ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/05/25~05/31

2014-06-01 19:51:22 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/05/25~05/31

2014日々の聖句 05月25日(日)
主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。(イザヤ52:9)
キリスト・イエスはすべての人の贖いとして御自身を献げられました。(1テモテ2:5-6)
私の黙想:
バビロンへの捕囚により荒廃したエルサレム、そこに民が帰還しエルサレムは復興された。その一連の出来事を「贖い」という言葉で述べている。旧約聖書における「贖い」という言葉の使い方は想像以上に幅広いようだ。この概念の広さ深さを理解しないと、イエスの十字架も理解できないであろう。
私は「贖い」という概念をあまりにも個人レベルの罪と贖罪に限定して理解していたようである。単に動物の生贄を捧げ、それによって個人的な罪が許されることだけが「贖い」ではないようだ。神による創造世界の回復も「贖い」なのだ。エルサレムの復興という大事業は人間の手に負えるような事柄ではなかったが、復興したエルサレムを見て、人々はこれこそが神による「贖い」の業であると、歓喜の声を上げ、共に喜んだのである。
神よ、原爆と原発によって荒廃した日本人の心と国土とを速やかに贖い給えと祈らざるを得ない。

2014日々の聖句 05月26日(月)
わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩、わたしに与えられた分。(詩73:26)
わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものです。(ヘブル6:19)
私の黙想:
メイン3訳(新共同訳、フランシスコ会訳、新改訳)が微妙に違う。ここでの「カーラー(朽ちる)」をどう解釈するか。この単語は旧約で4回用いられているが、口語訳ではいずれも「衰える」と訳している。詩69:3ではフランシスコ会訳でも「目は待ちわびて衰えました」、詩143:7でも「わたしの霊は衰えます」と訳している。いずれも「待ちくたびれた」というイメージである。
いろいろ総合して、神の永遠に対して時間的制限の中で人間の限界状況を示しているのであろう。そこに「待ちきれない」という限界状況がある。この場合、「わたしの心の岩」とはわたしの中に在る神の言葉、契約の言葉であり、それは神に属するから永遠であるが、わたしの身体と精神は時間的制約の中にある。私という一人の人間の中で「時と永遠」とが分裂状態にある。詩人はこれを「天」と「地」の対立として述べる。「天における喜び」を待ちわびる者の「地における苦悩」として語る。「天における喜び」を確信し、待ち望むがゆえに、地において「疲れ果てる」。「OK」が出ることを確信するがゆえに、その通知が来るのを一日千秋の思いで待つ。

2014日々の聖句 05月27日(火)
荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。(イザヤ35:6)
預言者ヨハネの手紙:天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があった。(黙示録22:1~2)
私の黙想:
今日の聖句は、預言者自身の黙想の言葉なので、私の黙想はやめて、イザヤの言葉に耳を傾ける。
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられカルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは葦やパピルスの茂るところとなる。
そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え嘆きと悲しみは逃げ去る。(イザヤ35:1~10)

2014日々の聖句 05月28日(水)
カレブはヨシュアに言った。「一緒に行った者たちは民の心を挫きましたが、わたしはわたしの神、主に従いとおしました。」(ヨシュア記14:8)
目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。(黙示録3:2)
私の黙想:
今日の聖句は土地の配分を巡って、ヨシュアの部下カレブが彼自身の45年前の出来事に対するモーセ(ヨシュアの前任者)の約束を持ちだして特別な褒賞を求める言葉である。その時の勲功については詳しいことは省略するが、彼部自身の言葉で言うと、その時一緒に斥候として出かけた連中は「強力な敵」に恐れをなして、「前進」に反対したが、カレブだけが「主を信じて前進することを主張した。そのことを新共同訳は「主に従いとおしました」と訳している。口語訳では「わたしは全くわが神、主に従いました」と訳している。この部分をフランシスコ会訳では「主にいちずに従いました」と訳している。この訳は面白い。この一途さとは「わたしは思ったとおりに報告しました」(7節)ということであった。では、その時の共に言った仲間は「思ったとおりに」報告しなかったのか。いや、彼らも彼らが思ったとおりに報告している。ただ、カレブと彼らとの違いは、「敵」の強さに対する判断で、彼らは強さだけを強調したのに対してカレブは主なる神に対する信仰を強調した(民数記13:30,14:24)。同じ状況を見ても、神に対する信仰を通してみるのと、ただ状況だけを見るのとでh大きな違いが出てくる、という好例である。信仰の一途さとはそこである。しかし、結局あの時人々はカレブの報告を棄てて、敵を恐れたために、40年間荒れ野を放浪することとなる。考えると、一つの判断によって、民族的損失は想像を絶するという好例でもある。

2014日々の聖句 05月29日(木)
わたし自身が町を囲む火の城壁となると、主は言われる。(ゼカリア2:9)
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)
私の黙想:
新しいエルサレムについての幻。「測り縄を手にしたひとりの人」(1節)、謎の人物は新しいエルサレムの設計士。新エルサレムの基本設計は「城壁がない町」(8節)でなければならない。しかしそこは人と家畜とで溢れている。つまり繁栄している町となる。つまり、城壁がなくて繁栄した町、古代社会においてそういう町が存在していれば、必ず、周辺諸民族のターゲットにされて襲撃を受けるであろう。それが弱肉強食の国際社会の論理である。「城壁のない町」それは無防備、軍隊のない町である。現実の弱肉強食の論理に反するのが新エルサレムである。それが預言者ゼカリアが描く人類の未来像である。「城壁がない」ことを心配する必要はない。何故なら、ヤハウェ自身が「火の城壁」となり、その町の中にヤハウェが常駐するという。あえて「神国」という言葉を使うなら、こういう国が真の「神国」である。統帥権をもった天皇によって「神国」が成立するのではない。新しいエルサレムには「人と家畜とが溢れるという」。経済的繁栄であろう。つまり前世界の諸民族がそこに集まり、そこに住みたくなる町、誰がそのような町を廃墟にしたいと思うだろうか。石破さんに反して言う。経済的に豊かで全世界から集まってくる国に攻めてくる馬鹿は居ない。あえて言うなら、日本を「新しいエルサレム」にしようではないか。

2014日々の聖句 05月30日(金)
神と共に我らは力を振るいます。(詩60:14)
イエスの言葉:「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。(マタイ9:13)
私の黙想:
今日の聖句、何か可笑しみがある。絶大なる神と共に、私たちは何の力を振るうというのだろうか。口語訳では「われらは神によって勇ましく働きます」となっており、これならわかる。フランシスコ会訳では「わたしたちは神のもとに勇ましく戦おう」とあり、これも分かりやすい。新改訳では「神によって、私たちは力ある働きをします」。これも分かりやすい。
旧約聖書では勝ったの負けたのの「戦争」の話ばかりで嫌になる。まぁ、それが人間の歴史だから仕方がないにしても、多すぎる。だから私たちは旧約聖書を読む場合に「戦う」ということを「生きる」ということに置き換えて読まねばならない。その意味において、今日の聖句は、「人間が人間としの能力を発揮することができるのは、神においてである」と読み替える。神によらなければ、私たちの人生は苦労ばかり多くて、しかも失敗の連続で、惨めなものであろう。「弱い」ということが人間であるということの代名詞になる。しかし、その人間が他のいかなる被造物よりも強くありうるのは神においてである。


2014日々の聖句 05月31日(土)
ダビデの祈り:御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行ってくださいました。(2サムエル7:21)
多くの人々はそれを聞いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(マルコ6:2)
私の黙想:
ダビデ王によってイスラエル王国は安定し、ダビデ自身も豪壮な宮殿に住んでいる。王宮の前には貧素な天幕が設置され、神の箱はそこに置かれたままである。ダビデは王宮よりも豪壮な神殿の建築を考えている。預言者ナタンもそれを承認している。その夜、ヤハウェはナタンに現れ、その必要はない(5節~16節)という。その主旨はヤハウェがダビデを選び、ダビデを王にし、王宮を建て、イスラエル国を堅固にするという約束である。要するに、ダビデは自分が自分の王宮を建てたと思っているが、それは間違った認識であってヤハウェ自身が建てたのだという。それを聞いて、ダビデはヤハウェの前に出て祈る。いわばこの祈りは思い違いを反省している祈りである。この祈りにおいてはダビデは「私は下僕」であるということが強調されている。ダビデの信仰において私たちが学ばねばならない点はこの「反省・懺悔」である。この反省は、その後の彼の行動によって深められている。

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