ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/01/31~02/06

2016-02-07 08:09:12 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/01/31~02/06

2016 日々の聖句 01月31日(日)
身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。(Jer.6:13~14)

パウロの手紙:わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めています。(1Cor.10:33)

私の黙想:
預言者エレミヤの嘆き。「わが民の破滅」。口語訳、フランシスコ会訳、新改訳では「わたしの民の傷」、「破滅」と訳したい気持ちは十分わかるが、それでは「手軽に治療して」と不整合である。まさか、瀕死の患者に軽く、「大丈夫なおります」とは言えないであろう。「傷」程度がいい。問題はプロの医師がその傷の深刻さを隠して「大丈夫、大丈夫」と言い、簡単に治療をすることである。エレミア書では「平和がないのに、『平和、平和』と言う」という言葉は、8:11にも繰り返されている。預言者エレミヤの預言活動は今は「平和ではない」というところに立ち、民の悔い改めを宣べる。
現代の権力者たちは「戦争だ、戦争だ」と危機感を煽り、軍備拡張を進め、「利をむさぼっている」。現在の日本の危機は外国勢力というより、国内の戦争愛好家にある。何も現在が平和であるという訳ではないが、軍備によって戦争が避けられるような「生やさしい状況」ではない。その意味では軍備拡張は現在の状況に対して「軽ーい治療」に過ぎない。より根本的な治療、国際平和関係を築かなければならない。

2016 日々の聖句 02月01日(月)
主なる神よ。(あなたが大いなる御業をもって救い出し、)力強い御手をもってエジプトから導き出された、あなたの嗣業の民を滅ぼさないでください。(Deut.9:26)

パウロの手紙:あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(Phi.1:6)

私の黙想:
今日の聖句は、主なる神がイスラエルの民の度重なる「背き」に呆れて、イスラエルの民を見放すと言われたときに、モーセが「40日40夜」主の前にひれ伏し祈ったという祈りの言葉である。その時、モーセが主なる神に迫った根拠はただ一つ、あなたがこの民を選び、あなたがこの民をエジプトから救出され、あなたがこの民を御自分の「取り分」となさったのだから、最後まで面倒見て下さい、ということである。考えてみると、随分身勝手な祈りである。あなたが始めたのだから途中で投げ出さないで、最後まで責任を取れ。押しつけられた仕事は何時でも投げ出すことが出来るが、自分で主体的に選んで始めた仕事は最後までする。一寸ぐらい、しんどくなったらかといって、嫌いな奴がいるからといって、あまり得ではなさそうだからといって、思っていたのとはかなり違うからといって、止めたらダメ。それは、神も人間も同じだ。それが「意地」というもので、途中で投げ出すのは「意気地なし」という。

2016 日々の聖句 02月02日(火)
あなたは天から裁きを告知し、地は畏れて鎮まる。神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる。(Ps.76:9~10)

主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。(1Pet.3:12)

私の黙想:
詩76は何か変。これが弱小国イスラエルの本当の祈りなのだろう。「地の貧しい者」を口語訳では「地のしえたげられた者」と訳し、フランシスコ会訳では「地のすべての哀れな者」、新改訳は「地上の貧しい者」と訳している。米田豊先生は「本編も前編のごとく国民的救いの感謝の歌で、セナケリブ軍より救われし時(列王下19)の作であることは諸説一致している。唯前編は道徳的見地より之を記して敵の高慢冒涜とこれに対する至上権、摂理による復仇を述べておるに対して、本編は敵軍全滅の如実の描写をしている」と解説しておられる。強力なアッシリア軍の全滅の描写ということだ。変なはずだ。敵が滅ぼされている状況を手を叩いて喜んでいる。日露戦争に勝利したとき、国内では「提灯行列」がなされたという。あれが、この詩である。しかし、歴史を振り返ると「あの時の勝利」が日本の国力についての幻想を作り出し、軍国主義国家へとつながったことを思う。

2016 日々の聖句 02月03日(水)
万軍の主が定められれば、誰がそれをとどめえよう。その御手が伸ばされれば、誰が引き戻しえよう。(Isa.14:27)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。(Rom.8:31)

私の黙想:
神がお決めになったら、必ずその通りになる。ここで神がお決めになったこととは、バビロンの滅亡である。1節から4節までがそれを宣言している。「そのとき、あなたはバビロンの王に対して、この嘲りの歌をうたう。ああ、虐げる者は滅びその抑圧は終わった」(4節)。この出来事を見て歴史の恐ろしさを感じる。かつては天にも昇る勢いを誇った王国も、滅びる。まさに「諸行無常」の世界である。しかし、その出来事を喜んでばかりおれない。「生者必滅、会者定離」の現世は、バビロンだけではない。イスラエルも同じ運命の元にある。神の絶対性を強調すればするほど、現実の世界の虚しさが見に染みる。イザヤ書14章にはそのような雰囲気がある。

2016 日々の聖句 02月04日(木)
主の道はことごとく正しく、御業は慈しみを示しています。(Ps.145:17)

主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、明らかになったからです。(Rev.15:4)

私の黙想:
今日の聖句、後半がポイント。「御業は慈しみを示している」。「神の業」と言えば、天地創造から始まり、人類の全歴史から私たちの日常の生活まですべてに及ぶ。それらのすべての「御業」が「慈しみ」を示しているという。あれも、これも私の脳裏をかすめるすべての出来事、変化、悲劇、苦難、嫌なこと、嬉しいこと、それがすべて「神の業」であり、そこに神の「慈しみ」が示されているという。そんなこと言えるのだろうか。言えない。良いとこ取りして、これが「神の慈しみです」というのは簡単なことであるが、そうは言えないことも沢山ある。

2016 日々の聖句 02月05日(金)
注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。(2Chr.19:7)

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。(Mt.9:10)

私の黙想:
「収賄」という言葉に反応してしまう。「不正、偏見、収賄」。皮肉なことに、今日の聖句は国王から各地方の裁判官への命令の言葉。賄賂まみれの国王(政権)から地方の裁判官に、不正、偏見を命じているのが現在の日本。
今日の聖句はなかなか含蓄がある。この命令を発したユダのヨシャファト王は先見者イエフから「(あなたは)悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため、主の怒りがあなたに下ります」とこっぴどく叱られている。彼は権力維持のために、ヤハウェ信仰を捨てていたイスラエルのアハブ王と軍事同盟を結び隣国を攻めようとしていた。先見者イエフはヨシャファト王を叱りつつ、同時に「しかし、あなたには良い事も見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、揺るぎない心で神を求めました」と誉めている。要するにヨシャファト王は国際政治と国内政治との二元政治を行ったいたのである。今日の聖句はそういう文脈で国内政治の粛正を計っているのである。ここに、ヨシャファト王は裁判の本質を次のように述べている。裁判とは「人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。裁判官は国王の代理人であると同時に神の代理人でもある。そこには「不正も偏見も収賄」も入り込む余地はない。日本における裁判は「人間が作った法律により、人間の前で宣誓し、人間のために」行われている。不正、偏見、収賄まみれの裁判だ。

2016 日々の聖句 02月06日(土)
ダビデはソロモンに言った。「神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださる。」(1Chr.28:20)

主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。(2Tim.2:7)

私の黙想:
ダビデ王が最もやり遂げたかった仕事は神殿建築ということであった。しかしその仕事は神から許可されなかった。ダビデ王はあまりにも多く戦争をし過ぎたというのがその理由であった。そのために、ダビデは建築直前までのすべての準備、建築材料から人材、神殿内で奉仕する司祭団に至るまで整えてその大事業を息子ソロモンに託した。その時に語った言葉である。人間、引き際が大切である。ダビデの引き際は見事であった。

最新の画像もっと見る