ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 07/07 江馬修『血の9月』

2015-07-09 08:49:15 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。整形外科。聖研の原稿完成。『新約思想の成立』続読。宗教的実存の概要。昼寝。夕方、釣川堤防散策。途中で雨に振られ、傘なしでかなり早足で歩いた。夜、萩本欽一の「ぶっちゃけ」、松本清張作「影の地帯」を見て11時に就寝。5時半起床。体調・快調、チュン、チュン。

川染 三郎さん、芳賀 道子さん、松井 理直さん、他19人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 おはようございます~♪ 先生ご夫妻の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

藤木 冨士子 おはようございます。マイブーム、楽しませていただいてます。
posted at 05:43:21


文屋 善明
7月7日 6:28 ·
今日の名言:@dannshi_bot
夫婦はエゴイズムのバランスが取れてれば最良。(立川談志の名言)
<一言>このバランスは決して均衡がとれているという意味ではなく、上がったり下がったりのシーソーのようなものですよ。我儘言ったり、妥協したり、喧嘩したり、笑ったり。

Luke Etsuzou Nomahさん、播 稔さん、糸原 由美子さん、他26人が「いいね!」と言っています。

田中 弥詠子 シーソーの様に、やじろべぃの様に、私達夫婦も、人間ですもの自然体で寛げる関係性を深めたいデス。

藤本 洋二 · 共通の友達: 入口 紀男さん、他1人
嫁側のシーソーが地面に着いたまま、降りられません!( ̄▽ ̄;)
posted at 06:27:54

「昨日のツイート 07/05 平穏な日曜日」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/816437ad584acfe43b4c91600c30d8f…
posted at 06:41:18


文屋 善明
7月7日 7:59 ·
NHKこころ旅。岩手県、男山(北上郡)の頂上から北上川と和賀川との分岐点が見える。素晴らしい景色。今日の心の風景は、手紙の主の実家、西和賀川町野々宿、国道107号線。ほっとゆだ駅まで輪行。駅の中に日帰り温泉がある。「ほっとゆ」だ。

Hanna Bunyaさん、松井 理直さん、岡 輝美さん、他10人が「いいね!」と言っています。
posted at 07:58:58


文屋 善明
7月7日 6:20 ·
お目覚めの花。「今日は七夕ですね」「そうですね」「雨が降っていますね」「雨の日のデートになりますね」「それもムードがあっていいんじゃないですか」「マリア様の足元でつまらないおしゃべりをしないで下さい」。
文屋 善明さんの写真

森分 望さん、Luke Etsuzou Nomahさん、川染 三郎さん、他43人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 目の覚める美しさです~!(^^)!

清水 行雄 先生、おはようございます。素晴らしいです(^_^)

藤木 冨士子 口紅さしたお嬢さんみたい。

田中 弥詠子 おはようございます 仲好し美人三姉妹ですね。ウットリの朝の目覚めを、頂きましてありがとうございます。優しい色味の レッドです。縁がホワイトのベールにふんわり抱かれまして、何か好い事ありそうな今朝の覚醒に感謝致します。


文屋 善明
7月7日 6:11 ·
2015日々の聖句 07月07日(火)
夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、「わたしの名をとどめる」と仰せになった所です。(列王上8:29)
キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。(ヘブル3:6)
私の黙想:
エルサレムに神殿が竣工し、民族統一のシンボル「主の箱(契約の箱)」を搬入した時に捧げたソロモンの祈りである。ここでは神(ヤハウエ)は神殿の外から、神殿に目を注ぎ、王が神殿で「天の神に祈る」という構造になっている。この構造が、神殿の中に神が存在するということに変わる時、神殿信仰の腐敗が始まる。実はその腐敗の始まりはすでにここに萌芽がある。今日の聖句に続く次の言葉にその危険性が潜んでいる。「この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください」。「このところに向かって」祈る。神殿に向かって、メッカに向かって、祈るという感覚は危険である。
神殿は「すべての国の人の祈りの家」(マルコ11:17)であるべきだというのがイエスの主張である。イエスはどこにいても上を見上げて「父よ」と祈られた。神殿に向かって祈る姿は福音書にはない。

小栗 龍男さん、Luke Etsuzou Nomahさん、播 稔さん、他29人が「いいね!」と言っています。
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藤木 冨士子 すごい感動しました。シェアします。

清水 行雄 おはようございます。第1コリントで、パウロは、私たち自身が、神の宮であると言っていますね。イエスもパウロも、建物の神殿を問題にしていないようですね。

播 稔 そして、第二神殿は破壊された。残された塀は市民のお金で造られた壁だそうです。


文屋 善明
7月7日 6:50 ·
自民党って感じ悪いよね、だって不支持率が支持率より上回っても居座っているんだもの。

石松 周さん、篠崎 悟さん、糸原 由美子さん、他15人が「いいね!」と言っています。

藤本 洋二 · 共通の友達: 入口 紀男さん、他1人
幹事の感じも感じ悪くなりましたね!(谷垣さんってもっと穏健リベラル的かと思っていました)


文屋 善明
7月7日 8:03 ·
英語がまともに出来ない人間が、英語の翻訳で誤魔化そうとしても、世界はそうはいかない。

「forced to work」は「誰が見ても『強制労働』」 世界遺産で外交敗北、安倍首相ツイッターは「炎上」状態(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース
HEADLINES.YAHOO.CO.JP

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150706-00000006-jct-soci

Hanna Bunyaさん、森田 美芽さん、播 稔さん、他62人が「いいね!」と言っています。

源田 道雄 · 共通の友達: 嶋津 雅彦さん
日本外交の負けです 外務官僚は甘すぎますね しかし 世界遺産は政治色抜きが暗黙のルールなので 国内向けに政治色を入れたことで嫌韓ムードが再燃するような気がします

徳善 義和 歴史をありのままに書く、だから歴史上の世界遺産なんでしょう。どうしてそのように書けないのだろう

石井 昭 何で安倍政権は、こんなところを世界遺産に推進したがるのか???世界遺産とは世界の万人が見ても人類の生きた証として長く称えたいという思いで推賞されるものではないのか。日本が第二次大戦に備えて国力の増強を図り、韓国のみならず他国の人々をも強制労働に走らせた歴史遺跡を何としても世界遺産にしたいというのは阿部政権の思い上がりそのものではないか。日本人としては寧ろ恥ずかしい。嬉しがるのは安倍政権のやからと、それに踊らされた人々だけ。

文屋 善明 重要なことは、外務省と政権が誤魔化そうとした相手は、日本国民だということです。


文屋 善明さんが大友 洋樹さんの投稿をシェアしました。
7月7日 12:29 ·

大友 洋樹さんが新しい写真2枚を追加しました
《将来は語れない時代だ。毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。
芸術が何んだ哲学が何んだ。今は考へる事すら許されない時代だ。
画家だらうと哲学者だらうと文学者だらうと労働者だらうと、
土色一色に塗られて死場へ送られる時代だ。》
水木しげる「人を土塊にする時代だ」 出征直前の手記で語った戦争への思い
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 7月7日

漫画家の
水木しげるさん(93歳)が
太平洋戦争へ出征する直前に
記していた手記がみつかり
話題となっている。

手記には、
押し寄せる死の恐怖に
自己の未来を憂いながらも、
自分はこうありたいと
願う20歳の若者の葛藤が
みずみずしい筆致で
描かれていた。

手記は
2015年5月末、
水木さんの
長女・原口尚子さん
(52歳)が古い書簡の
整理をしていたときに
発見した。

原稿用紙38枚に
書き連ねられた内容から、
水木さんがラバウルへ
出征する昭和18年の前年、
昭和17年10月から11月に
かけて執筆されたと
推測される。
当時水木さんは
満20歳で徴兵検査を受け、
合格通知が届いており、
近いうちに召集され
入隊することを予想していた。
翌春には鳥取連隊に入営し、
やがて南方戦線へと
送られることになる。

「ゲゲゲの鬼太郎」
などの妖怪や怪奇もので
有名な水木さんだが、
当時の戦争体験を基にした
戦記ドキュメンタリーも
長年描き続けていた。
NHKの朝ドラにもなった
妻・布枝さんの著書
『ゲゲゲの女房』などで
描かれるひょうひょうとした
人柄の水木さんが
戦争のさなか、
どのような苦悩を
抱えていたのかが
赤裸々に語られた
手記となっている。

今回その手記が
7月7日発売の文芸雑誌
「新潮」8月号(新潮社刊)に
全文掲載されることとなった。

■人を一塊の土くれにする時代
 手記の冒頭はこう始まる。

《静かな夜、書取のペンの音が響く。
その背後には静かな夜のやうに
死が横はつてゐる。この心細さよ。》

20歳の水木青年は、太平洋戦争の
只中でその時代をこう記す。

《将来は語れない時代だ。
毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。
芸術が何んだ哲学が何んだ。
今は考へる事すらゆるされない時代だ。
画家だらうと哲学者だらうと
文学者だらうと労働者だらうと、
土色一色にぬられて死場へ送られる時代だ。》

《人を一塊の土くれにする時代だ。》

《こんな所で自己にとどまるのは死よりつらい。
だから、一切を捨てて時代になつてしまふ事だ。》

出征すれば死ぬ、
と考えていた水木さん。
水木さんが1959年に
発表した戦記ドキュメンタリーの
短編「ダンピール海峡」には
南方への出征を迎えた
弟を見送る姉が登場する。
とても無事では帰れないと
気付いていた弟と、今度会うときは
白木の箱に入って帰るのだろうと
弟の乗った船を見送り涙する姉。
皆わかっていたのだ、出征すれば
生きて帰れないということを。
現実に水木さんの所属した
部隊は多くの仲間が戦死し、
水木さん自身左腕を失った。

■煩悶を繰り返す

残酷な現実を前に水木青年は煩悶を繰り返す。

《一切の自分ていふものを捨てるのだ。》

しかしその後に自分の言葉を否定する。

《吾は死に面するとも、
理想を持ちつづけん。
吾は如何なる事態となるとも
吾であらん事を欲する。》

芸術を志しながらも
救いを仏教や基督教に求め、
また哲学が芸術を支える
杖となるのかと悩む。

《吾を救ふものは道徳か、
哲学か、芸術か、基督教か、
仏教か、而してまよふた。
道徳は死に対して強くなるまでは
日月がかかり、哲学は広すぎる。
芸術は死に無関心である。》

《俺は画家になる。
美を基礎づけるために哲学をする。
単に絵だけを書くのでは
不安でたまらん。》

かと思えば

《前に哲学者になるやうな
絵描きになるやうな事を書いたが、
あれは自分で自分をあざむくつもりに違ひない。
哲学者は世界を虚空だと言ふ。
画家は、深遠で手ごたへがあると言ふ。
(中略)之ぢや自分が二つに
さけねば解決はつくまい。》

当時の水木さんは
哲学書や宗教書を
読みあさっていたようだ。
漱石やゲーテ、ニーチェの
言葉を引用しながら、
自身の揺れる心境を綴っている。
絵に対する情熱や才能を確信しながらも、
荒波のような時代のなかで
何を信じてゆけばよいのか
苦悩する姿が、現実味をもって感じられる。
手記を読んだ誰もが自分の
青年時代を思い起こさずには
いられないだろう。

■己の道を造るのだ

《時は権力の時代だ。(中略)
こんな時代に自己なんて
言ふ小さいものは問題にならぬ。
希望だ理想だ、そんなものは旧時代のものだ。
(中略)時代に順ずるものが幸福だ。
現実をみよ。個人の理想何んて言ふものは、
いれられるものではない。恐ろしい時代だ、
四方八方に死が活躍する。
こんな時代には個人に死んでしまふ事だ。》

後に水木さんの所属した
部隊はニューブリテン島
聖ジョージ岬で圧倒的な
米軍の戦力を前にし、
玉砕を命じられる。
その悲劇を描いた
『総員玉砕せよ!』で
戦争のなかで個人が
虫けらのように扱われ、
日本軍の美学や信条を
支えるための無謀な突撃により、
犬死にを果たす
一般兵の姿が描かれる。

そんな状況のなかでも
水木さんを勇気づけ、
生へと導いたのは絵画への
情熱だったのかもしれない。

《私の心の底には
絵が救つてくれるかもしれないと
言ふ心が常にある。私には本当の絶望と
言ふものはない。》

《唯心細さと不安の中に呼吸をする。
なにくそなにくそどんなに心細ても、
どんなに不安でも己の道を進むぞ。
四囲の囲ひを破るのだ。馬鹿、馬鹿たれ、
馬鹿野郎。(中略)黙れ、黙れ、
吾が道を進むのぢや。己の道を造るのだ。》

《生は苦だと言ふ事。
明白に知る事が必要だ。
生ある限りは戦である。休息は死だ。
本当に死程幸なものはないだらう。
(中略)生とは活動である。
死とは休止である。
生ある限り戦ふ事だ。》

この力強い言葉の数々。
生きて戦う努力を放棄せず、
生ある限り己の信じた道を進むのだという、
水木青年の決意が伝わってくる。

今回手記を掲載した
「新潮」の矢野優編集長は
手記の意義や価値についてこう語る。

「一読して、
震えるような
感銘を覚えました。
後の国民的漫画家が、
戦争の残酷さと迫り来る
死にいかに苦悩し、
どのような思いで
戦地に向かったのか。
この血のにじむような
言葉は一級の歴史的資料で
あるのみならず、
戦争をめぐる『表現』として、
高い文学的価値があると確信します。
現代のすべての日本人、
とりわけ若い方々に
読んでいただきたいと
願います。」

戦時下の日本で一人の
若き芸術家が何を感じていたのか、
その生々しい言葉は戦後70年を
迎える日本においてもまったく色を失わず、
切実な魂の叫びとして
私たちの心を揺さぶる。

播 稔さん、Hanna Bunyaさん、望月 克仁さん、他29人が「いいね!」と言っています。


文屋 善明
7月7日 15:26 ·
この件は、私を含めてほとんどの日本人が知らないことです。よくも、この事件を明らかにしてくださいました。
鄭玹汀さんの写真
鄭玹汀さんの写真
鄭玹汀さんが新しい写真2枚を追加しました
 江馬修(1889~1975)の小説「血の九月」(1930)は、1923年の関東大震災時に起きた朝鮮人虐殺、亀戸事件(関東大震災の混乱のさなか、亀戸の労働組合員らが軍隊によって不法検束され、殺害された事件)の問題を正面から扱った作品です。
 「血の九月」は、軍隊による虐殺のあった日に亀戸署にいた全虎岩氏の証言を交えながら形象化した作品ですが、文学と歴史や政治との関係を考える上でも様々な示唆を与えてくれるでしょう。
 後半はやや観念的な表現が目立ちますが、虐殺の根本的原因を追究する著者の筆致は迫力があり、なお解明すべき問題点が示されており、虐殺の真相を知るための重要な糸口を与えてくれます。
 韓国併合と同じ年の1910年に起きた大逆事件を経て、関東大震災時の朝鮮人虐殺、亀戸事件以降、社会運動は窒息状態に陥りますが、これまで日本近代文学研究で見落とされてきた作品から学ぶべきものは、けっして小さなものではないと思われます。
 入手がなかなか難しい作品ですので、一部抜粋してご紹介します。

*全虎岩氏の証言については、2014年9月7日の投稿をご参照ください。

―――――――

血の九月(1930年、江馬修作)

(前略)

仕方なしに、彼はまた群像の流れといっしょに運ばれていった。(213)

「万歳!」
「兵隊さん、おれたちの仇を打ってくれ」
「鮮人どもをみんなやっつけてくれ!」
じつはこの時分、朝鮮人にかんするあの恐ろしい流言が空から一面にふりそそぐ火の粉のように、人々の中へふり注いで、ものすごい勢いで燃えひろがりつつあったのだ。朝鮮人がいたるところで放火している。個人でかくれてやっているのもあるが、隊を組んで公然と火を放って歩いているものもある。消しても、消しても東京の火の燃えひろがるのはそのためだ。朝鮮人をみたら、片っぱしから殺してしまえ!それから、社会主義者どもがこのどさくさに紛れて、朝鮮人といっしょになって暴動を起こそうとしている。社会主義者も見つけしだい容赦するな。破壊と猛火の中を命からがら逃げまとい、すっかり動乱し、逆上しきっている市民たちの耳に、この流言は毒液のように注ぎこまれ、彼らは爆弾や刀はもちろん、手あたりしだいの武器をとって、もっぱら朝鮮人の狩りたてに熱中しはじめていた。
 ちょうど江戸川の近くまで来た頃、列の前方から異様な、興奮した叫びが伝わってきた。
「不逞鮮人をつかまえたんだ」
「兵隊が鮮人どもをやっつけるぞ」
それまで重い足を引きずって、のろのろ歩いていた群衆が、わっと声を立てて駆け出した。福田も周囲につりこまれていっしょに走った、背中の文子がおびえきって、急に激しく泣き出したので、中途でとまろうとしたが、強力な流れに巻きこまれたようなもので、もう彼の自由にならなかった。(216)

 やがて群衆は動かなくなった。彼らは道ばたの畑にむかってかたまって、立っていた。ニ、三間離れて、夕ちかい日ざしをあびた数本の樫の本立があり、四、五匹の軍馬がそれにつながれて、静かに青草を食べていた。上着をぬいで、カーキー色のシャツになった兵隊が四、五人、いずれも殺気立ったすごい顔つきをして、何物かをにらんでいた。その何物かが、前に幾重にも見物人の頭が重なっているのでさっぱり見えなかった。福田はだんだん人ごみを押しわけて、人々の頭の間からどうやら奇妙な光景をちらっと見てとった。六、七人の人間が畑の上にかたまって倒れているが、みなうしろ手にくくられたうえ、さらに荒縄でじゅずつなぎにされている。着物はまちまちで、色のさめた菜っぱ服のもの、縞のシャツと半ズボンのもの、よれよれのかすりの単衣をきたものなぞ。しかもどの衣類もずたずたに裂かれ、泥と血にまみれている。まさしく朝鮮人労働者だった。彼らはまだ生きていて、縛られたまま、うち倒されたまま、まっ青な顔をして、口ぐちにうめいたり、何事かを口走ったりしている。一番端の、二十二、三の若い男が、何でも逃げ出そうとするように、必死でからだを半分ばかりもたげた。
「野郎、じたばたするなっ」
口ひげのある赤ら顔の兵隊が恐ろしいけんまくでどなったと思うと、いきなり銃の台尻をふりかぶった、とたんに文子が両足を突っぱってわめき出した。
「兄ちゃん、行こうよ、行こうよ」
福田ははっとした。彼はあわててうしろへ向いて、みんな息をのんで声ひとつ立てないでいる人ごみの間を命がけでもがき分けて出た」(217頁)

「おや、吉公じゃねんか」
見ると、中山だった。(217頁)
…(中略)…
「中山はもと、福田と同じ工場で働いていた旋盤工で、いわば彼の兄分であった。……ぼつぼつ労働運動の話なぞしてきかせ、どうしたら労働者は資本家の搾取から最後的に自分を解放できるか、というような問題まで熱心に説明してきかせた」(218頁)
…(中略)…

群衆の一部が道ばたにかたまって、畑の方をながめていた。それはさっき福田が逃げ出した場所であった。兵隊の姿はもはや見えず、殺された朝鮮人労働者たちの血まみれの死体が、やはり両手をしばられ、じゅずつなぎにされたまま、踏み荒された畑の上に縦横に横たわっていた。避難者の群れの多くは顔をそむけてとおったが、中にはそれを見て憎さげにののしるものもあった。(219頁)
 中山はここへ来るまでに、朝鮮人の郎老女が道ばたに殺されているのを見たと話した。
「ほんとうかね、朝鮮人が放火して歩いているなんて」
と福田がそっと聞いてみた。
「君はどう思う?」と中山が聞いて返した。
「おれは、まさかと思うんだけど……」
「ふむ、結構だ。君はまだ正気を失っていないよ。あんな流言を本気でうけとるなんて、みんな正気を失ってるんだ。それにしても、どこのどいつなんだ、こんな流言をとばすやつは?」(220頁)
…(中略)…

晩の八時ごろ、彼らはようやく亀戸までたどりついた。この辺は労働者と朝鮮人の多い貧民街だが、さいわい焼け残っていた。……やみの中に銃剣を立てて見張りの兵士がいかめしく突っ立っている。在郷軍人が弓張り提灯をもってどなり歩き、職人や小僧どもが棍棒や、棒切れや、抜き身の刀をもって路次をかけ歩いている。必死で朝鮮人を狩り立てているのだ。(221頁)

二、三人の若者が、何やら大声でわめきながら、棍棒をふってあとをつけてきた。まるで血に飢えた送り狼そっくりであった。(222頁)
急に前のい路次が騒がしくなった。バタバタと駆けてゆく数人の足音、殺気だった呼び声と叫び……
「たしかにこの路次だっだんだ」
「畜生、逃がすもんか」
「そこいらに隠れているかも知れないぞ。一軒一軒のぞいて見ろ」
「隠まうやつはいっしょにやってしまえ」(226頁)
…(中略)…

「もっとも、警察なんて当てにならんから、政府も戒厳令をしいて軍隊を出動させたんだろうさ。でも、何がカイゲンレイさ、その軍隊を先に立って、罪もない朝鮮人を、年寄りや女まで虐殺してるんじゃねえか。ふん、これが秩序の維持だってよう」(227頁)
……
「北村君、朝鮮人は本当に放火したり、爆弾を投げたりしているんじゃないだろうか」
「えっ、君は何だってそんなことを言うんだ?そんな現場を見たとでもいうのか」
北上はちょっと凄味のある、恐ろしい顔つきを直木の方へふりむけて、詰問するような激しい語調できき返した。
「いや、むしろぼくはそんなとこ見ないさ。だけど、朝鮮人の立場になってみりゃ、国をうばわれて、かねて日本には深い恨みをいただいてるんだから、それくらいの事してもふしぎじゃないと思えるんでね……」
「とんでもない!」(228頁)

北上は激しい勢いでどならんばかりのけんまくで言った。「おい、直木君よ、君まで血迷っちゃいけないよ。在日朝鮮人の諸君も、日本人と同様、こんどの天災でひどい眼に会ってるんだ。彼らもわれわれと同様に家を焼かれ、猛火に追われて、命からがら逃げ回っているんだ。そういう彼らを、日本の軍隊民衆は片っぱしから捕えて、殺そうとしてるんだ。だから、おれたちは何とかして朝鮮人を守ってやらなくてちゃならない。日本の労働者の利益を守るばかりが労働運動者の能じゃないんだ。
「そのとおりだ」中山は急に真顔になり、ほとんど厳然として言った。「とくに朝鮮人労働者はもっともわれわれに近い兄弟だ。兄弟がわれわれのまわりでむざむざ殺されていくのを、黙視するわけにはいかないぞ。そんな事をしたら、日本の労働者の永久の恥だ。今後、世界の労働者に顔を合わせられないことになるじゃないか」(228‐229頁)
…(中略)…

今やさし当たって、いきなり法律の保護の外に放り出された気の毒な朝鮮人たちを、少しでも、どうして守ってやれるか、にかかっていた。彼はさっきもその問題で、近所の自警団と正面から衝突して、さんざん打たれ、けられたうえで警察へつき出された始末だった。みんながすっかり毒のある流言に迷わされ、恐怖と憎悪に正気を失っているような群衆を相手にして、この際社会主義者はどんな風に行動したらいいか!(229頁)
…(中略)…
「ようし、この際われわれはこぞって、自警団といっしょに夜警に参加しようじゃないか。みたところ、いまの鮮人狩りは、在郷軍人会と自警団が主になってやっているようだ。……いわば彼らの気違いじみた暴行をいろいろなやり方で阻止して、朝鮮人たちを精いっぱい守ってやるためだ。(229頁)

「兄さん、朝鮮人を助けようとして半殺しにされたひともあるってから、ようく気をつけてね」(232頁)
…(中略)…
「このとき路次内がまたもや急にそうぞうしくなった」(232頁)
…(中略)…

いっせいに大声でどなりだした。
「社会主義者は国賊だ!」
「社会主義者をやってしまえ!」
「やつら鮮人どもをけしかけて、暴動を起こそうとしてるぞ」(233頁)

「ふむ」と川田はうなるように言った。「きのうからの流言といい、鮮人狩りといい、こりゃ明らかに政府の計画的な陰謀だね。政府は数年前に朝鮮でおこった万歳事件の恐怖を忘れちゃいないし、いま震災のどさくさの中で彼らに何かやられちゃ大変だというので、おびえきってるに違いない。だから、それを予防すると同時に、天災で度を失った民衆の憤激を鮮人狩りの方へそらせてしまうこともできようって訳で、一石二鳥をねらってるんだ」(237頁)
…(中略)…

「しとしと降り出した雨の中に震災三日目の夜がおとずれた。(238頁)
…(中略)…
「大都会の火葬は終わりつつあった。そのかわり新たな血の洗礼が始まろうとしていた。先の白っぽく光る銃剣をかまえた兵士たちは、戒厳令下の焼け残った町々の要所要所を固めて、暗がりの中に黒い彫像のようにすっくと突っ立っていた。町の入り口や交差点は、自警団によって幾重にも縄ばりをされ、通行人の一人一人がきびしく点検され、とくに日本人かどうかを確かめられた。同時に夜警と称して、竹刀や棍棒や、竹槍を手にした男どもが五、六人ずつ群れをなして、口々にわめき立てながら、通りから路次裏までたえまなく巡回していた。この地区から潜入したと予想される「怪しいもの」を狩りだすのが目的で、じっさいに猛烈な疑心のためにいたるところで怪しい物の姿を見つけて大騒ぎを演じていたが、これこそまさに百鬼夜行という言葉のそっくりあてはまるような、物騒な、奇怪な光景であった。(239頁)

「やっぱし、恐ろしい流言のためにみんなの頭が転倒して、正気を失って、みんなの人相までが一変してしまったのね。それを思うと、わたし何だか急に恐ろしくなってしまったわ」(240頁)
…(中略)…

巡査部長の制服を着た年輩の警官が先に立ち、二人の刑事と巡査どもが被逮捕者の群れを厳重にとりまいて、しょぼしょぼ小雨のふる中をもくもくと歩き出した。自警団と野次馬の群れが、半ば一行をとり囲むようにしてぞろぞろついて歩いた。竹刀や棍棒をふり回すもの、竹槍をかつぐもの、肩章なしの軍服を着たもの、はんてんを着てねじ鉢巻をした若者なぞ、彼らはこの国賊どもを警官隊から自分たちの手に奪いとって、私刑を加えようと良いチャンスをねらっているかのようであった。
「赤の奴らだ!」
「鮮人のグルだ、国賊どもだ!」
「この場でやってしまえ!」
じっさい殺気だった彼らは、労働者たちを悪罵するだけでがまんしていなかった。竹刀で頭や肩をしたたかなぐられたものもいたし、福田なぞも包帯をとったばかりの後頭部を、また傷がひらいてひどく痛みだしたほど、棍棒でやられた。中にはかなり大きな石を、頭をめがけて投げつける奴もいた。しかし巡査らは、ある意味で彼らを恐れていたので、少しも制止しようとしなかった。今や川田らにとっては、一歩一歩ゴルゴダへの道―受難の道だった。警察署へつくまで、はたしてみんな無事でいられるかどうか、それさえ心もとなく感じられた。やがて亀戸警察署の建物が雨とやみをとおして見えてきた時、川田らは、これでどうやら最悪の危険からのがれることができたと思って、ちょうど安堵の息をしたものだった。(242‐243頁)
……
「習志野騎兵第十三連隊の戒厳司令部がここにおかれていたのだ。まさかこれが、朝鮮人と社会主義者の大量虐殺の指導部であり、下手人どもの巣であろうとは、この時にはまだだれも予想しなかった。(243頁)

「ただ、残念なのは、この目で革命が勝利するのを見ないで死んでゆくことだ。しかし同士諸君、革命は近いぞ。それはもういたるところではじまってるんだ。諸君はおれたちの屍を乗りこえて、勝利に向かって突き進んでくれ!」
バン、バァン、バン、バン、バァン
……
「朝鮮人が何で放火なぞするものか。彼らが一人残らず、絶対に罪のないことをおれは確信している。罪のあるのは、流言をとばせて彼らをひっ捕えたものなんだ。おれたち社会主義者も絶対に罪がない。やはり罪のあるのは、デマを放って、おれたちをひっ捕えたものだ。そいつらこそ厳重に処罰するがいい」(246‐247頁)

「ブールジョアはすっかり血迷っている、正気を失っている」北上が大きな声で叫ぶように言った。「だが、あいつらは階級本能で、いざという時の一番恐ろしい敵は日本の労働者と、朝鮮人だということをよく知ってるんだ。だからこそ、労働運動者と朝鮮人が共謀して暴動をたくらんでるなぞと流言を飛ばしてるのだ。そうだ、今はあくまでデマだ。だが、やがてこいつが事実になる時がくるだろう」(247頁)
…(中略)…

「ここには日本人労働者と、朝鮮人がこんなにたくさんいっしょくたに放りこまれている。敵はわれわれをすっかり一味と見ているんだ。じっさい敵にはそう考えて警戒する理由があるんだ。ところが、おれたちは朝鮮人の諸君と共同して、自分たちを守るたたかいを何もやらなかった。何もやらないままに、おれたちはいま、朝鮮の諸君といっしょに捕えられて、いっしょに殺されようとしているんだ。いわば、おれたちは敵に先周りされたんだ。朝鮮の兄弟や同志につたえてくれ」(247頁)

向いの房の中から、ふいに中山が赤旗の歌をうたい出した。

…(中略)…

「あとから分かったことであるが、軍隊は朝鮮人を殺す場合とちがって、社会主義者たちには銃砲でなく、銃剣を用いた、銃剣で彼らを縦横に刺殺したのだ。つまり、やりそこないの起こらないような、適確な虐殺手段をえらんだわけであった」(251頁)

「中庭の方で再び銃声がひびき出した、
 朝鮮人が三人また五人ずつ房から出されて、つぎつぎと暗い外へ連れて行かれた。中には明らかに中国人もまじっていた。大部分は労働者だったが、中には六十あまりと思われる老人もあり、若い娘もあった。むろん名前をよばれるでもなく、(彼らは名前や住所さえも調べられなかったのだ)戸口から巡査か刑事がはいって来て、一番手近なやつから、髪をひっぱったり、腕をつかんだりして引きずり出すのであった。すてられた小猫か小犬をつまみ出すと同じやり方だった。彼らの多くは、すでに観念しきったように、おとなしく、すごすごと死の庭へ引き立てられて行った。(253頁)
…(中略)…

今後は、赤い不良どもとつきあいしてならぬということ、あれの計らいで命を助けてやったのだから、すでに一度死んだものと思って、これからは一愛国家のために奉公するつもりで働かねばならぬということ、留置書で見聞したことを、世間の人たちに絶対に口外してはならない、(261頁)
…(中略)…
「福田さん、ふしぎなめぐり合わせで、あんたは兄たちが殺されるのを、最後に見とどけてくれた人なのよ。ただひとりの、大切な証人なのよ。だから、あなたにはこれからも、この事件の生きた証人になっていただきたいわ」
「ええ、なりますとも、自分の命にかけても……」(265頁)

亀戸警察署が軍隊と共謀して銃殺し、また刺殺した幾百という大量の死骸をここに運んできて、それらに石油をぶっかけて、片っぱしから焼きすてにかかっているのであった。この下手人どもは、死骸を焼きすててさえしまえば、自分らのやった悪業はそれっきり永久に消えうせてしまうとでも考えているらしかった。今や朝鮮人虐殺の問題では、国際世論がやかましくなりかけていたし、在東京の外国外交官たちも政府に干渉的圧力をかけだしていた。だから、日本政府も、警視庁も、少しも早くけがれた手から血を洗いおとして、涼しい顔をしていなければならなかったのだ……」(266頁)

福田は今さらのように、一日の正午以来のでき事を何かと思いだした。あの恐ろしい地震と大火だけでも、日本の生涯に二度とは見られないほどの大変な、深刻な大事件だった。さらにあのざんこくな鮮人狩りはそれにまさるとも劣らぬ重大な歴史的事件だった。しかも、たった十六歳の彼は、まったくの偶然ではあったが、何も罪のない、善良な労働運動者たちがいっせいに殺されたと同じ場に立ち合わされたのだ。いわば彼は現世の地獄めぐりをさせられたも同じだった。(1930年)

*江馬修(えま しゅう、または えま なかし):1889~1975、小説家、高山市空町生まれ。斐太中学を中退し上京。神田区役所に勤める傍ら田山花袋の門に入り、自然主義文学に取り組んだ。1911年に処女作の短編「酒」で文壇デビュー。1916年ヒューマニズムを基調とした長編『受難者』がベストセラー。関東大震災を体験して社会主義に関心を持ち、マルクス主義に入っていく。1926年以後ヨーロッパに渡り、帰国後日本プロレタリア作家同盟参加、中央委員を務め、全日本無産者芸術連盟機関誌『戦旗』編集委員となった。のちに、思想弾圧が強まったため飛騨へ帰り、雑誌『ひだびと』の編集に携わる傍ら、代表作となる長編『山の民』を執筆し、中華人民共和国で最も有名な日本の作家だった。

*写真:『血の九月』(在日朝鮮民主青年同盟岐阜県飛騨支部、1947年)
http://blogs.yahoo.co.jp/uil21/38221181.html 
http://hidasaihakken.hida-ch.com/c36528_4.html より転載。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=489409327883090&set=pcb.489409407883082&type=1&theater

望月 克仁さん、藤木 冨士子さん、糸原 由美子さん、他22人が「いいね!」と言っています。

小美濃 長堅 読ませていただきました。在特会がうろついてるような状況だったのですね。
7月7日 15:59 · いいね! · 1

Kinue Itou 私は加藤直樹氏の「九月、東京の路上で」を読み著者の話も伺いましたが、彼は昨今のヘイトスピーチと重ねて語っておられました。単に過去の出来事と言うだけでなく、今に通じる問題として考える必要があると思います。
7月7日 16:35 · いいね!を取り消す · 4

松沢 直樹 シェアさせていただきます。
7月7日 17:03 · いいね!

田中 弥詠子 息をよむ勢いで文章に釘づけとなり拝読させて頂きました。私の知る限りにおきましては、私の故郷飯塚は江戸時代頃は長崎街道の宿場町として栄えたそうです。御文を拝読しておりますと、朝鮮人強制労働という言葉と赤旗という言葉の二語が特に印象深く残っております。私の育った筑豊地方では昭和になっても朝鮮人は白眼視されておりました。石炭が一番動力源だった頃、筑豊5代炭鉱王が生まれ、身近に私が子供の時代ですら、朝鮮人は差別されてた事実を私は存じております。彼等は名字で判りました。小中学校でも子供達は残酷にも言われのない虐めの対象ではなかったのではなかろうか・・・と。高校は朝鮮人高校が在りました。しまチョゴリを着用し彼等は、その高校に通っておりました。すこ
7月7日 18:22 · いいね! · 2

松井 理直 「血の九月」の全文はぜひこちらで。

http://housenka1923.web.fc2.com/chinokugatu.pdf

同じ題材の「羊の怒る時」もぜひ「ゆらぐ大地」もぜひ。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877140344

田中 弥詠子 続、し安堵した表情でした。複雑な心境だったのを今も思い出します。赤旗の言葉は確か、共産党の機関新聞の名前に使われています。おそらく現在も。私の意見は、御文章の論点から多いにそれているのは先刻、承知致しておりますが。何故か告げたかったのでイキオイでパソコンを打っております。今の風潮が戦前の様だと危惧される中、私達が先人から学ぶべき事とまなにか・・そして70年続いた平和を守る使命とはなにか・・・私は岸壁の母の歌を聞くと胸の奥がふるえ涙がとめどもなく湧いてきます。不気味な気運
私は、ある青年に 貴方は、きけ わだつみのこえ を読んだ事がありますか。と尋ねました。


文屋 善明
7月7日 17:31 ·
「明治日本の産業革命遺産」がいろいろな思惑の結果、ともかく「世界遺産」に登録されたことは、良かったと思います。何度か軍艦島の見えるところに出かけ、一度は実際に上陸したものとしては、この島が「世界遺産」にふさわしいか、あるいはそれが「観光地」として果たしてどれだけ人々の目を惹くかは疑問ですが、ともかくこれが表舞台に出されたことは、あの地で行われたことが闇から闇へ葬られてしまうよりは良かったと思います。あの地での強制労働、とくに朝鮮人に対する強制連行と強制労働との実際については言語に絶することだと思います。これはもう「歴史的描写」では伝えられないでしょう。それを少しでも理解させるものは「文学」だと思います。まだ、途中までしか読んでいませんが、韓水山氏の『軍艦島』(上下、作品社)は、そのためにはぜひ読んでいただきたいと思います。「強制」とはどういうことなのかがわかります。
文屋 善明さんの写真

小貫 ツマさん、山上 博信さん、徳善 義和さん、他46人が「いいね!」と言っています。

田中 弥詠子 深いですね・・・だが・・ですね。

山本 友美 ご紹介ありがとうこざいます。この作家の方とも西南大学の講演会のあとお話しをしました。私ももう一度読み直してみます。

金 貞子 · 共通の友達: 呉 光現さん、他6人
田中弥詠子さんに全く同感です。スッキリしないんです。韓さんは出版講演会で以前、在日の記録は自分が書くべきではないとおもう。ともおっしゃってました。私はその言葉に強制連行で働いた父の人生

金 貞子 · 共通の友達: 呉 光現さん、他6人
を、重ね合わせ深い溜息を吐いたことがあります…

植村 光郎 文化遺産に、関った技術者や成功談ばかりでなく、現場では強制労働にあえいだ韓国人労働者、懲役刑の労働者の事実を伝えて歴史となります。文化とは、改めて考えます。奈良の大仏が建立されたとき、沢山の水銀中毒患者が出たことなど。文化の表ばかりでなく因果関係をしっかり記録し、表面の遺産ばかりでなく負の遺産も伝えなければと考えます。

文屋 善明 軍艦島が文化遺産になった上では、ただ単に言葉で朝鮮人に対する強制労働があったというだけではなく、その時の日本人労働者と朝鮮人労働者との衣食住等の労働条件の「格差」、死亡率、脱走率等々を例示すべきです。せっかく、そこに現場があるのですから。三池炭鉱その他の現場ではそれらがすべてかき消されてしまっています。その意味では軍艦島は貴重な歴史遺産です。


文屋 善明
7月7日 19:54 · 編集済み ·
ビッグニュースです。生まれて初めて、lineでドイツ在住の孫娘と話をしました。文字での通信はしたことがありますが、肉声で話が出来ました。こっちの方は家内と私と交換で対応しました。結局、20分程、これで無料、感動です。

金井 由嗣さん、佐々木 弘幸さん、西川 芳昭さん、他78人が「いいね!」と言っています。

大脇 友弘
7月7日 20:49 · いいね!

大脇 友弘
7月7日 20:50 · いいね!

Akira Ueda 一番音質が良いのはskyphoneといわれています。いろいろ実験してます。

播 稔 便利な世の中になったものです。

新島広治 あるある嬉々感動
先生 Skypeもありますよ
お試しください。・・・もっと見る
新島広治さんの写真

Tomomi Spennemann-Oshima 家もSkpで孫たちの顔を見ながら、おしゃべりをしていますよ。

水草 修治 ぼくも三十数年ぶりの出会いをskypeでカナダの友人と始めました。無料です。映像と声と両方です。びっくりですよね。

小栗 龍男 LINEは外国とも 無料とは知りませんでした、驚きました。

文屋 善明 lineで普通にメールを送るつもりが、何かの間違いで音声メールをかけてしまったようで、驚きました。全く偶然の出来事でした。

村田 多鶴子 嬉しい出来事でしたね!!

糸原 由美子 2年前にスマホにしたのですが、初めてのことなので簡単スマホにしたら、なんとラインのできないものであることがわかりました。そのころはあまりライン自体始まったころだったかと思います。まわりの人たちがライン始めて、リクエストされて判明しました。8月に支払いが終わるので機種変しようと思っています。

Tomomi Spennemann-Oshima 私も一年前にスマホを購入したのですが、植物名とか鳥の名前に興味があったので、人間との交流には使用できていません。少しもスマートでありませんね。

石田 聖実 lineは文字しか使ったことがないのですが、この手のアプリでテレビ電話もできるんじゃないかしら。

文屋 善明 どういうルートを使うにせよ、電話というものはお互いに相手の顔や背景が見えないところがいいのじゃないでしょうか。孫娘はちょうど昼食の最中だったようです。

石田 聖実 そういう面もありますね。

文屋 善明 電話というコミュニケイションは相手の状況を一切配慮せず(原則的には)突然訪れるという性格を持っているので、原則的には「見えない」ということが最低のエチケットであろうと思います。もし、テレビ電話のような機能を持ちたいならスカイプを利用すべきでしょう。

糸原 由美子 いろんな意味でスカイプは身内ならいいですが、すっぴんでリラックスして電話できなくなりますね。

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