的である。「弟子たちは声の主を探して大急ぎで辺りを見回しましたが、そこには誰も見当たりませんでした。ただイエスだけが彼らと一緒におられました」。何という美しい言葉だろう。もうそれで十分ではないか。モーセもいない。エリヤもいない。ただイエスだけが彼らと一緒におられる。神は「この人の言葉によく聞きなさい」、と言われる。私たちは、ただイエスにだけ目を注ぎ、イエスの言葉だけを聞けばいい。

8.「この人の語る言葉をよく聞きなさい」
山の上で響き渡ったとされる「聞きなさい」という言葉が何語だったのかは、明確ではないが、ユダヤ人(旧約聖書の世界で生きている人々)には、この「聞け」という言葉には特別な反応があると思われる。この「よく聞きなさい」という言葉は旧約聖書では「シェマー」であり、何人かのユダヤ人が集まっている場所で、誰かが「シェマー・イスラエル」と叫べば、そこに居合わせた人々は申命記6:4に記されている「シェマの祈り」を唱えることになっていた。そのことを思い合わせると、天から「シェマー」という言葉を聞いた3人の弟子たちは、この言葉を思い出したものと思う。彼らの耳にまだ「よく聞きなさい」という言葉が残響のように響いているとき、彼らの目の前には栄光に輝くイエスではなく、砂ぼこりに全身包まれ、汗くさい服を着た「いつものイエス」が立っていた。神の言葉は「この人の語る言葉をよく聞きなさい」と言う。このイエスに聞けと言う。弟子たちは思い返す。わたしたちはこのイエスの言葉を聞いているのだろうか。イエスの言葉を素直に受け入れ、聞き従っているのだろうか。この山に登る直前イエスが何時もと違う真剣な顔で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後復活することになっている」(8:31)と語られたとき、弟子たち、その中でもとくにペトロもイエスの真剣さに応えるように真剣にイエスをいさめた。ペトロの真剣さはイエスに聞くという方向ではない方向に向かった。ペトロは真剣に反抗した。「これに聞け」という言葉は、取りも直さず、この言葉への復帰である。この言葉を受け入れ、聞くところから新しい人生が始まる。

9. 大斎節になすべきこと
大斎節の課題は、何よりも「主イエスに聞く」ということ、向こうからの働き掛けを待つということ、そのためにはいつでも「聞き従えるような柔軟な心」を準備しなければならない。
私たちが何かをしようとはりきっているときには、私たちはその事に心が一杯になり、占領されて、柔軟さを失っている。思い切って、何もしようとしないことが大切である。もっと正確に言うと、「主イエスに聞く」こと以外に何もする必要がないし、むしろしてはならない。そのための特別の修行とか、奉仕活動とかは無用である。ただ、ひたすら「主イエスに聞く」ということ、それが大斎節の課題である。

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