ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(1)

2014-03-31 20:08:30 | 小論
概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(1)

序論(01節~09節)
前口上(01節~02節)
1節 登場の口上
チョットお耳を拝借、世間の人々が私のことをどう評価しているか、知らないわけではありませんよ。ちょっとオツムの弱い人たちでさえ、私のことを馬鹿にして、悪しざまに言っていることぐらい分かっていますよ。でもね、イイですか、私だけが神々や人間たちの心を楽しくさせているんですよ。これ、ホント。その証拠に、今ここにお集まりの皆さんのお顔も私を見ただけで嬉しそうな顔をしておられるじゃありませんか。
2節 痴愚女神の姿
本日、私がこんな変な格好をして皆様方の前に出て参りました理由をちょっと説明させていただきましょう。要するに、賢い神なんて不名誉なことを言われたくないからなんですよ。そのためにわざわざ道化師のような格好をして出てきたという訳です。
本日、私めが皆様方にお話したい題目を言うとすれば、早い話、私自身、つまり痴愚女神の自慢話なんですよ。

自己紹介(03節~09節)
3節 誰も褒めてくれないから
世の賢者と呼ばれる連中は、自慢話をする人を大馬鹿者だとか傲慢無礼だというでしょうね。でも、どっちみち私は馬鹿ですから、そんなこと言われたって気にもしませんがね。
ところで、私つねづね思っていることですが、人間どもは恩知らずというか、無関心すぎることに呆れ果てているんですよ。だ、もんで、誰も私ことを褒めてくれないもんで、自分で褒めなければしかたがないじゃありません。古い諺にも「誰も褒めてくれる人がいないなら、自分で褒めるが当然」ということもありますでしょう。

4節 自己紹介
前口上はそれぐらいにして、先ずは取り敢えず、私の自己紹介というところから始めましょうか。さればご覧のとおり、私こそはラテン人が スタルツチア(愚かさ、Stultitia)と呼び、ギリシャ人が モーリア(Moria)と呼んでいる、「ホンモノの良い物」を惜しげもなく分け与える女神なのでございます。

5節 阿呆は自分を賢そうに見せようとする。
自己紹介というのもなんですね。私自身がここにいるのですから、私のことを何か偉そうに権威付ける紹介などいらないことでしょう。私は私自身に瓜二つなのですから、私の姿を偽わったり、隠したりはできないことです。
まぁ、世の中には特注の阿呆がおりまして、そういう連中が自分のことを賢者タレスのような人物に見せたがっておりますが。私はそういう連中のことを「痴愚賢人」と呼びたいと思っております。

6節 賢ぶる方法
もし、自分を賢く見せたいとしたら、蛭よろしく二枚舌を使えるところを見せさえすれば、自分が神そのものになったように思い込むことができるでしょう。また、ラテン語の演説の中に時々にちょっとしたギリシア語をさ見さえすれば、事足りるでしょう。

7節 私の出生
さて、本題に戻りましょう。ここにお集まりの皆様方は、私の名前をご存知ですね。私の名前に「称号」を付けるとしたら何といたしましょうか。そうそう、「大馬鹿者の」とでもしたらぴったりでしょうね。「大馬鹿者の痴愚女神」これが私でございます。私の父親は「人間たちと父たる神、プルトス」が私の父でございます。要するに公私を問わず人間のなすことすべてが思いのままにあやつる神なのです。ものの本によりますと、「神々の穀物の女神ケレスが産んだ豊穣と富の神プルトス」とも呼ばれているようです。

8節 出生地
近頃は何処で生まれたかということも重要なことらしいので、あえてもしあげますと、私は「播かず耕さずして万物が生い出づる浄福の島で生まれたとのことです。私が生まれた時、「泣かなかった」と言われています。私を育ててくれたのはバッコスの娘で「メテ(酩酊)」とパンの娘で「アパイディア(無学)」の2人の乳母でございます。

9節 私の仲間たち(協力者)
それから私の仕事を助けてくれている9人の仲間を紹介しておきましょう。彼らの助けなしには私の仕事をうまくこなすことはできないでしょう。皆様方には申し訳ありませんが、私たの間ではギリシア語でちょっとキザですがギリシア語で紹介いたします。「ピラウティア(うぬぼれ)」、「コラキア(追従)」、「レテ(忘却)」、「ミソポニア(怠惰)」、「へドネ(快楽)」、「アノイア(無思慮)」「トリュペ(逸楽)」の7人の仲間と「コモス(お祭り騒ぎ)」と「ネグレトス・ヒュプノス(熟慮)」の2人の男仲間でございます。彼らの協力によって人間の社会はうまく回っている。

本題
さて、ここからが本題になりまが、その前に、10節から68節までの全体プランを概観しておきます。

大きな流れは、(1)10節から21節までは「人間って何んだ」。(2)22節から27節まで「世の中ってどうなっているの」。(3)28節から37節までは「幸福ってなんだ」。(4)38節から48節まで「幸福であること」。(5)49節から60節まで「世相を切る!」。(6)61節から65節まで「自画自賛」。(7)66節と67節は「敬虔な狂気」。68節は結びの口上となっている。もちろん、学術論文ではないので、自由に行ったり来たりしたり、だらだらしたり、山場に来ると勢いよくまくしたてたりしている。先ずは10節、基本中の基本、神々の世界と人間界との関係について述べている。

Ⅰ 人間って何んだ(10節~21節)
(a) 基礎の基礎(神の役割)
10節 神々と人間とはの根本的な関係は、神々は人間の生活を楽しくするためにお助力することです。

(b) 人間の一生(11節~13節)
11節 出産の秘密
結婚がなければ人間は生まれない。ということに、しておきましょう。一応それは建前のことで、「当たり前と建前」はよく似ていますがずいぶん違うようですね。それはともかく、結婚が成り立つのは実は「アノイア(無思慮)」と「レテ(忘却)」という私の仲間の活躍によるのですよ。
私どもがやらかすあの酔っぱ払らったかのような馬鹿馬鹿しいたわむれから、しかつめつらの哲学者たちが御誕生あそばすのですが、子作りともなれば、あの謹厳な顔つきを投げ捨て、額の皺を伸ばし、鋼のようにこちこちの教説を放り投げて、しばしの間ばかげたことに身をゆだね、歓喜に狂わねばならないでしょう。

12節 快楽について
もしも人生から快楽というものを取り去ってしまったら、人生なんて何なのでしょう。そもそも人生と呼ぶに値するものでしょうか。もし快楽つまりは痴愚の味付けがなされていなかったら、人生は陰鬱で、魅力に乏しく、味気なく、退屈でしょう。

13節 人間の一生について
人間の一生を概略すると次のようになります。
まず、魅力あふれる乳幼児期。私は、子どもを育てる苦労が、楽しみという報酬を得ることで軽くなるように仕向けています。
青春時代は、誰の目にも麗しい時期です。若い人は知識が乏しいだけに、苛立つことも少なく、魅力にあふれています。その魅力は、実はは、この私が準備したものなのですよ。
それから、忌まわしい老齢期。世の人が老人を幼児返りした者というのは確かにその通りです。そこには「物忘れ」という川が流れており、私は老人たちをそこに連れて行きます。彼らが「物忘れの水」を飲みますと、心の中の憂いが少しづつ消えていき、若返るのです。そういう次第で、老人が幼子のように馬鹿なことを言い出すのも実は私の好意によるのである。そしてついには子供のように、生きることへの執着心もなくなり、死の恐怖もなくなり、この世から立ち去っていくという段取りなんです。
ともかく人間の一生は、私のお陰でうまい具合になっています。

(c) 閑話1:天上界のこと(14節~15節)
14節
ここでちょっと人間の世界から離れて、天上での様子を報告しておきましょう。一体、私以外の神々が何をしているのかよくわかりませんが、私がしていることははっきりしています。そりゃ当たり前でしょう。自分がしていくとなのですからね。
私は人間を人生で最も麗しく楽しい時代へと連れ戻しています。人間たちがあらゆる知恵との関わりをすっぱり断ち切って、生涯にわたってずっと私と共に暮らしていたなら、老衰というものも知らず、永遠に青春の幸せを楽しむことができるでしょうに。
哲学研究とか真面目で高遠な仕事に耽って陰気くさい顔をしているあのお歴々が眼に入りませんか。大方は青春を調歌する前に早くも老けこんでいますね。しかし「私の阿呆たち」は肥え太っていて色つやもよく、肌もすベすベで、老年のもたらす不都合なことなど、いささかも知らずに済むのです。若さを永遠に保てるようにしてやれるのは、この私の薬草、私の況法、私の泉なのです。

15節
天上界をくまなく探して、神々のうちで、私のように愛すベくまた付き合って愉快な神が、ただの一人でもいるでしょうか。もしいたら、どうぞ御勝手に私の名をぼろくそに言ってもかまいませんよ。

(d) 人間のこと(16節~21節)
16節 理性と情念について
さて、再び地上界に戻って見ますと、この地上では私が目配りをして恩恵を施してやらなかったら、楽しいことも、幸福なことも、何一つないことがわかります。人類の母にしてその創り手である自然には痴愚によって味付けされていないところが一つもないように配慮されています。実はストア学派の学説によりますと、知恵とは理性に導かれているということで、これに反して痴愚とは情念のおもむくままに流されることんですって。ユピテル(ジュピター神)様は、人間の生活が悲しみと陰鬱さに完全に閉ざされたものであってはならないとお考えになり、人間の心に、理性よりもずっと多くの情念を植え付けてくださったのです。その割合はほとんど24対1(一貫目対40匁)程で、理性の方は頭の狭苦しい片隅へと押し込め、それ以外の身体は全部、訳の分からない情念の自由にされたのです。さらに神様はただ1人の理性に対して2人の乱暴者を争わされたのです。この2人の乱暴者とは生命の源泉である心臓を支配している「怒り」と下半身全部を占領している情欲です。つまり人間は理性と情念によって動かされるとはいえ、情念の力が圧倒的に強くて、理性が「道徳の規範を守れ」と力のかぎり尽くして命令しても、情念の支配に服してしまうのです。
それが人間という存在なんです。

17節 女性について
人間には男と女の2種類ありますが、男は仕事の関係でどうしても理性に頼りがちですが、その点女の方は情念のおもむくままに生きています。以下、女性についての記述はかなりひどいので。妻の目につくところには置けませんので省略いたします。ただ最後の一句だけはそのものずばり、人生の核心を突いていますので、そのままの文章でご紹介しておきましょう。「かような次第で、人生の第一の、また最大の楽しみが、いかなる源から発するものか、おわかりいただけましたね」。これでは何のことかわからない、とお考えの御仁はどうぞご遠慮なく本書をお買いになってお読みください。妻には内緒ですが面白いですよ。

18節 宴会の楽しみ
しかし時々人生の楽しみは女ではなく酒だと考える人もおられます。確かに気のおけない仲間と一緒に酒を飲むのも楽しいものです。という訳で、宴会の楽しさの秘密も述べておきましょう。宴会は馬鹿げているから楽しいのです。痴愚という薬味を添えないかぎり、どんな宴会も楽しいはずがありません。宴席を娠わすこういったたわむれごとを考え出せるのは、私だけなのですよ(宴席でのどんちゃん騒ぎについての詳論は省略いたします)。すベてこれらはギリシアの7賢人ではなくて、この私めが、人類に幸福(さち)あれと願って発明したものなのです。だって、人生が陰気なものだったら、人生と呼ぶに値しないでしょう。これが私のモットーなんです。

19節 友情について
それから人生を楽しくするものに、友情がありますね。この友情を支えているものじつは痴愚なんです。友人の欠点に眼をつぶり、見逃してやり、盲目になり、幻想を抱き、ことさらに目立つ欠点を、美徳として愛したり褒め称えたりするというのは、痴愚に類するのではないでしょうか。痴愚のみが友情を結ばせ、結ばれた友情をいつまでもカワラヌものとするのです。
あの神ともいうべき賢人たちの間では、友情などというものはまるっきり結ばれることはありませんし、あったとしてもなんやら陰気くさい、楽しくもないものがそこに入り込み、その相手にしても、ごくわずかしかおりません。
私は人間について話しているわけですが、全ての人間には何らかの欠点があります。すぐれた人物というのは、欠点に支配されることが最も少ない人のことです。ギリシア人が口にする「エウエティア」、あれが入り込なければたとえ1時間たりとも友情の楽しさを味わうことはできません。「エウエティア」とはつまり、ラテン語に直せば「痴愚」とか「人の好さ」とかいうことです。このエウエティアが、美しくないものでも美しいと感じさせるのです。一つだけ面白い実例を上げておきましょう。
私は、みなさんに自分を美しいと思うように仕向けています。それによって、男の老人は老婆を、小さな男の子は小さな女の子を熱愛するという具合になっています。これはいろんなところで見受けられることで、笑いを誘うのですが、こういう滑稽なことこそが人生の楽しさを確かなものにして、人間同士を結び合わせているのです。

20節 夫婦生活について
友情について述べたので、ついでに男と女が結ばれて送る家庭生活についても触れておきましょう。もし、私の仲間である「へつらい」だの、「冗談」だの、「お愛想」だの、「勘違い」だの、「ごまかし」だのといった連中の助けがなかったら、夫婦生活はうまくいかないでしょう。そして離婚や、それにもましておぞましい事態が至るところで生じることでしょう。 とは申せ、嫉妬に身を焦がして、苦しみ消耗し、一切を悲劇と化してしまうよりは、こんな思い違いをしている方が、どれほど幸せというものでしょう。いろいろ実例を上げたいところですが、あまりにも具体例を上げますと差し障りがありますの、省略いたします。

21節 16節から20節までのまとめ
要するに、この私という者がいなければ、この世にはいかなる人と人との交わりもありえなければ、人生における結びつきも幸福も長続きはしないということです。

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