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ぶんやさんの記録

断想:復活節第6主日の福音書

2016-04-30 09:50:27 | 説教
断想:復活節第6主日の福音書
平安を残す  ヨハネ14:23~29

1. 文脈と資料
ヨハネ福音書によると、最後の晩餐の席でイエスは弟子たちに最後の説教をしている。13:31の「さて、ユダが出て行くと」で始まり14:31の「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう」で終わるかなり長い説教である。全部で39節ある。
実は資料的に分析するとこのうち、13:32~35、14:33、12~25、28はこの福音書の最終的編集者(通常「教会的編集者」と呼ばれている)によって挿入された部分で全部で20節ある。およそ半分が教会的編集者の言葉である。勿論、彼は元々の文章を知っているわけで、その上に彼自身の言葉を組み入れているのである。ヒョッとすると彼が削除した文章や単語もあるかも知れない。しかし、それはもはや確定できない。従って、この部分を読むときにはそのことを十分に考慮する必要がある。本日のテキスト14章23~29節は、25節までがスッポリ教会的編集者の言葉であり、26~27と29節とが元々のヨハネ福音書の言葉である。
イエスの最後の説教の終わり近くで、イスカリオテでない方のユダが唐突に「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」(22節) と質問した。今日の部分はそれに続く言葉である。よく読んでみると、イエスはユダの質問に答えているようで答えていない。その意味ではこの部分は曖昧である。そうすると、23~25節は教会的編集者の言葉であり、元々のヨハネの文章は26~27節と29節だけである(28節は教会的編集者の言葉)。そうすると、元々のヨハネ福音書では26節の言葉は11節の「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」という言葉を受けて、「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」(26,27,29節)という言葉に繫がる。そのように整理すると25節の「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」と29節の「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」という言葉の関係が明瞭になる。

2.どこにポイントを置くか。
さて、本日のテキストは教会的編集者の言葉によって焦点が曖昧になっているが、実はこここそ生前のイエスの最後の言葉である。特に、10節から続けて読むと弟子たちをこの世に残して去るイエスの気持ちが素直に吐露されている。この部分を私の「原本ヨハネ福音書」では次のように訳している。

<以下原本ヨハネ福音書巻7のシーン2>
イエス:こんなに長い間、あなた方は私と一 緒にいるのに、私のことがまだ分からないのかな。フィリポ、いいかい、私を見た人は父を見たのです。それなのに、どうしてあなたは父を見せてほしい、などと言うのですかね。私が父におり、父が私におられる、ということが、あなたは信じられないのですか。私があなた方に話す言葉は私が私の思いで話しているのではありません。父が、私の中におられる父が、働きかけ、私に語らせておられるのです。私が父の中に、また父が私の中に、ということについては、私を信じてください。私が信じられないなら、私の働き、私の生き方を信じればいいでしょう。
これらのことについては、今はまだ十分に理解出来ないかも知れませんが、父が私の名において遣わして下さるであろう助け手、すなわち聖霊のことですが、あなた方にすベてのことを悟らせ、また私があなた方に言ったすベてのことをあなた方に思い起こさせて下さるでしょう。だからあなた方は何も心配することはありません。
私はあなた方に平安を残していきます。それは私の平安です。私は、世とは違う仕方で、私の平安をあなた方に与えます。だからあなた方はどんなことが起こっても怯えないで、落ち着いていなさい。
今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです。もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう。
<以上、引用>

イエスが最後の場面で見せた弟子たちへの率直な気持ちである。イエスにとって、弟子たちがまだ分かっていないということがよく分かっている。分かっていない弟子たちを残してくのである。分かって貰いたいポイントは、ただ一つ。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」(Jh.14:11)。もし、私の言葉が信じられないなら、「業そのものによって信じなさい」という。
ここでのイエスは大きな賭に出ている。もし、万が一、イエスの死後、誰もイエスのことを信じなかったら、あるいは、信じている者がすべて抹殺されたら、「イエスの業」は水泡に帰するであろう。12人のうち一人はもう既に去ってしまった。勇ましいことをいうペトロも頼りないところがある。ただ、イエスには一つの望みがあった。それは彼らが「落ち着いていること」、逃げたっていい。隠れたっていい。逆上して、暴挙に出て殉死することだけは避けて欲しい。彼らが生き残ってくれたら、後は聖霊が何とかしてくれるであろう。従って、26節の言葉は弟子たちに対する言葉であると同時にイエス自身への希望の言葉である。

3.弁護者、すなわち聖霊
イエスの死後、イエスにおける神の働きを継続する者としての聖霊が鍵を握っている。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(26節)。新共同訳では「弁護者」と訳されているが、この訳語は相応しいとは思えない。口語訳では「助け主」と訳されてい。ギリシャ語では「パラクレートス」で、原意は「呼びかける」という動詞から派生した受動名詞で「呼びかけられた者」、つまり「助けてー」と叫ぶ相手である。それが「主」かどうか分からないが,とにかく「助けてくれることを期待する相手」である。「助手」というと少し意味が変わるが,要するに「助け手」である。イエスの言葉でいうと、生きてさえおれば、必ず、私に代わって「助けてくれる者」が派遣されるという意味である。それが「聖霊」であるという。
ヨハネ福音書で「聖霊」という言葉はたった3回しか用いられていない。最初はイエスが施す洗礼は聖霊による洗礼」(Jh.3:33)であるという。次ぎに用いられるのがここで、最後は復活したイエスが弟子たちに「聖霊を受けなさい」(Jh.20:22)という場面である。ちなみにパラクレートスはヨハネ14:16(教会的編集者の言葉)を除くと、ここが初めてである。おそらくこれを聞いていた弟子たちにとっては助け手といわれても、聖霊といわれても何も理解出来なかったに違いない。イエスは助け手が来たら、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言う。その時の彼らにすれば、そんなものは必要ないと思っていたに違いない。私たちこそがイエスの助け手であると思っていた。まして、私たちが「忘れる」などということはあり得ない。実は正確に言うと、彼らはイエスが「話したことをことごとく」覚えていなかった。ちなみに、私はこの「助け手」を「保護者」と解釈し、保護者なる聖霊とする。

4.わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
十字架を前にしてイエス自身は自分のことを少しも心配していなかった。むしろ、イエスが最も心配していたことは、弟子たちが怖じ惑い、恐ろしさのあまり、暴挙に出ることであった。あるいは、意気消沈して生きる気力を失うことであった。だからイエスが最後に彼らに与えたものは「平和(エイレーネー)」である。これを「平和」などと訳すから、何が何だ分からなくなってしまう。口語訳のように「平安」でいい。「心を騒がせる」、「怯える」の反対の状態を意味しているのであるから、平安がいい。ここで注目すべき言葉は「残す」、「与える」である。いわばこれが地上を去るときのイエスの「遺産」である。
この平安は、「世が与えるような平安ではない」、この言葉は厳密には「世が与えるような仕方で与えるのではない」という言い方で、与え方が述べられている。では、世の中で平安を与える与え方とはどんな与え方なのであろうか。それはまさに「親鳥が雛鳥を守る様な与え方」であろう。そんな与え方では親鳥よりも強いものが現れたら吹っ飛んでしまうような平安であろう。その意味ではここでは与え方というよりも「イエスの平安」が、私たちの内側に形成されるような平安であるに違いない。
イエスはこれから自分自身の上に起こるであろうことを十分に理解していた。それにもかかわらず、平安であった。それは使命の自覚に基づく平安であり、父なる神が共に居られるということによる平安であった。その平安を弟子たちに残すと言う。残された方の弟子たちは彼ら自身の上に起こるであろうことをまだよく分かっていなかった。だから、イエスから「平安を残す」と言われても通り一辺の挨拶ぐらいにしか理解していなかったかも知れない。しかし、イエスは確実に彼らに平安を残した。その平安は、やがて弟子たちの中から生え出てくるであろう。この平安を奪うものはこの世にはない。

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