ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/02/19~02/25

2017-02-26 09:10:51 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/02/19~02/25

2017 日々の聖句 2月19日(日)
主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。(申命記30:9)

テモテへのパウロの手紙:あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。(1テモテ1:5)

私の黙想:
イスラエル史において「あなたの先祖たちの繁栄」とは何時のことだろうか。この問いは、申命記そのものの執筆年代とも関係するが、これに答えることは難しい。だから問わない。
日本人にとっての過去の繁栄とは何時のことか。これも答えにくい。江戸時代とするか、明治時代とするか。それは「繁栄」とは何かと関係している。今の時代から見ると過去に繁栄したことなど一度もない、とも言える。
直近のことと考えるとバブル期か。70年代初めの大阪万博は戦後日本の繁栄を象徴するお祭りであった。確かにあの時代、繁栄していたと言えるだろうが、その繁栄はまさに「泡(バブル)」であった。その繁栄の裏では精神の貧弱さ(空虚)が充満していた。それが学生運動を引き起こし、教会闘争を巻き起こした。私たちは「あの繁栄」を願わない。では私たちが神に願う繁栄とは何か。今日の聖句は考えさせる。

2017 日々の聖句 2月20日(月)
神の言葉:わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。(創世記9:13)

揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。(コロサイ1:23)

私の黙想:
確かに虹という現象は、神の約束を感じさせる。地べた場からみていては見えないし、自分のことばかり考えていると、目の前の「虹」がただ単なる自然現象に過ぎなくなる。それはあまりにも寂しいことだ。
虹は明るい空では見えない。暗雲立ちこめる中で虹を発見する。いつでも見える訳ではないし、見えてもすぐに消えてしまう。それでいいのだ。今日の聖句の冒頭の言葉「神の言葉」、これはローズンゲンの編集者が出典を明らかにするために付けた言葉であるが、私には「神のセリフ」と空目する。これが神のセリフなのだ。言葉といってしまうと何か固定してしまう。神のセリフは固定できない。しかし、確かみ聞いた。しかも、この神のセリフ、実は神の反省の言葉なのである。神が反省しておられる。キリスト教神学においてもっと「反省」ということを考える必要がある。懺悔や、悔い改めではなく「反省」。神も反省する。大げさに言うと「反省の神学」
のようなものを考えたい。人間も反省できるのだ。

2017 日々の聖句 2月21日(火)
目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方を(の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。)(イザヤ40:26)

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、(王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、)万物は御子によって、御子のために造られました。(コロサイ1:16)

私の黙想:
旧約の聖句も、新約の聖句も、何という仰々しさ。注目点、「それらを数えて、引き出された方」、天地万物を創造された方が、それら全てを整列させて、それらの名前を見て歩き、満足している様子である。これこそが正に、軍隊における「閲兵」である。だから、口語訳ではここで「万軍」、フランシスコ会訳では「軍勢」という言葉を用いている。ローズンゲンは省略しているが、その後ろの言葉が生きてくる。「その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」。まさに全軍の強さ、規律の良さを眺めて満足する。時には、外国の首相を招いて見せつける。我が国に逆らったら酷い目に遭うぞ。これが「閲兵」である。たぶん訳語としては「(天の)万象」(新共同訳、新改訳、岩波訳)の方が正確なのであろうが、それでは神の「御稜威」は表現されない。ここやはり「天の万軍」であろう。ところで、余談になるがこの「万軍」という言葉、昔は「ばんぐん」と読んでいたはずなのに、「banngun」と入力しても転換されない。仕方なしに「manngun」と入力しているが、困ったものだ。軍隊用語まで変えさせられたのか。

2017 日々の聖句 2月22日(水)
見よ、わたしは(再び)驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。(イザヤ29:14)

天使はヨハネについていった。「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:16~17)

私の黙想:
神は「再び」民を驚かせる。その結果、「賢者」と呼ばれている連中のいわゆる「知恵」はバカみたいになり、「聡明な者」といわれている連中が威張っている「聡明さ」はなくなってしまう。一体頃は何を意味しているのであろうか。ここでは「賢者」とか「聡明な者」という言葉に惑わされてはならない。要するに民衆をバカにしている連中である。現在でいえば、政治家とかいわゆる評論家(=マスコミ)連中のことを指すのであろう。15節に彼らがやっていることが暴露されている。「災いだ、主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。『誰が我らを見るものか誰が我らに気づくものか』と」。要するに、彼らは重大なことを民衆から隠蔽している。彼ら自身の私的利益のために。彼ら自身の身の安全のために。そのために、民衆がおかれてい状況が8節から13節に事細かく書かれている。彼らは騙されているのだ。飢えているのに満腹だと思い、ワインを飲んで歌って楽しそうにやっている「夢、幻」を見せられているだけである。彼らは一応、レポートを書き、提出するが、それは「読めたもの」じゃない。正に「海苔巻き状態のレポート」に過ぎない。中でも、最も悲劇的なことは、13節だ「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ」。何という悲劇だ。宗教まで彼らの陰謀に荷担している。
以上のことは、現在の日本の状況を語っているのではない。イザヤ29章を解説しているだけである。何という一致だろうか。恐ろしくなってしまう。

2017 日々の聖句 2月23日(木)
神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。(詩51:12)

譬え話の中で、息子は言った。「ここをたち、父のところに行こう」。(ルカ15:18)

私の黙想:
詩51はあまりにも有名だから、細かい説明は避ける。今日の聖句は口語訳とかなり異なる。口語訳では「あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください」。この違いの理由を説明する能力は私にはない。フランシスコ会訳では後半がこうなっている。「わたしの霊を強めて、新たなものにしてください」。新改訳では「喜んで仕える霊が、私を支えますように」。文語訳はほぼ口語訳と同じ。岩波訳は「確かな霊をわがうちに新たにして下さい」。要するに、私の人格改造、私の内面をすっかり入れ替えるほどの手術をして、健康にして下さい、という手術台の上の患者みたいなものである。
罪の赦しとは、そういうことだと詩編の作者は言う。そういえば、前半の「創造し」はバーラーで主語は常に神である。ここで「創造」という言葉を使っているのは、新共同訳と岩波訳だけである。

2017 日々の聖句 2月24日(金)
主は愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。(イザヤ63:9)

あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。(1ペトロ:25)

私の黙想:
「贖い」という言葉を字句通りに「買い上げ」と読むとこの句の真意が明らかになる。ここでの「彼ら」とはイスラエルの先祖を意味している。つまり、「自分の出自」である。「買い上げ」であるがから、奴隷市場から、戦争等での勝利品であろう。現代でイメージしたら、ペットショップの売れ残り。その姿があまりにも惨めで会話移送なので「買い上げた」。それから、ずっと可愛がり、養って下さっている。これがイスラエルの民がヤハウェに対する基本的な自意識である。ユダヤ教とはそういう関係で生まれた宗教である。それを「そうじゃない。私たちは、初めから神の実子なんだ」と語ったのがイエスである。「買い上げられた」のじゃない。その意味では「贖い信仰」を否定媒介的に止揚したところにキリスト教信仰が生まれた。

2017 日々の聖句 2月25日(土)
わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。(地にはあなたのほかに慕うものはない。)(詩73:25)

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛している。(1ペトロ1:8)

私の黙想:
何と寂しい人生だろう。格好良く言えば「孤高の人」かもしれないが、要するに「孤独な人」である。「(神)の他に」ということをこの人は誇りにしているのかもしれないが、私には「寂しい人」にしか見えない。何も仲良しの友だちの必要はない。喧嘩相手でも良い何らかの形で自分の人生に関わりを持つ人がいることは、想像以上に重要なことだろう。もちろん、それが親子や夫婦関係を軸とするいろいろな人間関係があるに違いない。仕事の関係だって重要だし、何と言っても「教会」を軸にした人間関係は、一見バカらしく思うときもあるが、やはり、これがなければ寂しいものだ。日本語ローズンゲンでは後半の部分を省略しているが、その意味では、重要な言葉だ。「慕うもの」なんて、追っかけ見たいなことは望まないが、いろいろ楽しい人たちが沢山いるのは幸せなことだ。

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