ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(2)

2014-04-01 19:37:33 | 小論
概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(2)

Ⅱ「世の中ってどうなっているの」(22節~27節)
(a) 22節~23節 うぬぼれについて
(b) 24節~25節 役立たずな哲学者
(c) 26節~27節 社会というものは

Ⅲ「幸福ってなんだ」(28節~37節)
(a) 28節~29節 名誉欲
(b) 30節~32節 幸福への道
(c) 33節~36節 常識について
37節     閑話2: 「ある賢者」の人生


Ⅱ「世の中ってどうなっているの」(22節~27節)
(a) うぬぼれについて(22節~23節)
22節
自分自身を嫌悪しているような人間は他人を愛せない。私(痴愚女神)に輪をかけたような阿呆でないかぎり、それができると言う人はいない。自分自身を愛するということの根底には「うぬぼれ」がある。だから、人生に味わいを添えているのが「うぬぼれ(ビラウティア)」なのである。この「うぬぼれ」は私の妹のようなものである。他人に褒められたいと思うなら、先ずは自分自身に「へつらい」ちょっと自分をおだてあげるこが、重要である。(うぬぼれとへつらいについては、44節~46節でもう一度取り上げられる)

23節
世間の賞賛を最も受けやすい場所が戦場である。戦場で賞賛を得る人は「頭の方はさっぱりだが、猪突猛進する勇猛さであり、哲学などはまったく無力である。というわけで24節から25節では哲学の無力さが取り上げられる。

(b) 役立たずな哲学者(24節~25節) 
24節
哲学が現実にはほとんど役に立たないということは、かのソクラテスを見ていたらよく分かる。だから、彼には「まともな人間と思われたいのなら、知恵なんてものは遠ざけたほうがよい」ということをはっきりと言っておいてもらいたかった。プラトンの意見に反して、哲学にかぶれた者や文学に耽った者が、支配権を握ると、それは国家にとって大きな災である。
ここで痴愚女神はローマ時代の出来事をいろいろ上げているが、煩雑すぎるので省略する。

25節
哲学者は楽しい雰囲気をぶち壊わす。なぜなら哲学者が世間知らずで、世の論調や世俗的な風俗習慣などからかけ離れているからである。とにかく痴愚女神の不倶戴天の仇は哲学者で、哲学者のこととなると遠慮会釈なくボロクソである。

(c) 社会というものは(26節~27節)
26節 
民衆は指導者の阿諛追従によって動かされる。民衆という巨大で強い力を持つ獣は、愚にもつかぬ話によって操られ、動かされる。馬鹿話や夢物語をうまく使える政治家が成功する。
そこで馬鹿馬鹿しいお話を一つ。
喉が渇いた子狐が水を求めて沼にはまってしまった。蚊が群がってその血を吸っているところへ、針鼠が通りかかり、蚊を追い払ってやろうとすると、子狐はそれを断って、言った。今いる蚊は血を吸って腹いっぱいだが、こいつらを追い払うと、腹をすかせた新手がやってきて、自分の血を吸い尽くすだろうから。吸血鬼のような役人を追い払っても、もっと悪質な役人に取って代わるだけだ。
話のうまい政治家なら、私が辞めさせられたら、もっと悪い政治家が出てくるぞ、と脅かすことのいい材料でしょう。

27節
このように痴愚が都市社会を生み出し、支配権も、統治制度も、宗教も、議会も、司法も安泰を保っているのですから、人間の生活などは痴愚女神のたわむれのようなものにほかならない。

Ⅳ 「幸福ってなんだ」(28節~37節)
(a) 名誉欲(28節~29節)
28節 
技芸・学術を創出する力は「名誉欲」である。名誉心にかられて、「世にも愚かな人間たちは夜も眠らず、しこたま汗水たらして、これほど馬鹿げたものはありえない名声とやらを得るべく務めたのです」、と痴愚女神は言いつつ、こうも言う。「とりわけ楽しいのは、他人の狂気の沙汰を楽しむというやつですね」。

29節 
さらに勇気も勤勉さも私によってもたらされているのである。それと矛盾しているようであるが、「思慮深さ」も私によるのであると言う。勇敢に勤勉に何事にも立ち向かう愚者と何事にも注意深く臆病で消極的で危険なことには近づこうとしない賢者との間で、どこに「思慮深さ」というものがあるのだろう。賢者は何をするにもまず古人の書物を調べ、そこから屁理屈を学ぶだけであるが、愚者は危険な事態に身をもって立ち向かうことによってそこから真の思慮深さを学ぶのである。つまり思慮深さとは実践の中で身につける「的確な判断」である。
物事を的確に判断するということは簡単なことではない。なぜなら人間に関わる全ての物事には裏と表の両面があるからである。わかりやすい実例を一つ。
普通は王様は豊かで何でもできると思っているが、実は王様が全てのことに不満で自由にならないらしい。そうすると決して豊かな人間とはいえない。おまけにその心が悪徳に深く染まっているとしたら、王様は間違いなく恥ずべき奴隷である。これが王の表と裏である。この実例はちょっとわかりにくいかな。それではもう一つの例を。
舞台で役者たちが芝居をしている最中に、舞台に乱入し役者の仮面をはぎ取って素顔を晒す者がいたとすれば芝居全体をぶちこわしになる。そのような時、彼は頭のおかしい男として、みんなに石をぶつけられ、芝居小屋から追い出されるであろう。この状況はそれまで隠れていたものがあらわになるということである。「さつきまで女だった者が男になり、今しがたまで若者だった者がたちまち老人になり、ちょっと前まで王様だった者が奴隷に変わり、つい先ほどまでの神様がちっぽけな小男として姿をあらわすといった具合です」。幻想の世界は取っ払われ、ありのままの姿がさらけ出されることになる。
「舞台の上では扮装を凝らしたり、化粧をしたりすればこそ、観客の眼を意きつけることが人間の一生なんて芝居みたいなものなんですよ」と痴愚女神は言う。

(b) 幸福への道(30節~32節)
30節
まず、「全ての情動が痴愚から発する」ということから議論を始める。ここではなぜか、愚者と智者(賢者ではなく)とが対比されている。また、これまで用いられていた「情念」ではなく「情動」という言葉が用いられている。これらの違いについては横においておく。人間には情動によって動かされる愚者と理性に支配されている智者とがいる。智者は情動の働きを病と見て智者から遠ざけようとしている。
智者を代表するストア派の連中について次のように語る。
「あらゆる自然な感情に無反応で、いかなろ感情にも動かされず、ましてや愛にも、憐憫の情にも、心を動かされることなく、何物にもたじろかず、恐れず、いかなる過ちも犯さず、見逃さず、あらゆるものをきちんと計り、知らざるものはなく、自分一人に満足し、自分一人が富裕で、健康で、王者であり自由であって、要するに、自分一人の判断で、自分一人がすベてだと思い込み、友人も持とうとせず、誰の友人でも
なく、神々でさえも平気で絞首台へと追いやる心構えで、この世でなされている一切のことを狂気の沙汰だとして弾劾し、潮笑する、そんな人間が」ストア派の言う完壁なる智者である。
要するに智者は面倒な相手であり、それに対して愚者は気楽に付き合える仲間である。
私は智者にはうんざりしている。

31節
ここでもう一度、人生を概観する。13節では表(おもて)から見た人生、ここでは人生の裏側。(脱線:13節の裏側が31節って面白いですね)
人間の生まれ方はなんと惨めで汚らしいのであろうか。幼年時代にはキツイくしつけられ、少年時代の理不尽な教育、青年時代には汗水流して働き、老年になれば生きていることが重荷なり、生者必滅の悲哀を感じる。更には一生を通じて数えきれないほどの病に襲われ、数多の不慮の出来事に脅かされ、不幸な事態に苦しめられ、どれをとってもこの上ない苦難の色に染まっている。要するに人生とは苦渋に満ちている。そこから深刻な問いが発せられる。
そもそもどんな罪を犯したがゆえに、人間たちはこんな目にあわねばならないのか、どの神が怒りにまかせて、人間たちをこのような悲惨な状況のうちに生まれるよう仕向けたのか。この問いに関しては痴愚女神は「今、お話するわけにはまいりません」と答えている。
<余談>それにして、エラスムスは老人について語るときには辛辣である。嫌な老人体験があるのではないだろうか。
「垢だらけで、腰は曲がり、惨めな姿で、皺くちゃで、秀頭で、歯抜けで、一物も役立たず」というトパネスの言葉を引用して、更にひどいことを言う。「生を楽しむことはなは甚だしく、若く装うために、白髪を染める者もいれば、カツラをかぶって秀げを隠す者もおり、ある者はまた、おそらく豚からひっこぬいてきた歯を使って義歯にしたりしていますが、こういう仁が、みじめにもうら若い娘に死ぬほど恋い焦がれたり、尻の青い小僧っ子も顔負けの色恋沙汰にうつつを抜かしたりするのです。棺楠に片足を突つ込んでいて、まったくの生ける屍でありながら、持参金も持たぬ若い小娘を娶り、よその男たちを楽しませてやるというのは、あまりにもよくあることなので、かえって世の賞賛を博したりしているのです」。
まさに老人に対するヘイトスピーチである。
老婆についての描写はあまりにもえげつないのでここでは省略する。
こういう老後を馬鹿げているとお思いの方々にはとくとお考えいただきたい。愚かではあるが至極楽しい生活を送るほうがいいか、それとも、世にいう首を吊るための梁を探すほうがいいか」。
これを書いてい頃のエラスムスは40歳代のなかば頃で、何か人生を達観している雰囲気が漂う。

この節の締めくくりに痴愚女神は次のように語る。
「ところでこういった馬鹿げた振る舞いは、世人の眼には恥さらしと映るでしょうが私に従う愚か者にとっては屁でもないのです。御当人はそれを不幸だなどと感じてはいませんし、 何か感じたにしても、そんなものは大して気にもしません。 頭の上に石が落ちかかってきたら、それはもう掛け値なしの災難です。恥だの、不名誉だの、侮辱だの、 悪口だのといったものは、それを感じる人間にだけ痛みをもたらすもので、感じない者にとっては不幸でもなんでもないのですから。(中略)そして、それができるようにしてあげているのは、この痴愚女神ただ一人なのですからね」。
いい気なもんである。

32節
不幸はそれを感じるものだけのもので、感じないものには不幸なんてないも同然という痴愚女神の意見に対して、世の哲学者たちは、次のような反対意見を述べるであろう。
痴愚に囚われ、過ちを犯し、幻想を抱き、無知の闇に沈んでいることこそが、悲惨そのものであると。
それに対して痴愚女神は、人間がその種族本来のままの姿でいることは、 少しもみじめなことではありません。人間が鳥と一緒に空を飛ベず、ほかの獣のように四っ脚で歩けず、壮牛のように立派な角を持っていないのを悲しむベきことではない。
哲学者たちからみたら、立派な馬も文法を学んでいないし、菓子も食ベてはいないから不幸だし、闘技場で役に立たないから、壮牛も不幸だということになるだろう。しかし、文法の心得がないからといって馬が不幸でないのと同様に、人間は愚かであっても、不幸というわけではない。まさに痴愚であることこそが人間の本性なのだ。
そこで屁理屈やの先生方は、こう反論することだろう。
人間たちにだけ特別にもろもろの学問をする能力が与えられているのは、その知識を活用して自然が人間に与えることを惜しんだものを埋め合わせるためである、と。
それじゃまるで、虫けらや草木や、小さな花にさえ細心の心配りをした自然が何故人間にだけ手抜きをしたのか答えになっていない。
ここから痴愚女神の学問に対する批判が火を噴く。その主眼点は、学問とはその他の災禍とともに人間に忍び込んできたものであり、それは悪霊たちによって作られたものであるという。
人類史上の最も幸福だった「黄金時代」、人々は「何の学問も身につけずに、自然の導くままに、本能にまかせて生きていた。それが最も古い時代で、それ以後、銀、青銅、英雄、鉄と時代を減るごとに不幸になっていった。
人類に何故文法が必要になったのか、弁証法が何故成立したのか、何のために法律があるのか、それらはすべて人間の罪の結果ではないのか。死すべき身の人間が、その分限を超えて知ることを求めるのは、許されざる罪である。天空の彼方にあるものを探求しようなどという狂気の沙汰は、いささかも念頭に浮かばなかった。

(c) 常識について(33節~37節)
33節
痴愚女神は諸学問のうちで最も有用な学問は「常識」であるという。なんという皮肉であろう。その理由は、痴愚に最も近いからという。神学者たちは飢えに苦しみ、自然学者たちは凍え、占星術師たちは物笑いにされ、弁証学者たちはぞんざいにあしらわれ、ただ医者のみが重宝にされている。それに引き換え、無学で軽薄で、鉄面皮な輩が王侯になっている。
法律家、哲学者、神学者等々が無用な学問として槍玉に挙げられている。考えてみると、法律家の代表が最も親しいトマス・モア(痴愚女神の名前の由来となった)であり、哲学者、神学者の代表がエラスムス自身であり、かなり作者は「遊んでいる」。

34節
人間以外の動物にとっての幸福論が展開されている。ピュタコラスだったという、あの雄鶏は言う、「あらゆる動物の中で人間が最も悲惨である。ほかの動物はすべて自然が与えてくれた境遇に満足しているのに、人間だけが定められた境遇を踏み越えようとしている」と。

35節
同じ雄鶏がさらに言う、「人間の中では多くの点で、学者や偉大な人物よりも、愚か者のほうが勝れている」。そういう次第で、人間の中で知恵を深めることに鋭意務める者が、幸福からは最も遠ざかると結論付ける。

36節
阿呆の効用が述べられる。自分の学識に自信のある賢者の先生方は辛辣極まる言葉で本当のことを遠慮なく語り、お偉い方々の繊細な心を傷つける。が、阿呆たちはお偉い方が求めているもの、つまりは軽口、微小、大笑い、気晴らしといったものを提供する。
お偉い方々は学者たちが語る真実は聞きたくない。「ところが私の阿呆どもは、不思議にも、ほかならぬこのことを常々やってのけているのです。つまり本当のことを言うばかりでなく、みんなの前で公然と王侯方を罵りながらも喜んでお耳を傾けていただき、同じことばを智者たちが口にしたなら死刑になりそうなことでも、阿呆の口を衝いて出ますと、信じがたいほど喜んでいたたけるのてす。真実というものは、人を傷つけないかぎり、本来聞く者の心を喜ばせる力を秘めているのですね」。

37節 閑話2:「ある賢者」の人生
エラスムス自身の自画像と言われている。(この部分は、事柄が事柄なので、そのまま書き写します)。
まず始めに、阿呆たちの幸福を次のように語る。
「この人たちは死を恐れることもなく、それを感じもせずに、大いに楽しくその一生を送る」。
「さて今度は、誰でもかまいませんがある賢者と、このような阿呆の運命とを、比べてみようじゃありませんか。この阿呆に対するに、知の典型と目される人物を思い浮かべてください。
幼年時代も青年時代も学問を身に着けるべく精励刻苦し、人生の楽しかるベき時代を、絶えず徹夜し、心配事に苦しみ、汗水垂らして無駄に費やし、残りの人生も一生涯を通じてこれっぽちも楽しみを味ゎうことなく、いつだってしみったれで、貧乏で、陰気くさく、憂鬱な顔をしていて、自分自身に対しては無慈悲かつ冷酷で、他人にとっては重苦しくまた疎ましく、青白い顔をし、やせこけていて、病身で、ただれ眼で、歳よりもずっと早く老け込んで白髪になり、早死にするような人物をである。こんな人間が死んだからといって、なにほどのことがありましょう。なにしろ一度たりとも生きたことはなかったんですからね。これぞ賢者の御立派な肖像というものです」。

最新の画像もっと見る