ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 07/08~07/14

2012-07-17 10:08:03 | ローズンゲン
losungenj 2012.07.08(sun)
災いだ、自分のものでないものを、増し加える者は。いつまで続けるのか。(Hab2:6)
盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。(Eph4:28)
私の黙想:
今日の聖句は非常にやややこしい文章に囲まれている。民族内部の貧富の格差を論じているのか、国際関係について語っているのか。ともかく、ここで「災いだ」といわれている人は不正な手段で富を築いている者である。そんなものは遠からず全てご破算になる。この聖句の一寸前(4節)にパウロがロマ書で引用した有名な言葉がある。喉元まで現代の諸問題が出てくるが今日は呑み込んでおく。

losungenj 2012.07.09(mon)
わたしが主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。(Isa45:6-7)
今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。(Rev11:17)
私の黙想:
何という堂々たる宣言。冒頭の「わたしが主」という言葉には「あなたの主」であるという告白と全宇宙に対する主であるという宣言とが響き合い、共鳴し、美しいハーモニーを奏でている。ベートーベンの交響曲第9番に包まれ、外部からの全ての雑音がかき消される。

losungenj 2012.07.10(tue)
わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を。主がわたしたちに賜ったすべてのことを。(Isa63:7)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えて下さった。(1Pet1:3)
私の黙想:
時々でいいから足を止めて自分が歩んできた人生を振り返る時をもとう。よくもまぁ、あの時の危機を乗り越えてきたなぁと思い起こす。楽しかった過去、苦しかった過去、失敗した過去、国の経済危機が我が家の益になったこと。何よりも、いつもインマヌエルだった。

門叶さんによると、マッソラ本文を直訳すると、「主の慈しみをわたしは覚える、主の賛歌、主がわたしたちに賜ったすべてのことにしたがって」となるとのこと。RSVがマソラに忠実に訳している。「I will recount the steadfast love of the Lord,the praises of the Lord,acoording to all that the Lord has granted us,・・・」

馬場 忠徳 1901年米語版は will recount が make mention, steadfast love が Lovingkindness という訳語になっています、 文語では「各種のめぐみとその譽を語りつぐ」 となっているので、それぞれずいぶん異なる響きを感じますね。 仰る様に、だからどうしたということではないですが、こうして複数の訳に接することで胸に響いてくるものがあるのが不思議です。

文屋 善明 長い坂道も一気に駆け上るのは大変ですが、時々立ち止まり振り返り、今登ってきた坂を眺めると、そこには素晴らしい景色が広がっているのを経験します。この recount の意味は「物語る」という意味よりも「列挙する」つまり「陳列する」という意味合いの方が強いような気がします。

losungenj 2012.07.11(wed)
あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々を取り除きなさい。(1Sam7:3)
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(Mat6:21)
私の黙想:
民族とか国歌レベルでの宗教統制問題。現代における偶像否定の思想とは根本的に異なる事柄である。多様な民族とほとんど混合状態に近い環境において「自分たちの神」以外の神を排除するということは、そのまま戦争に繋がる。まさに「ヤスクニ」問題なのだ。このテキストをここまで読み込まないと、ただ単なる昔話で終わり、テキストが語ろうとする問題の深刻さは伝わらない。

losungenj 2012.07.12(thu)
あなたは隣人の家のものを一切欲しがってはならない。(Deu5:21)
地上的なもの、すなわち、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。それは偶像礼拝にほかならない。(Col3:5)
私の黙想:
この教えの中心点を「与えられたもので満足せよ」という教えと受け取る。なぜなら、そこにこそ神と私(たち)との関係が具体的に凝縮されている。隣家のものを欲しがるということは私の神に対する不満足を意味する。親は子供に必要不可欠なものを全て与えている。隣は隣、内は内、ということにユダヤ人の神信仰の核が形成される。「与えられたもので満足せよ」という教えは単に盗んではならないという教えではなく、いろいろな場面に展開される可能性が秘められている。

losungenj 2012.07.13(fri)
あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。朝にもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。(Ps90:5,6口語訳)
蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活します。(1Cor15:42)
私の黙想:
この聖句を読み「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」という言葉とその続きを思い起こした。日本的無常観とユダヤ教の無常観との違いは何か。イエスの無常観に漂う明るさの秘密はなんだろう。

losungenj 2012.07.14(sat)
わたしの神、主よ、わたしを助けてください。慈しみによってお救いください。(Ps109:26)
パウロの手紙:わたしたちは、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、わたしたちを慰めてくださいました。(2Cor7:5-6)
私の黙想:
長い人生においては「詮方尽くせども」という状況になることがある。何をしてもうまくいかない。全ての努力が裏目に出てしまう。そういう時に抜く「伝家の宝刀」が今日の聖句だ。本当は伝家の宝刀というものは床の間に飾っておくべきもので、めったに抜くべきものではない。

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