ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:大斎節第2主日の福音書、マイ・ウエイ。

2016-02-20 11:23:12 | 説教
断想:大斎節第2主日の福音書

「自分の道」  ルカ13:(22~30)、31~35

1.大斎節第2主日
大斎節第1主日では大斎の意味を「試みられること」、つまり自分自身の生活を律することを学んだ。第2主日ではそこから一歩進めて、何を目指して生きるのか、大斎節で学ぶべき目標を考えたいと思う。と言うよりも、本日のテキストが私たちにそのことを要請していると思う。
本日のテキストはルカ福音書13:22~35であるが、22節から30節は括弧の中にある。この部分が読まれる理由は22節の「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」という言葉に注目させたいからであろう。つまり31節から35節までを取り上げる際に、この記事は「エルサレムへの旅」の途上での出来事だと言うことを示している。33節の「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」という言葉はイエスが進むべき方向、旅の目的地を述べ、そこに向かって進むイエスの強い決意が述べられている。

2.イエスの決意
イエスはそこに行って何をするというのか。「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」という。勿論、すべての預言者がエルサレムで死んだのではない。この強い言葉はイエスの決意の強さ、そこで何が起こるのかということを十分自覚した上で、そこに行かねばならない、という。そこに至るあらゆる妨害に対して通常では見られない強い言葉が発せられる。イエスの道を阻む者、それがここで述べられているヘロデ・アンティパスである。彼がイエスを殺そうとしているという情報が伝えられた。実は、このヘロデ王はイエス誕生の時の残虐なヘロデ王の息子で、父親に負けないほど残虐で陰湿な王であった。サロメという少女の願いを聞き入れて洗礼者ヨハネの首をはねたのは彼である。ヨハネ殺害の後、彼はそのことで「(神の、しかし実は民衆の)たたり」を恐れてびくびくしていた。その頃イエスの活動が活発になり、評判が高くなると、イエスのことを「洗礼者ヨハネの生まれ変わり」だという噂が流れヘロデ王は非常に恐れていた。それでヘロデはイエスに会いたいと思っていたとルカは記している(Lk.9:7~9)。そのヘロデ王がイエスを殺害しようと企んでいる。このことを伝えたファリサイ派の人々の目的は分からないが、ともかく、ここから逃げろと忠告する。つまり、エルサレムへの旅を中断せよという忠告であろう。その忠告に対して、イエスは強い言葉で否定する。その否定の言葉が強い。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」。なんと強い言葉であろう。少なくとも現在の王に向かって「あの狐」という。ユダヤ人にとって狐とは荒れた土地に住み(孤立している)、時々畑を荒らす厄介な動物のイメージで、まさに王者の逆のキャラクターである(参照:ネヘミヤ記3:35、雅歌2:15、哀歌5:18)。その意味で王に対して「狐」と呼ぶことは最大の侮辱である。
その王に対して「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」と伝えろ、という。要するに、私がしなければならないことを邪魔するな。「今日も明日も、三日目も」、つまり一日もヘロデ王に付き合っている閑はない。私は、何者にも邪魔されずに「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」という。ここでヘロデ王に対する言葉にも、自分自身の決意を示す言葉にも「今日も明日も」という言葉が繰り返されていることに注目すべきであろう。
もう一つ、ここで用いられている「ねばならない」という言葉にも注目すべきである。普通「ねばならない」という言葉は強い義務感を示す。しかしとくにルカの文書においてはこの「ねばならない」という言葉には特別な意味がある。ルカ福音書において、この言葉が用いられている主な箇所(2:49、4:43、12:12、13:33、17:25、18:1、19:5、22:37、24:7、24:26、24:44)を拾い上げてみるだけでも、そこに込められている意味が尋常ではない。この他にも使徒言行録にも「ねばならない」が多用されている。とくにイエスの受難および復活という救済史における中心的な出来事を語る場合に、この「ねばならない」は重要な意味を示している。イエスは神における「ねばならない」という救済史的必然性の中で生きている。
この「ねばならない」と関連して、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」の「ありえない」という言葉も強い。旧約聖書の歴史を読めば、預言者がエルサレム以外の所で死んでいる例は幾つでもある。従ってここでの「ありえない」はそういうことではない。実はここで「ありえない」と訳されている単語は新約聖書ではここでだけ用いられており、ほかに用例がない。ほとんどの日本訳聖書では「ありえない」に近い訳になっている。その中で、ラゲ訳だけが「そはエルサレムの外にたおるるは、預言者たる者にとりて相応しからざればなり」と訳している。(明治43年7月初版発行)
ここにルカのエルサレム観のすべてが凝縮されている。

3. ルカにおける「エルサレム」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(Lk.13:34)。
預言者はエルサレムにおいて殺されるだけではなく、エルサレムによって殺されねばならない(Lk.13:34)。
ルカ福音書が他の福音書と異なる最も重要な違いはエルサレムに対する姿勢である。もちろん、この言葉自体はマタイにもある(Mt.23:37~39)。マタイにおいてはこの言葉は単にエルサレムへの呪いの言葉であり、それはエルサレム陥落を預言する言葉として取り上げられているに過ぎない。しかしルカのエルサレムに対するこだりは尋常ではない。最も顕著な点はイエスの復活という出来事をルカはエルサレムにおける出来事として描く。その点でマルコやマタイはガリラヤでの復活にこだわる。その点ではヨハネ福音書は曖昧である。ルカ福音書ではイエスはエルサレムで死に、エルサレムで復活し、エルサレムから昇天し、エルサレムにおいて聖霊は降臨し、教会はエルサレムで成立し、福音はエルサレムから「ユダヤとサマリア全土から、地の果てまで」(Act.1:8)拡大するという構図で描かれる。ルカ福音書ではイエスの公生涯の後半をエルサレムへの旅として描く(Lk.9:51、53、13:22、17:11、18:31、19:11、28、19:41)。ルカのこのこだわりはどこに根拠があるのだろうか。その根拠を旧約聖書にもまた新約聖書にも見い出すことは困難である。むしろ私たちが知っている原始教会の歴史はルカによることが決定的であり、ルカのエルサレムへのこだわりから原始教会の歴史は書かれたのであろう。おそらくルカ福音書13:34~35はマタイにも見られるのでルカ以前から伝承されたものであろうが、ルカはこのイエスの言葉にエルサレムに対するイエス自身のこだわりを読み取っている。イエス自身がエルサレムにおける死にこだわったとルカは信じている。

4. 「自分の道」
ここでイエスはエルサレムへの道を「自分の道」と言う。イエスにとってこの道を遮るものは何も無い。イエスにとっての「自分の道」はハッキリしている。今日の聖句のポイントはそこにある。「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」(Lk.13:33)。まさに「ゴーイング マイウェイ」である。殺されることを恐れて何ができる。ただ私は自分に定められている道をひたすら進むのみである。
大斎節の課題は十字架への道を追体験することにある。伝統的には「ヴィア・ドロローサ(十字架への道行き)」と呼ばれる。カトリック教会の聖堂には何らかの形で十字架への道行きがある。そこでは「イエスの十字架刑の宣告」(第1留)から始まるが、ルカにおいては、ヴィア・ドロローサはエルサレムへの旅から始まる。

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