ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/08/28~09/03

2016-09-04 08:22:26 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/08/28~09/03

016 日々の聖句 08月28日(日)
(わたしの神、大岩、避けどころ)、あなたはわたしの盾、(救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ)私の救い主、(わたしに勝利を与え)不法から救ってくださる方。(サムエル下22:3)

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2コリント4:8~9)

私の黙想:
今日の聖句は、聖書テキストにかなり手を入れている。その理由がわからない。なぜ、こんなことをするのだろうか。聖書の言葉を自由に改変してもいいですよ、と薦めているようだ。御言葉の重さがだんだん軽くなる。私がイミタチオ・クリスチに「手を入れて」現代風にしているのとは意味が違う。
一つだけ、「不法から救ってくださる」という言葉は口語訳では、「暴虐から救われる」と訳されている。フランシスコ会訳でも、新改訳でも「暴虐」、文語訳では「暴き事」という言葉が使われておいる。確かに「暴虐」は不法であることに間違いないが、必ずしも同じではない。ヘイトスピーチは不法であり、言葉の暴力であることには違いないが、ただ、怪しいというだけでピストルを発射し、殺すのとは違う。サウル王はダビデ憎しということで、軍隊を動かし、ダビデを追いかけ回し、殺そうとした。これが暴虐である。アメリカが「戦争終結のため」という合法によって、ヒロシマ・ナガサキに原爆を落とす。これが「暴虐」である。相手国が核兵器を発射するかも知れないということで、核兵器の「先制使用」するというのが、「暴虐」である。権力者が権力を乱用して「合法的に」殺人を犯す。これが暴虐である。その時代が、足音を立てて近づいている。

016 日々の聖句 08月28日(日)(その2)
あなたはわたしの盾、避けどころ、私の救い主、不法から救ってくださる方。(サムエル下22:3)

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2コリント4:8~9)

私の黙想:
さて、どうしましょう。先週の日曜日、ローズンゲンの頁をめくり間違って、今日の聖句については書いてしまったし、そのまま、今日の分として置こうかとも思いましたが、やはり、今日は今日で、新しく黙想します。今日のテキストはローズンゲンのママにしておく。今日は「あなたはわたしの避けどころ」ということについて。この「避けどころ」は興味深い。要するに、避難所。避難所とは敵に立ち向かう橋頭堡ではない。激しい敵の攻撃を避けている場所、いわば逃げ場所。聖書で最初に出てくる「避難所」はどこか。それが面白い。創世記3章、例のアダムとエヴァとが禁断の実を食べてしまって、自分たちが裸であることに気付く。そこまではいい。ちょうどその時、主なる神が園の中を歩く足音が聞こえてくる。その時、彼らは「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れる」(創世記3:8)。聖書に出てくる最初の「避けどころは」神に対する「隠れ場」であった。人間にとって最も恐ろしい相手は「主なる神」であった。その時、神は「どこにいるのか」と声をかけられる。神のこの言葉は面白い。神に見えなかった筈はない。なのに、神は「どこにいるのか」と声をかけて、自分たちから自主的に「隠れ場」から出てきた。
教会は、この世の嵐からの「避難所」であるが、同時に「神からの避難所でもある」。前に勤めていた教会には会衆席にかなり太い柱が数本立っており、その影に座るとチャンセル(聖卓が置かれている場所)やプルピット(説教壇)から見えない場所がある。礼拝に来ると必ずそこに座る信徒がいた。私はその人を見て、そこが彼女にとって二重の意味での「隠れ場」なのだと理解した。実は、私たちは神の目からも隠れたいのである。

016 日々の聖句 08月29日(月)
あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。(レビ19:15)

栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。(ヤコブ21:1)

私の黙想:
「力ある者におもねる」前に、「弱い者を偏ってかばう」ことが禁じられているのが注意を引く。裁判おいて権力者側が圧倒的に有利で、その判決が権力者に偏っているということは、すぐに分かる。それに比較して弱者への偏りは目立たない。むしろ弱者への「同情」から、部外者はその判決を認めやすい。日本では、それを「判官贔屓(ほうがんびいき)」という。弱者が強者に楯突くというその勇気が同情を生むのであろう。特に、セクハラ裁判ではその傾向がある。そこから冤罪が生まれる。

016 日々の聖句 08月30日(火)
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来た。人はすべてに名を付けた。(創世記2:19~20)

五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。(ルカ12:6)

私の黙想:
あまりにも有名な出来事なので、今日は一寸違った視点から考えてみる。今日の聖句の後に、「名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」という言葉が続く。つまりすべての「生き物」に名前を付けるという作業と、「お見合い」あるいは相棒捜しと平行しているということである。つまり、名付けの作業は相手と自分との距離感の確認ということであった。言い換えると、人間は全てのものを人間自身との関係、あるいは価値において把握する。自分にとって敵であるか、味方である、役立つのか、役に立たないのか。その上で、結局「自分に似たもの」を選んだと言うことである。人間は徹底的に自己本位である。言い換えると、神は人間を「自己本位の存在」という形に創造した。創造者は人間を創造者自身に「相対する存在」として認めた。そこから神と人間との「ドラマ」が始まる。

016 日々の聖句 08月31日(水)
幼子、乳飲み子の口によって、あなたは(刃向かう者に向かって)砦を築かれます。(詩8:3)

子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(マルコ10:14)

私の黙想:
戦争ともなれば、一番被害を受けるのは、幼子、乳飲み子、そしてその母たちである。その彼らを「砦」にしてはならない。むしろ、大人が「砦になって」これらの人びとを護らねばならない。その意味では、今日の聖句は素直には読めない。という訳で、口語訳を見る。「幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き報復する敵を絶ち滅ぼされます」とあり、「幼子、乳飲み子の口によって」で一旦文章を切り、それとは別のこととして、次の文章が続く。むしろこの前半の言葉は前節に続くと思われる。フランシスコ会訳では「あなたは幼子や乳飲み子の口を、逆らう者のを退ける砦とされました。敵と仇する者とを黙らせるために」。新共同訳に似ているが微妙に違う。ここでは幼子、乳飲み子の「泣き声」が主を動かし、敵を黙らせるというニュアンスである。幼子や乳飲み子を泣かせてはいけないという、敵にも味方にも共通の思いがある。新改訳もほぼフランシスコ会訳と同じ路線である。岩波訳ではその点が殊更に強調されているように思う。「幼子らと乳飲み子らの口のゆえに、とりでをあなたは固めた」、ここでの「ゆえに」が効いている。
翻訳というものは難しいものだ。原文の意味を正確に受け止め、それを正確な日本語表現にする、字句に囚われつつ、字句を超えるものでなければならない。

016 日々の聖句 09月01日(木)
主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民主に養われる羊の群れ。(詩100:3)

あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。(1ペトロ2:10)

私の黙想:
「主はわたしたちを造られた」。これが全ての始まりであり、人間を考える場合の「原点」である。造られたものは、造られた後からしか存在しないから、その前のことは何も分からない。土から造られたのか、空気から造られたのか、猿を造り替えたのか。そんなことは何も分からない。ただ、私がここに存在しているということは主が造られたからである。男と女である両親が造ったわけでは絶対にない。私の両親は私を「与えられた」、というより「預けられた」。だから私は両親のものではない。ここに全ての親子関係の原点がある。そこが緩むと、親は子どもを自分の自由になるものと思ってしまう。

016 日々の聖句 09月02日(金)
貧しい同胞に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。(申命記15:10)

わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10:42)

私の黙想:
今日の聖句で「必ず」という言葉と「未練」という言葉とが光っている。「未練」と「優越感」は裏表である。貧しい同胞と食物を分け合うとき、それは当然のこととして、ごく自然に行われるべきである。もし、全ての同胞に等しく与えられていたら、お互いに何の関係もなく、日常生活がスムーズに進むであろう。それはまた、非常に寂しいことである。その意味で、多少の貧富の差は、共同体内部での人間関係を豊にするために必要なものなのかも知れない。(私は今日の社会における極度に発展した貨幣経済における貧富の格差を認めている訳ではない。これは明らかに人間の強欲の結果である。)
実は、今日の聖句に続く言葉が重要である。「このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる」。いろいろな事情により、収入に格差が出来て社会には不公平が生じる。古代イスラエルの人びとは、それを神による「配分」だと受け止めている。

016 日々の聖句 09月03日(土)
われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。(詩66:12、口語訳)

いつも目を覚まして祈りなさい。(ルカ21:36)

私の黙想:
先ず、なぜ口語訳なのか、ちなみに新共同訳は「我らは火の中、水の中を通ったがあなたは我らを導き出して豊かな所に置かれた」となっている。決定的な違いは、「豊かなところ」と「広い所」の違いである。「豊かなところ」であると価値観が濃厚であるが、「広い所」は客観的な叙述である。さて、どちらが正当なのか。新改訳は「豊かな所」、フランシスコ会訳は面白い、「わたたちの望んだ所」、岩波訳はもっと面白い、「元気にしてくださった」。ただし、親切に「70人訳等による」と注釈し、その上で、直訳は「爽快さへと(引き出した)。さらに原文では「溢れさせた」であるという。もうこうなると、私にとってはお手上げだ。門叶さんの説明を待つ。
「火の中」「水の中」と対比して考えると、いずれにせよ比喩的表現である。要するに苦難の中からの解放、それは「広い所」でもあるし「豊かな所」でもあるし、気分的には爽快感であろう。あの太平洋戦争の息苦しさから、8月15日に味わった、何とも言えない「爽快感」であろう。もっとも、北朝鮮で8月15日を迎えた私たちにとっては、その日か荒「狭い所」に閉じ込められ、苦難の生活が始まった。

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