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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/08/03~08/09

2014-08-10 07:52:11 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/08/03~08/09

2014日々の聖句 08月03日(日)
わたしは、心の中で「主は幸いをも、災いをもくだされない」と言っている者を罰する。(ゼファニヤ1:12)
眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。(エフェソ5:14)

私の黙想:
1:1によると預言者ゼファニヤは捕囚後のイスラエル再建に勲功のあった王ヒズキヤ(口語訳までは「ヒゼキヤ」)の曾孫に当たる。いわば政界と宗教界における名門出身であるらしい。本書の基本的メッセージは南のユダ(再建エルサレム)に対する裁きの預言である。当時、再び政界も宗教界も乱れていたものと思われる(1:2~9)。
そのいわば「堕落」は民衆にまで及んでいる今日の聖句の直前にある「酒のおりの上に凝り固まり」とは「無気力で怠惰の者」(フランシスコ会訳の注)で、今日の聖句は彼らが心のなかで思っていることを示している。興味深い点は口語訳およびフランシスコ会訳ではこの部分を「主は良いことも、悪いこともしない」と訳している。これは神(ヤハウェ)にとって最大の侮辱である。つまり神は何もしないということであろう。言い換えると「何もしない神」とは偶像と等しいという思想である。だから、「そうか、あなたたちはそう思っているか。それじゃ、本気を出して何かしようではないか、それはあなたがたを罰することだ」。その「罰」の内容が、13節の言葉である。蛇足になるが13節を書き加えておこう。「彼らの財宝はかすめられ、彼らの家は荒れはてる。彼らは家を建てても、それに住むことができない、ぶどう畑を作っても、そのぶどう酒を飲むことができない」。

2014日々の聖句 08月04日(月)
神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。(出エジプト13:18)
イエスは四十日間そこ(荒野)にとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。それからイエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えられた。(マルコ1:13~14)

私の黙想:
ここからイスラエルの長い旅が始まる。何故彼らはエジプトを出て、そのまままっすぐに「約束の地、カナン」に向かわず、遠くシナイ半島を迂回したのか。それは謎である。ともかく、それが神が示した旅程であった。私自身の人生だって、何故「あんな遠回りをしたのか」「若い時代、無駄と思われる時間を過ごしたのか」「もっとストレートな道があったのに」と思う。その疑問に対する唯一の答えは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ロマ8:28)しかない。好きな言葉なので、慣れ親しんだ文語訳を添える。「凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」。新共同訳では「共に働く」の意味が曖昧である。ここでは無駄なことは全くない。凡てのことが「相働きて益となる」ということが重要である。

2014日々の聖句 08月05日(火)
主はモーセに言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33:20)
神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。(1ヨハネ4:9)

私の黙想:
旧約聖書における最も基本的な神人関係。神の顔を見たら死ぬ。にも関わらず、信仰者は「神と共に歩む」という。モーセと神との関係は面白い。聖書の中で神に向かって直接「What is your Name?(あなたの名前は何ちゅうの)」なんて尋ねた男はモーセだけである。また、ここでは「あなたの栄光を見せてくれ」という。これは「Show me your Face(顔を見せろ)」という意味らしい。そんな無茶なことを神に要求した男はモーセだけで。しかも、その時神はモーセの要求にまともに答えている。今日の聖句に続く出来事が面白い。「更に、主は言われた。『見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない』」。この情景を頭の中で再現していみると、なんとまぁ、まるで「隠れんぼ」をして遊んでいるようだ。しかし非常に真面目な話である。神の顔は見えないが、神が通った「跡」は見ることができる。何と深い宗教的真理を分かりやすく描いいていることだろう。こういうテキストに出会うと、聖書がますます面白くなる。

2014日々の聖句 08月06日(水)
主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう。(イザヤ62:2)
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(2コリント5:17)

私の黙想:
旧約聖書を読んでいて思うことの一つは、「新しいものへの憧れ」、「新しくされることへの希望」、しかもそれが神の手によってなされることへの願望が非常に強いということである。刷新への希望は絶望の中で生まれる。もはや自分たちの努力や改良主義ではどうにもならない状況に追い込まれて、神による刷新への願望が生まれる。陶工の手にある粘土は焼く前に、もう一度粘土にまで戻って作り直す。「 陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった」(エレミヤ18:4)。こういう思想は日本のような温暖な島国からは生まれない。日本には革命思想はなじまないし、育たない。常に「生きるか死ぬか」「勝つか負けるか」という瀬戸際に立って、最終的には「天に運命を託す」といういわば「崖っぷち」に立って、そこから「残された者」という思想が生まれるのであろう。それだけに「残された者(レムナント)」という思想は危ない。
今日は太平洋戦争の末期、アメリカによって広島に原爆が投下された記念日である。ホロコーストにも似たこの悪魔的行為を忘れてはならない。

2014日々の聖句 08月07日(木)
昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。わたしの命の神への祈りが。(詩42:9)
イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。(ルカ6:12)

私の黙想:
詩42はその冒頭の言葉の美しさに酔いしれる。「ああ神よ、鹿の渓水(たにがわ)をしたひ喘ぐがごとく、わが霊魂もなんじをしたひあへぐなり」(文語訳)。この一句をどれだけ多くに人が感動したことだろう。それだけに、これに続く言葉にあまり関心が向かなかったようにさえ思える。改めて読み直すと、この詩の一節一節が信仰者の実体験に呼応している。
今日は9節の言葉だ。これも文語訳で読む。「しかはあれど昼はエホバその憐れみをほどこしたまふ。夜はその歌われとともにあり、此のうたわがいのちの神にささぐる祈りなり」。冒頭の「しかはあれど」が原文にあるのかどうかわからないが、この言葉は非常に強い。この言葉によって8節の苦悩が吹き飛ばされる。「昼」とは仕事の時間帯である。この仕事の中に神の「憐れみ」を感じる。「憐れみ」というより、神の「配慮」であろう。新共同訳の「命じて」の意味がよくわからない。夜は歌をうたう時なのであろう。今のようにいろいろな「娯楽」があったわけではなかろう。おそらく琴を爪弾き歌をうたい、昼間の疲れを癒やす一時であったのだろう。詩人は、その歌こそ神への祈りであるという。祈りは決して苦行ではない。ゆったりと好きな楽器を弾き、楽しい時を過ごす。それこそが「生ける神との交わりの祈り」だという。何と素晴らしい一節ではないだろうか。

2014日々の聖句 08月08日(金)
あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。(詩63:8)
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ロマ8:38~39)

私の黙想:
親鳥が雛鳥を守る姿には感動する。自分より何倍も大きな「敵」に向かって果敢に戦う姿は美しい。それを知っている雛鳥にとって親鳥の「翼の陰」は世界で唯一の安全な場所であり、最高に憩いの場所であるのだろう。旧約聖書には神と民との関係を親鳥と雛鳥に喩えている言葉が多い。
最近の世相で最も暗い物語は親による子供の虐待である。また、親を信じられなくなっている子供の悲惨さである。親子関係の崩壊はその世代だけで終わらない。それは次の世代に引き継がれ、悲劇の連鎖を産む。

2014日々の聖句 08月09日(土)
見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ6-:2)
わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。(ヨハネ12:46)

私の黙想:
黒く厚い雲が覆い、闇の中で、この雲の上には太陽が輝いていることを信じている。やがて動く雲は消え去り、不動の太陽が私たちを照らす。その太陽は信じていた者も、信じていなかった者にも同じように恵みをもたらす。その時には「信じる」ということも不要になる。信仰は闇の中でこそ意味がある。福音書記者ヨハネは言う。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。
イエスは言う。「(天の)父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。

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