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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/09/24~09/30

2017-09-30 15:33:46 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/09/24~09/30

2017 日々の聖句 9月24日(日)
わたしは(今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し)、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。(申命記30:19)

イエスの言葉:わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネ10:10)

私の黙想:
今日の聖句、一応、モーセの遺言的説教という設定になっているが、ほとんどヤハウェのセリフになっている。これが申命記の基本的メッセージである。日々の聖句の編集者は括弧の中を省いている。これがあるのとないのとでは言葉の重さが全然違う。申命記の言い方は「一応」選択の余地が残されているが、それに続く「命を選びなさい」という命令文によって、選択権は失われる。むしろ、「選ばない」ということによって主の言葉に逆らうことになる。これが神と神の民との基本的関係である。その関係はエデンの園以来少しも違っていない。人間の自主性、権限、自由は保証されているようで、実はそれに従わない場合には「逆らう」ことになる。
しかし、人間はそのことに不満をいう権利はない。創造者としての神の権威とはそのようなものである。神は人間の存在の根底である。人間は神に対して「自主的に(主体的に)服従する存在」である。そのことに何か不満はありますか。ということで、私たちはヨブと同じように「衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』。」(ヨブ1:20~21)
ニーチェはこういう「聖書の宗教」に耐えられなかったのであろう。

2017 日々の聖句 9月25日(月)
主は、ひととき、お怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。(詩30:6)

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)

私の黙想:
今日の聖句の前半、何かゴタゴタしている。そう思わない人には何も言うことがないが、そう思う人は口語訳を見たらいい。非常にはっきりしている。「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである」。ここでは主の怒りの期間と恵みの期間との長さが対比されている。そう読めない人は、それでいいが、私にはそう思える。フランシスコ会訳を見ると、もっとはっきりする。「主の怒りはほんの一瞬、その好意は一生」、新改訳は「まことに
み怒りは束の間、いのちは恩寵のうちにある」、チョット違うが微妙だ。文語訳ではこうなっていた。「その怒りはただ暫時(しばし)にて、その恵みはいのちと共にながし」、関根訳もほぼ文語訳と同じである。岩波訳は面白い、「しばしは彼の怒りの中に、一生はかれの恩顧の中にあり」。
これは詩人の信仰生活における「実感」を詠ったものである。私は上の方で、「そう思わない人」とか「そう読めない人」という、何か突き放したような言い方をして、気分を害した人もいるかも知れないが、結局のところ、聖書とは字句の解釈とか、神学的・文学的解説よりも、読んでいる人の「実感」が大切だというのが私の理解である。書いている人の「実感」とわたしの「実感」とが共感したとき、聖書って面白いと思う。

2017 日々の聖句 9月26日(火)
(今この時)わたしたちの神よ、偉大にして力強く畏るべき神よ、忠実に契約を守られる神よ、(アッシリアの王の時代から今日に至るまで)わたしたちが被った苦難のすべてを、王も高官も祭司も預言者もわたしたちの先祖もあなたの民の)皆が被ったその苦難のすべてを取るに足らないことと見なさないでください。(このすべては起こるべくして起こったのです。)(ネヘミヤ9:32)

盲人は叫んで、(「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、)「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」(マルコ10:48~49)

私の黙想:
現実の歴史においては、一刻の猶予もない緊急事態ということが起こる。今日の聖句、あまりにも長すぎるので、編集者は括弧の中を省いている。ここを省くと、祈りの緊急性がわからなくなる。黙想においてはテキストの長さは関係ないので、全部書き出した。
事柄は決して「小さくない」。それを「些細なこと」、もっと「大きな大状況がある」という。権力者は、その「大状況」において「小さなこと」を忘れてしまえ、という。しかし、神の民は決して小さなこととは思わない。そして、神に祈る。これらすべてのことを「取るに足らないこととみなさないでください」、と神に祈る。
さぁ、私たちの目の前で今、起こっていることは「取るに足らないこと」なのか。多くの信仰者は、取るに足らないと思い、関心を示さない。そして、その結果は見えている。私たちはすべて、「あの時と同じように」戦争に巻き込まれ、そのとき歯ぎしりしてももう間に合わない。

2017 日々の聖句 9月27日(水)
(わたしは知った、)すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。(神は人間が神を畏れ敬うように定められた。)(コヘレト3:14)

聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。(黙示録3:7)

私の黙想:
今日の新約の聖句、「ダビデの鍵」が興味を引く。旧約の聖句は「何事にも時があり」で始まる有名な「時間論」である。すべてのことが神の定めた「時」に従って起こるのだから、「人が労苦してみたところで何になろう」という究極のニヒリズムである。その上で「わたしは知った、人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ」(12節)と一種の快楽主義を主張する。これと平行して14節の言葉が並ぶ。日々の聖句の編集者は括弧の中を省いているが、ここが重要である。この「私は知った」は人間の哲学を意味している。その哲学は一つは快楽主義に走り(12節)、もう一つが14節で、神の前での完全に無能な人間の虚無的な嘆きに至る。でmこれで終わってしまったら、コヘレトの言葉にはまったく救いはない。これを締めくくる最後の括弧の中が、その人間が宗教へ向かう動機を語っている。これがなければ人間には救いはない。この言葉によって人間は救われる。「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」。「神を畏れ敬う」これが人間が人間である意味だ。すべての人間は、ゼロ状態においても、「神を畏れ敬う」ことは出来る。そこに人間の根源的な生きる意味がある。

2017 日々の聖句 9月28日(木)
かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる。(箴言3:12)

(私たちは、)あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。(1テサロニケ2:6~8)

私の黙想:
旧約の方では「父のように」、新約では「母親のように」、この対比は面白い。
今日の聖句(旧約)は口語訳では、「懲らしめる」が、「戒める」となっている。この違いは何だろう。文語訳では譴責の「譴」を用いて「譴むる」。フランシスコ会訳、新改訳では「叱る」、岩波訳では「訓戒」である。こういう翻訳上の違いを比較してもあまり意味がないと思う。要するに、ここでは親と子ととの「愛」の関係が述べられているのであり、子どもがもう既にやってしまったことに対する親の態度の問題だ。この場合、想定される子どもの年齢も関係するであろう。「可愛い息子」か、「愛する子」か。新共同訳の場合、娘はどうなる。
岩波訳では面白い解説をしている。ここでの親子関係とは元来ダビデ王家に対するヤハウェの懲らしめについて語られたことである(2サムエル7:14)が。のちに、それは「義人の受ける苦難」を説明する譬えとなった、という。

2017 日々の聖句 9月29日(金)
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。(申命記8:2)

愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。(エフェソ5:15~16)

私の黙想:
騙し、騙され、ますます人間不信になるのがこの世である。人間の心をもっともよくしておられるのが神である。神は人間を信じていない。それでもなお、神はイスラエルの民を信じようとしておられる。今日の聖句は、そのことを語る。何とか、人間が神に信頼し、人間同士が信じ合える共同体にできないのか。神はイスラエルの民をそのために40年間鍛えられた。しかし、結局、この神の努力もむなしい願望として終わってしまったことを旧約聖書は語る。そもそも申命記が書かれたのは、その最後の努力のようなものである。
ところで、今日の聖句に続く言葉に驚かされた。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた」。ここまでは2節の繰り返しである。問題は次の一句「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。ここに主なる神の御心がポロッと吐露されている。この一句、これが全聖書のメッセージの集約である。たった一つ、このことをわからされるために聖書は書かれている。私たちはこの言葉をイエスの口から聞いた。あの荒野での40日間の断食祈祷の中で、イエスはこの言葉を口にしたのである(マタイ4:4)。新約聖書の冒頭の文書、マタイ福音書。これを初めから注意深く読むと、イエスが洗礼をお受けになったのち、イエスの口から発せられた最初のセリフが、この言葉であった。ここに申命記のメッセージがそのままイエスの言葉によって繰り返されている。

2017 日々の聖句 9月30日(土)
(町で角笛が吹き鳴らされたなら、人々はおののかないだろうか。)町に災いが起こったなら、それは主がなされたことではないか。(アモス3:6)

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ロマ14:8)

私の黙想:
今日の聖句はアモス3:6の後半のみで、前半は取り上げられていないが、私はあえて前半も取り上げる。なぜなら、ここでは「町で角笛が吹き鳴らされたなら」という人間の判断による警告行為と「町に災いが起こったなら」という神の行為とが対象化されていると思われるからである。重要なポイントは、この違いに注意を喚起している。預言者アモスにとって「町の人たち」とは権力者たちを意味している。権力者は危険を煽って人びとの心を萎縮させ、自分たちの思い通りにしようとする。しかし、実際に町の中で災害が起こったら(自然災害であれ、人災であれ)、それは神による行為だという。これが反権力的立場に立つ「田舎の預言者」の発言である。
Jアラームは人為的行為であるが、地震、台風、大雨等、あるいは病気その他の災害は神による警告だと、アモスは言う。
私たちはそこまでは言い切れない。というより、言うべきではないと思う。そこまで言う権限は私たちにはない。しかし、心の中でひそかに「神がお怒りになっている」と呟くのは許されているであろう。
それを受けて、新約聖書では「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とパウロは言う。ある意味で非常に投げやりで、無責任な態度に見える。しかし、基本的にはこの立場に立たない限り、責任ある行動は取れない。

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