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原本ヨハネ福音書研究巻2(上)

2016-02-06 19:45:04 | 聖研
原本ヨハネ福音書研究巻2(上)
巻2 霊によって生まれ、霊において礼拝する

 (1) 初めての神殿詣(2:13~25)
 (2) ニコデモとの会話(3:1~12)
 (3) 著者の言葉 (3:15~21)
 (4) 洗礼者ヨハネの証言(3:22~36)
 (5) 洗礼についての一寸したコメント (4:1~2)
 (6) サマリアの婦人との会話 (4:3~26)
 (7) イエスと弟子たち (4:27~34)
 (8) 教会の宣教 (4:35~38)
 (9) サマリアの人々 (4:39~42)
 (10) 王の役人の息子を癒す (4:43~54)
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巻1では、序詞から始まって、初めの7日間の出来事が取り上げられた。ここからイエスの本格的な活動が始まる。巻2にはいわゆる奇跡物語はない。

第1章 初めての神殿詣

<テキスト2:13~25>
語り手:過越の祭が近づいてきましたので、イエスは弟子たちと一緒にエルサレムに向かわれました。神殿は、地方からの参拝者や、その人たちのために奉納用の牛や羊や鳩を売る商売人や通貨を神殿用のお金に交換する両替業者などで大変な賑わいでした。その様子をしばらく眺めていたイエスは腹の底から怒りがこみ上げてきました。それで、その辺りに散らばっている荷造り用の縄で鞭を作り、それを振り回して、牛や羊や鳩を売っている連中を神殿から追い出し、両替業者の小銭をぶちまけ、テーブルをひっくり返し、大暴れいたしました。暴れ回るイエスの姿を見て、弟子たちは、神殿後生大事という連中が黙っていないだろうな、などとのんきなことを考えていました。まさかそのことが後に、本当のことになるとは、思いもしませんでした。

イエス:商売道具を持ってトッと失せろ。私の父の家を商売の家にするな!
ユダヤ人たち:お前は何の資格があって、こんな狼藉を働くんだ。お前の身分証明書を見せろ。
イエス:何の資格だと、そんなもの持ってないよ。でもな、こんなに汚れた神殿なんか壊してしまえ。そうすれば、俺が3日のうちに新しい神殿を建ててみせてやる。
ユダヤ人たち:馬鹿なこと言うな。この神殿はな、建て始めてから46年かかっているんだぜ。それでもまだ完成しないんだぜ。それをお前は3日で建てるとは、呆れた奴だ。

語り手:実はイエスは自分の身体のことを神殿にたとえて言ったのです。後にイエスの弟子たちはイエスが復活したときに、このことを思い出し、聖書とイエスの言葉とを信じた、と言われています。
また、その時、祭のためにエルサレムに来ていた多くの人たちの中には、イエスのこの驚くべき行動を見て、そこに神の働きを感じ、イエスの名を信じたという人もいたとか。しかし、イエス自身は彼らの信仰を信用しておられませんでした。彼は人間というものがどういうものかよくご存知だったからです。

<以上>

(a) 初めての神殿詣
イエスの本格的な活動が過越の祭から始まり、過越の祭(Jh.19:14)で終わる。事実その通りかどうかというよりも、著者ヨハネがそのように描いているということである。
著者は福音書で6回の祭を記録している(2:13,5:1,6:4,7:2,10:22,11:55)。このうち、2:13,6:4,11:55については過越の祭、7:2は仮庵祭、10:22は神殿奉献記念祭と明記されているが5:1だけは何の祭か明記されていない。ただし、5章と6章とは順序が入れ替わっている可能性が高く、6章の「過越の祭が近づいている」とあり、5章の祭は「その祭」、つまり過越祭であると思われる。要するに祭ごとにイエスは神殿に行かれたのである。イエスはよほど「お祭り好き」なんだという印象であるが、実は祭に行くか行かないかはイエスの判断ではなく、父なる神の指示である(Jh.7:1~13)。むしろ重要なことはイエスの公的活動期間に3回の過越の祭があり、その3回目の過越の祭でイエスは処刑されたのだということである。その意味ではイエスの活動は正味2年間ということになる。しかし2:13の出来事を共観福音書はイエスの最後の頃の事件として描いているので、そもそも過越の祭で活動期間を決定しようとすること自体が無意味だということになる。
ヨハネ福音書ではイエスによる神殿粛正の出来事をイエスの活動の初めにおいていることの意味は大きい。それではイエスの活動の最後はどうだったのかということを調べると、非常に興味深い。ユダヤ人たちの間で公的に最終的にイエスの処刑を決定した経緯が、Jh.11:45以下のところに書かれている。このことについてマルコではごく簡単に「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」(Mk.14:1~2)。マタイもルカもマルコよりはもう少し丁寧であるが基本的にはマルコとほぼ同じである。ところがヨハネは実に細かく記録している。

それでユダヤ人たちはマリアに近づき、「素晴らしい」と言ってイエスを信じました。しかし、ある者たちはパリサイ派の人々の所に行き、イエスがしたことを告げ口しました。その報告を受けて、祭司長たちとパリサイ派の人々とが緊急会議を開き、「イエスという男は多くの奇跡を行っているが、我々はそれにどう対処すべきか」ということを協議しました。もしもこのままイエスを放置していたら、ほとんどの民衆が彼を信じるようになるだろう。その結果、ローマ人が来て、エルサレムを占拠し、私たちの神殿を破壊し、自治権を取り上げるかも知れない」(Jh.11:45~48)。

これがイエス処刑の公式な決定である。ここで「緊急会議」(Jh.11:47)と訳した言葉はユダヤ人共同体における最高決議機関の会議で、祭司長が出席する。新共同訳では「最高法院」と訳されている。ここでの決定事項はそれ程の権威があるものである。この時のイエス処刑の決定的原因は「ローマ人が来て、エルサレムを占拠し、私たちの神殿を破壊し、自治権を取り上げるかも知れない」ということであった。ギリシャ語原文では「神殿」とか「自治権」という単語は用いられず、ただ「我々の場所(トポス)も民族(エスノス)も取り上げるかも知れない」という表現になっている。新共同訳では「我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」、口語訳では「わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう」と訳している。小林訳では「この場所と民族」と訳している。どう訳すのかはなかなか難しいところであるが、神殿というものがユダヤ人共同体の自治権のシンボル的意味を示しているとしたら、私の「神殿を破壊し、自治権を取り上げる」という訳の意味は鮮明になるであろう。つまり、イエスを抹殺し神殿を守るということであった。イエスの活動は神殿を粛正することで始まり、最後は神殿を破壊しようとする者として粛正された(Jh.11:48)。
マルコによる福音書によると、イエスの処分に関しての最高法院での裁判においては、起訴状の理由は「この男が、『私は人間の手で作ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしは聞きました」(Mk.14:58)ということになっている。つまり、イエスに死刑の判決が下ったのは「逮捕後」ということになっているが、この記事をヨハネは、それよりもかなり以前の「逮捕前」、ラザロの復活事件の直後においている。このことによってイエスはユダヤの法規による個人的な「神に対する冒涜」(マルコ14:64)というよりも、ローマとの関係におけるユダヤの自治権の喪失の「民族的理由」による死刑ということの犠牲となった。この違いは大きい。ところが、ここにはイエスの肉体を抹殺することでは神殿を守ることは出来ず、イエスが自ら死ぬことによって本当の神殿を建てることになったという「歴史のアイロニー」がある。

(b) イスラエル民族にとって神殿とは何か
バビロンから祖国復帰を許されて、帰国した民は「宗教共同体」としてのみその自治権を認められた。その意味で、捕囚期以後は「イスラエル民族」というよりも「ユダヤ人共同体」というべきであろう。郷里に戻った彼らは先ず神殿の再建を行った。前516年に第2神殿は落成した。ユダヤ人共同体は巨大帝国ペルシャ、ローマの時代をこの神殿を中心とする弱小の宗教共同体として生き残りイエスの時代に至る。
宗教団体としてのユダヤ人共同体は、律法(捕囚期間中に編集された)と神殿とを2本柱とする宗教共同体であった。いわば小規模ながら宗教と政治とが一体化された共同体として自治を守ったのであった。制度としては祭司長を中心とする祭司集団がユダヤ人社会を統括する。そうなると本来宗教的な律法が政治的色彩を帯びユダヤ人の社会生活を規制する「法律」となる。そのためには「大雑把な律法」、その解釈と実行のほとんどが個人の良心に委ねられていた律法では役に立たず、多様で複雑な「細則」が作られ、それを解釈する「律法学者」が生まれる。その結果、律法は人々を拘束するだけのものとなり、律法主義化し、空疎化する。他方、神殿には「自治機能」が託され、いわば「役所化」する。当然多くの役人が常置し、ユダヤ人共同体における宗教、教育、財政等を管理・統治することとなる。その中でも重要な働きが一種の集金機能である。ユダヤ人共同体の自治はあくまでも巨大帝国の属国のそれであって、各種の税金が帝国に貢がれる。途中、ハスモン家による独立運動が成功したものの大局的状況は変わらず、それが極限状況になっていたのがイエスの時代であった。

(c) イエスの資格
イエスが神殿内で大暴れしたとき、ユダヤ人たちが「お前は何の資格があって、こんな狼藉を働くんだ。お前の身分証明書を見せろ」と言ったという。ここで私が「資格」と訳した言葉はヨハネ福音書に普通に用いられている「しるし」という言葉で、この福音書ではそれは「奇跡」を意味していると思われる(Jh.2:11)。それで普通は「どんな奇跡を見せるんだ」などと解釈されているが、それでは文脈が通じない。文脈ではこういう狼藉を働く「資格」が問われているのである。それで私は思いきって「何の資格」と訳し、あとに「お前の身分証明書を見せろ」という言葉を補足しておいた。神殿で狼藉を働く「資格」などというものがあるのかどうか知らないが、例えば「警察」の働きなどを考えると、彼らには「拳銃携帯」の資格があり、時と場合によっては「殺人の資格」さえ持っている。これが権力による市民統治の権力である。それが政治権力という実体である。そうすると実は非常に重要なことが見えてきた。この出来事で問題になったことはイエスの「資格」である。権力者は常に「資格」とか「身分」を問題にする。つまり一人ひとりの個人が社会の中で出来ること、してはならないことを決めるのは権力者から付与されている「資格」である。

<補注>日本の場合、国家資格と呼ばれているものだけでも19部門で219資格もある。面白い資格をいくつか紹介すると、生活関連の国家資格(10)として、ピアノ調律技能士、フラワー装飾技能士試験、クリーニング師試験、テクニカルイラストレーション技能士、警備業務検定(警備員検定)、理容師試験、美容師試験、気象予報士試験、広告美術仕上げ技能士、商品装飾展示技能士試験等、10の資格がある。スポーツ系の国家資格(5)としては、競輪選手、競艇選手、調教師(日本中央競馬会)、騎手(日本中央競馬会)、潜水士なども資格がなければ出来ない。このほかに公的資格や、私的団体による資格など、1000を下らない。現在の日本では、何らかの資格を持っていなければ生きていけないような状況である。その意味では、日本で住んでいる人は何らかの意味で、それらの資格を信じて生活しているのである。
しかし、人間には国家が与える資格や法律では立ち入ることが出来ない世界がある。それが個人の「良心」の領域である。先ほどの「資格リスト」に含まれない領域がある。それが宗教の世界である。当然のことであるが、聖職者であるという「資格」は国家資格でもないし、地方自治体による資格でもない。これには国家も立ち入ることが出来ない。よく、「牧師の資格」とか「司祭の身分」とかいうが、これはその人が所属している宗教団体内の事柄で、一般社会では何の資格もない。


この出来事においては「イエスの資格」が問題になった。神殿内でこのように大暴れする資格が問われた。この詰問に対してイエスは、「何の資格だと、そんなもの持ってないよ。でもな、こんなに汚れた神殿なんか壊してしまえ。そうすれば、俺が3日のうちに新しい神殿を建ててみせてやる」(Jh.2:19)。原文では単純に「こんなに(汚れた)神殿なんか壊してしまえ。そうすれば、俺が3日のうちに新しい神殿を建ててみせてやる」である。マルコ福音書では18節以下の部分はなく、いきなりユダヤ人たちは「どのようにしてイエスを殺そうかと謀った」(Mk.11:18)とある。面白いことに、ユダヤ人たちがこういうことを考えた理由として「群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである」と説明している。その群衆が打たれた「イエスの教え」とは「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」(Mk.11:17)である。つまり群衆はイエスの行動に感激している。そのことをユダヤ人社会の指導者たちは恐れている。
イエスのこの時の行動は神殿における政治的機能に対する批判であり、それを群衆が支持したのである。神殿が本来、宗教施設であるのに、それが政治権力の施設になっている。祈りの場であるべき神殿が、住民を統治する役場になっている。特に「金集めの場所」になっている。これをぶち壊すのに、何の資格がいるんだ。「神殿をぶち壊せ。そうしたら私が本当の神殿を建ててやる」。そのイエスの行動を一般庶民は拍手・喝采した。
実は、これをヨハネが書いている時代にはもう既に神殿は破壊されていた。エルサレムを中心とするユダヤ人共同体は壊滅し、世界各地に離散している。その意味では、エルサレムの神殿はイエスの時代には建物としての神殿は確かに建ってはいたが、「神の祈りの家」としての神殿は破壊されていた。イエスはただそれを目に見える形で表現しただけである。神殿は内部から崩壊していた。そして70年にはローマの軍事力によって、つまり外部から破壊された。イエスの肉体もローマ権力とユダヤ人共同体の陰謀によって殺された。しかしイエスの心の中にある「神への信仰」は殺せなかった。イエスが建てようとしたのは、「この信仰」である。イエスの「こんな神殿なんか壊してしまえ。そうすれば、俺が3日のうちに新しい神殿を建ててみせてやる」という言葉は、外見としての神殿、社会的に見える形としての神殿、さらに言うなら、社会制度としての宗教、信仰であり、イエスが建てようとしている神殿とは「心の中の神殿」、要するに真の宗教である。

(d) 人間を信用しない
著者はその出来事に続いて、イエスが祭の間エルサレムに留まり、驚くべき徴を行い、それを見て多くの人がイエスを信じたということを述べている。この部分で「徴(=奇跡)」と信じるということの関係が明確に述べられる。ここで、私は「驚くべき行動」と訳している言葉は原文では「驚くべき徴」で、奇跡を意味している。その奇跡の具体的内容は述べられていない。ここで述べられていることは、要するに徴(=奇跡)を見て信じる信仰をイエスは信用しなかったということである。イエスは神殿での出来事を通して神殿に依存している宗教に対する鋭い批判を示した。要するに、それは見えるものに依存した信仰である。ユダヤ教においてもっとも厳しく批判されている「偶像礼拝」に通じる信仰である。そして、23節以下のわずか3節のテキストで語られていることは、徴(=奇跡)を見て信じる信仰も、結局は「見る」ことに依存した信仰ではないだろうか。ここで提起されている問題は、「真の信仰とは何か」。「真の宗教とは何か」という切実なテーマである。ここではただ、その問題が「イエスは信用しなかった」という形で問われている。ここにはまだ答えはない。それに対する答えが、ニコデモとの対話とサマリアの婦人との対話で示される。

第2章 ニコデモとの会話

<テキスト3:1~12>
語り手:そんなことがあって、イエスの評判がかなり広まった頃のある夜、ファリサイ派の指導者でユダヤ人議会の議員でもあったニコデモという人物が、ひそかにイエスを訪れました。彼にはイエスにいろいろ質問したいことがあったようでした。

ニコデモ: 先生、私どもは、あなたのすばらしさについては十分に存じております。神の助けがなければあれだけの奇跡を行うことはできないでしょう。
語り手: ニコデモの態度はなかな紳士的です。さすがにユダヤ人社会においては第1級の教養人のようです。しかし、その男がいったい何をしに来たのでしょうか。ニコデモの言葉に耳を傾けながらイエスはいろいろと思い巡らし、しばらく様子を見ていました。わざわざ、お世辞を言いに来たわけではなさそうですし、何かを探りに来たとも思えません。と言って、多くのファリサイ派の連中のように、ただ議論をふっかけてイエスの言葉尻を捕まえて、批判するために来たのでもなさそうです。彼は彼なりに問題意識を持ち、かなり真剣にものを考える人物と思われます。しかし遠慮しているのか、それとも問題が十分に言葉として熟していないのか。それでイエスは自分の方から問題を切り出してみようと思い、単刀直入に語りました。

イエス:はっきり言って、人間は新しく生まるのでなければ、神の国を見ることはできません。
ニコデモ: 新しく生まれる! そんなことが出来るわけがないでしょう。歳をとった人間が、どうして新しく生まれるなどということができますか。もう一度母親の胎内に入って生まれ直すなどということは不可能ですよ。
イエス:なるほど、それはその通りです。じゃ、言い直しましょう。はっきり言って、誰でも霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉体から生まれたものはどこまでも肉体です。同じように、霊から生まれたものは霊なんです。人間は新しく生まれなければならないと言った私の言葉にそれほど驚くこともないでしょう。むしろ当たり前のことです。
イエス:霊はごく自然にどこにでも吹いています。あなたも私も霊の吹く音を聞いています。しかし、それがどこから来て、どこへ行くかを知ることはできません。霊から生まれた者とはそういうものなんです。
ニコデモ: どうしても新しく生まれるということが私には理解出来ません。そんなことは不可能です。
イエス: あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなこともわからないのですか。
これは地上での話なんですよ。それを信じないようでは、私が天上のことを話しても信じる筈がありませんね。

教会的編集者の挿入: Jh.3:11

<以上>

巻2(Jh.3:~4:)には、ニコデモとの会話とサマリアの婦人との会話が記されている。これら二つの会話が設定されている状況や会話の相手の違いは大きい。一見するとそれぞれが全く別な出来事のように見えるが、実はこれらは明らかにワンセットになっている。時間と場所としてはエルサレムの神殿で行われた過越祭からの帰りとされているようである(Jh.4:43)。これらに共通する主題は宗教である。もっとも「宗教」と言っても神殿を中心とする従来の既成宗教ではなく、人間の根源的な生き方に関わる宗教である。

(a) ヨハネ福音書におけるニコデモとの会話の意味
「そんなことがあって、イエスの評判がかなり広まった頃のある夜」、原文ではただ「夜」とだけしか書かれていない。この夜というのは何時のことか、原文には何も書いていない。しかし、4:43に「二日後、イエスはそこを出発してガリラヤへ行かれた」とあり、サマリアでの出来事はエルサレムからガリラヤへの旅の途中として設定されている。だとするとニコデモの訪問はエルサレム滞在の終わり頃、多分、最終日ではなかったかと想像する。イエスはエルサレムで神殿の粛清の他にもいろいろなことをされたのであろう。その評判を聞いてニコデモはイエスのもとにやって来た。それも夜、ひそかに訪れた(Jh.19:38)。かなり深刻な様子がうかがえる。ニコデモは言う「先生、私どもは、あなたのすばらしさについては十分に存じております。神の助けがなければあれだけの奇跡を行うことはできないでしょう」(Jh.3:2)。これはお世辞とか皮肉ではなく、彼の率直な感想であろう。その言葉を聞いてもイエスは黙っている。おそらくニコデモの態度を観察していたのであろう。

(b) 「新しく生まれる」ということ
長い沈黙の末、イエスがやっと口を開いた。「はっきり言って、人間は新しく生まるのでなければ、神の国を見ることはできません」(Jh.3:3)。読者としてはいかにも唐突に聞こえるかも知れないが、2人の間では一切の無駄話は不要である。これはニコデモの無言の問いに対するイエスの率直な答えである。イエスはこれでニコデモは「分かる」と期待した。要するにニコデモの訪問の目的は、「私の父の家を商売の家にするな!」(Jh.2:16)と言って神殿の中で大暴れしたイエスの真意を確かめたいと思ったに違いない。つまりイエスの「神殿観」が聞きたかったのであろう。それは必ずしもイエスに対する批判・譴責ではない。おそらくニコデモ自身も多少はそれを感じていたに違いない。
そうすると、このイエスの発言は一見するとちぐはぐである。もちろんイエスはニコデモの気持ちを理解した上で、「人間は新しく生まるのでなければ、神の国を見ることはできません」と答えられたに違いない。ところがニコデモにはその真意が理解出来ない。そこで彼はチンプンカンプンな反応を示す。ニコデモのこの言葉もいわば冗談で、まさかそういうことを述べていないということぐらいは分かっている筈だ。それでイエスは「人間が新しく生まれる」という言葉を「霊によって生まれる」と言い換える。イエスもこれで分かるかと期待したが、どうも分かっていない様子である。これではかえって問題がややこしくなるが、イエスの側にはそれが必要な言い換えであったと思われる。それは次のイエスの言葉で明らかになる。「肉体から生まれたものはどこまでも肉体です。同じように、霊から生まれたものは霊なんです。人間は新しく生まれなければならないと言った私の言葉にそれほど驚くこともないでしょう。むしろ当たり前のことです」。
一体、ここでイエスはニコデモに対して何が言いたいのであろうか。問題は神殿という建物をどう理解するのかということである。ユダヤ人社会における神殿については前回既に論じたので、ここでは繰り返さないが、ここでイエスが問題にしているのは、神殿についての議論ではなく、それを見る人の視点の問題である。イエスとニコデモとでは同じ神殿を見ても、実は違うものを見ている。立場が違うのだから見方が異なるのは当然だと誰でも思う。いわばそれが社会常識である。
この問題は神殿だけの問題ではなく、現実にあるすべての事柄についての見方にも通じることである。立場が違えば見方が違う。ニコデモが神殿を見るとき、神殿の経営主体の一員として経営的視点から見ている。そこにはいろいろな課題があり、問題がある。そのことでニコデモは日夜、頭を痛めていたのかも知れない。それがニコデモの「視座」である。つまり神殿を神殿として素直に見ることが出来ない。それは世間でよくあるような「偏見」では決してない。いわば当然のこととされている。
つまり、「人間は新しく生まるのでなければ、神の国を見ることはできません」という答えはニコデモその人自身に向けられている。端的に言って、あなた自身が「新しく生まれ」なければ私が見ているものを見ることが出来ない。「新しく生まれる」ということが分からないなら、「霊から生まれる」と言い直せば分かるかい。これがここでニコデモに対してイエスが言いたいことである。

(c) 「霊」と「風」
ここでイエスが「霊から生まれる」と言い直したのには意味がある。「新しく生まれる」という言葉と、「霊から生まれる」という言葉とが同じ意味なのだということがポイントで、その上でイエスは「霊」について語りはじめる。
さて、ここで一寸面倒なことを説明する。聖書の時代のギリシャ語では「風(プニューマ)」という単語は「風」でもあるし「霊」でもある。つまりプニューマという一つの単語が風と霊との二つの意味を持ち、それらが区別されない。ほとんどの日本語訳は「吹く」という動詞に引っ張られて「風」と解して「風はごく自然にどこにでも吹いています。あなたも私も風の吹く音を聞いています」と訳している。この訳だけを読んだらごく当たり前のことを言っていると思う。ところが、この「風」という訳語を「霊」に差し替えたらどうなるか。わけが分からなくなるであろう。ところがそれに続く文章を見ると「風から生まれた者とはそういうものなんです」とすると今度はそれが何のことか分からなくなる。だからどちらかに決めることができない。それで両方を別々に訳すと文章としてはすんなりするが、今度はその意味がわからなくなる。要するに聖書における「霊」を日本語で考えることは難しいのである。まぁ、そういう面倒なことは一応頭の片隅に片づけておいて先にすすむ。
それでは一体、「霊から生まれた者とはそういうものなんです」という言葉をどう理解するか。ここでは単純に考えて、「霊によって生まれる者」とは、「霊がどこから来て、どこへ行くか」を知らない者だと言う。ここでの「知らない」とは何を知らないというのか。この「知らない」ということを「風」について考えると分かりやすい。普通は「風がどこから来て、どこへ行くか」ということを知っている人だけが「風が吹いている」ということが分かるわけではなく、そんなこと知らなくても「風が吹いている」ということは風が吹いている中に立ち、そこで風の音を聞きさえすれば分かる。そのためには何の知識も必要ない。それと同じことが「霊」についても言える。要するに霊を知るために霊についての情報をいくら重ねても何にも役に立たず、「霊」を知るためには霊を経験するしかない。

(d) 「視座」の問題
実は、このことはすべての事柄についても言えることである。私たちはすべての物事についても、あるいはすべての人間についても、そのことについてのいろいろな情報を集め、知識を貯め込むことによっては、その事柄あるいは人物が分かることに至らない。エルサレムの神殿についても、神殿の建設の年月日や、建築家の名前や、財政状態を知っていることが神殿のことが分かることにならない。むしろ、そのような情報が神殿というものを知ることを妨げている。神殿とは神殿の入口から入って、そこで祈ることによってそれが何かということが分かる。上(b)で、神殿についてのイエスとニコデモとの立場が違うということを述べた。ニコデモは「ファリサイ派の指導者でユダヤ人議会の議員」としての立場から神殿を見ている。その意味では神殿についてはイエスよりはるかに多くの知識を持っている。それがニコデモの「視座」である。その点、イエスはその視座がない。いわば「無視座」である。だから神殿は肌で感じる「風」のようなものである。いわば神殿に対して、今、生まれた幼子のように見ることが出来る。神殿は文字通り「神の殿(家)」である。ところがニコデモが神殿を見るとき、この門にはいくら金がかかったとか、この神殿の年間収入は幾らだとか、ここを訪れる参拝者は年間で何万人だとか、ここで消費される犠牲の動物はどれ程の量か等々、いろいろなことがあって、もっとも肝心の「神の殿」だということが見えなくなっている。こういうのを「立場的視座」とか「観念的視座」という。それに対してイエスはすべての観念を排除してモノをありのままに感じ、見る。それが「新しく生まれる」ということであり、「霊から生まれる」ということでもある。
同じことがイエスに対するニコデモの視座についても言える。ニコデモはイエスに会って率直に「私どもは、あなたのすばらしさについては十分に存じております。神の助けがなければあれだけの奇跡を行うことはできないでしょう」と述べている。しかしここに既に一つの問題が隠れている。それは「私どもは」という言葉に示されている。ニコデモはこのような「世間の評価」に従ってイエスを見ている。その評価が好評か悪評かに関係はない。今、目の前にいるイエスをありのままに見ているのではなく「世間の評価」というフィルター(色眼鏡)を通して見ている。あるいはニコデモ自身の頭の中で描いているイメージとしてのイエスと相対しているのかも知れない。これはニコデモだけの話ではなく、ほとんどすべて人は、ほとんどすべてのことをこのようにして見ている。

(e) 私とは何か
さて、この「観念的視座」の究極的対象は「私」である。わたしは「私」のことを知っているのか。人間はこの世の生を受け、自分では何も知らないうちに成長し、その成長の過程で両親からの言葉や学校での評価、友人たちからのさまざまな関わりの中で、つまり社会の中で「自分はこういう人間だ」と思わされている。八木誠一はそれを「文化的自己」という(八木誠一『新約思想の成立』新教出版社、142頁以下)。つまり生まれたままの人間は自己を観念的にしか見ることが出来ない。それが上で述べた「観念的視座」である。言い換えると「自分自身の実体」を見ていない。それで「自分探し」などという言葉が流行る。つまり人間は改めて「自分」を意識的に見直さなければ「自分」が見えてこない。自分が見えていない人間が、いくら「神の国」のことを論じてもそれはただ言葉の上を上滑りしているだけで、まして「神の国」を見るととか「神の国に入る」ということは出来ないのは当然である。このことについてヨハネと同じことを言っているのがマタイで「心をいれてかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(Mt.18:3)という。つまり、幼な子のように単純素朴にありのままを見るということである。八木誠一は、これを「文化的自己」から「宗教的実存」への転換として論じている(同、154頁以下)。

(f) 「地上の話」
二人の対話がどうも噛み合わない。とうとうイエスの方も、どうしたら分かって貰えるのか考え込む。11節で突然語調が変わる。それまでは「わたしとニコデモ」との対話であったものが、「わたしたち」と「あなたがた」との対話に変化する。おそらく11節の言葉はイエスの言葉ではなく、後から挿入された教会的編集者の言葉であるらしい。それで私は省いている。そして12節の「私」は明らかにイエス自身を指すので、ここでイエスの言葉に戻る。
イエスはあくまでも「地上での話」をしている。「新しく生まれる」ということも「霊から生まれる」ということも「地上での話」、つまり現実において経験できる話である。ところがニコデモは「天上のこと」つまり何か深遠な宗教的な話がしたいと思っているらしい。イエスは言う。現実的な話が理解出来ない人に天上のことを話しても通じるはずがない。この言葉はなかなか厳しい。「新しく生まれるとはどういうことか」「神の働きとは何か」というような深遠な宗教談義をしている限り、その問題は頭の中だけのことで、人々は安全なのである。その話は直接自分に向かってこない。それに対して現実の話とは、それを信じるか、信じないかという私の決断を迫ってくる。ここでのイエスの話はニコデモの決断を迫る。イエスとニコデモとの対話はここまでである。
ここで「地上での話」として、洗礼式のことに一寸だけ触れておきたい。イエスは「新しく生まれる」ということの言い換えとして「霊から生まれる」と話した。この「霊から生まれる」という言葉がイエスにまで遡れるかどうか、私は多分に疑問だと思っている。むしろこれは原著者による「新しく生まれる」ということについての解説だと思う。要するに、「新しく生まれる」ということは「洗礼を受ける」ということなんだと言いたかったのであろう。それを受けて、更に後代の教会的編集者は「水と」という言葉を補った。キリスト教の伝統では「新しく生まれる」ことのサクラメントとして水による洗礼式を位置付けている。
日本聖公会の文語の祈祷書では、洗礼の勧告の中で、洗礼の意味を述べている部分で、「その生まれつかぬものを与え」という言葉がある。この言葉が今度の改正祈祷書では省かれている。非常に残念に思う。(英語でも同様。 He will grant to this Child that thing which by nature he cannot have;)人間は本性として、あるいは生まれながらのままでは決して持っていない、しかし非常に重要なもの、それが洗礼によって与えられるという主張である。つまりキリスト教ではこれが「新しく生まれる」ということ、キリスト教用語では「新生」という。ただ、この伝統は幼児洗礼の慣行によってかなり意味が薄められているのは事実であるが、そのこと自体についての議論はここでは省略する。

原本ヨハネ福音書研究巻2(中)に続く

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