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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第2主日(特定4)(2018.6.3)

2018-06-01 09:09:08 | 説教
断想:聖霊降臨後第2主日(特定4)(2018.6.3)

安息日は人のために定められた マルコ2:23~28

<テキスト>
23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
28 だから、人の子は安息日の主でもある。

<以上>

1.「特定」について
この主日から降臨節前主日まで福音書は「特定」と呼ばれるテキストが読まれる。「特定」は1番から29番までり、特定29は降臨節前主日と重なっている。顕現後第2主日から第5主日までの福音書が特定1につながっている。この期間は原則として祭色は緑である。「特定」という言葉には特別な意味はなく、ただ年間で定められた主日に読まれるべく特定のテキストという意味である。カトリックでは「年間」という言い方をしています。
今年は、復活日との関係で、特定4から始まる。特定4の課題は「安息日」である。

2.「安息日問題」
安息日問題はイエスの生き方についてユダヤ教からもっとも激しく批判された問題である。安息日問題はただ単に安息日の問題に留まらず、宗教的戒律と人間の生き方についての最も具体的な接点である。
本日のテキストが、この問題についての最も明白に論点を示し、一般的なユダヤ人の生き方とイエスの生き方との違いをもっとも明白に示している。マタイ(12:1~8)でもルカ(6:1~5)でもこの出来事を取り上げられている。

3.この物語の論点
この戒律の根拠は、申命記23:26で、そこには「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」という規定がある。つまり他人の麦畑に入って、その場で穂をつまんで食べることは決して禁止されていない。それでは、ここで何が問題なのか。ユダヤ人たちがイエスの弟子たちを批判しているのは穂をつまんで食べたことではなく、それが安息日の規定に違反しているのだという。変な理屈になるが、麦畑の麦を摘むこと、それを揉んで籾を取り、口に入れる、その一連の行為が安息日に禁止されている「労働」に当たるというのである。
これに対するイエスの答えは、要するに律法の「柔軟な適応」ということである。極めて、緊急の時、人間の生命に関する様なときには律法を破っても許される、というようなことである。この点については、当時のパリサイ派の人々でも理解できる範囲である。この程度のことでイエスがパリサイ派の連中からあれ程執拗な批判を受けたとは思われない。律法に対するイエスの態度にはもっと根本的なものがあった、ように思われる。

4.この物語の結論
この物語の結論が27節と28節である。27節の「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と28節の「人の子は安息日の主でもある」はマルコでは一体化されているが、語られている内容は別のことである。27節の主旨は明白で安息日は「人間のため」と述べられているのに対して、28節では「人の子」という曖昧な表現が用いられている。「人の子」という言葉には、イエスが「メシア」であるという隠喩が含まれ、イエスを指している。
27節は非常にラディカル(根本的)であり、イエスの律法に対する姿勢がハッキリと描かれている。恐らく、多くの学者たちが言うように、この言葉はイエス自身に発するものであろう。それに対して、28節の言葉はイエスが安息日の主であるという主張であり、イエス以後の「教会の言葉」であろう。興味深いことは、マタイとルカでは27節が省略され28節だけが残されている。ここにマルコに対してマタイとルカとの時代背景の差が見られる。

5.「律法は何のためか」という問い
27節では、律法というものの目的が意識され「律法はなんのためか」ということが問われている。この点が、当時のパリサイ派の人々とイエスとの根本的な違いであり、彼らは、「律法がどういう訳で、何のために与えられたのか」ということを全然問題にしなかった。ただ、律法を遵守するためにそれをどう解釈するのかということのみに全勢力が注がれた。ところがイエスは「律法は何のために何故与えられたのか、というより根源的なことを問い、律法の本質に迫った。
イエスにとって、律法とは神から人間に与えられた「賜物」である。ある聖書注解者は、ここを説明して、律法は「階段に付けられた手すりのようなものだ」(E.シュバイッツァー)という。つまり、手すりはその助けを受けずに階段を上って行く人には何も妨げにならないが、これを必要とする人々には階段から墜落することを防ぐ役割を果たす。
律法の中でも特に安息日に関する規定は、このことが明白に現われている。安息日の規定がなくても安息日を守る、つまり「休息」を取ることのできる人には、安息日の律法は不必要である。しかし、この規定がなければ「安息」できない人々にとっては、これはまさに「神の賜物」である。ところがファリサイ派の人々はこの律法を人間の自由を奪う足枷にしてしまった。
イエスのこの自由な態度、律法の本質を貫いた所から出て来る自由が、当時の律法主義者たちには受け入れられなかった。

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