ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 03/24~03/30

2013-04-01 08:29:07 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 03/24~03/30

日々の聖句2013 03月24日(日)
どのような財宝よりもあなたの定めに従う道を喜びとしますように。(詩119:14)
平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように。(ヘブ13:20,21)
私の黙想:
私の中では「財宝」と「あなたの定め」とを並べて対比する心情はないし、今までにそういう種類のディレンマに悩んだ経験はない。これらはまったく次元が違うものである。「金か、神か」「神か、人間か」という選択に迫られたこともない。私はよほどおめでたいのか、鈍感なのか。
私自身の経験では、財宝とは言えないが、生きるために必要なものはすべて、その時に神から与えられるものだということである。この点については一度も外れたことはない。少し格好いいことを言うならば、それが私の両親が残してくれたほとんど唯一の遺産である。まぁ、罰当たりなことを言えば、神の「定め」を狂わせるような「財宝」を得るチャンスに恵まれなかったということであろうか。

門叶国泰 「よりも」という前置詞は使われていません。原文は「のように」ですから、比較ではなく、大切さを分かり易い例で強調した、のでは。

門叶 国泰
日々の聖句(今日のローズンゲン 2013-03-24)
今日のローズンゲンは、詩編119:14です。新共同訳「どのような財宝よりも、あなたの定めに従う道を喜びとしますように。」
原語について:
(1)「どのような」と訳されている箇所のマソラ原文は「カル=all」 
(2)「(財宝)よりも」のマソラ原文は「ケ=as,like」
(3)「(あなたの)定め」のマソラ原文は「エヅース=testomony:testimony of Godであるからthe code of law. 複数形は、content of covenantを意味する。(BDB)」
(4)「喜びとしますよう」と訳されている動詞の時制は「1人称・単数・完了形」であり、願望の意味は含まれていない。フランシスコ会訳がマソラ原文を忠実に訳している。「わたしはあたなの諭しの道を あらゆる宝のように喜びます。」 
独りごと:だからどうした、という程のことではないが! マソラを読んでから新共同訳に目を通すと、ヘブル語を読み間違えたのではないか、と一瞬思う。マソラには「比較級」の前置詞は使われていない。また、動詞の態もごく普通の完了形であり願望(コホータティヴ)ではない。

文屋 善明 門叶さんの語句解釈によって、私の黙想は外れていなかったとホッとします。もし今朝フランシスコ会訳を読んでいたら、新共同訳に逆らうような黙想は出来なかったかも知れません。感謝。今日は棕櫚の主日、皆さま方の上に主の祝福が豊かにありますように。

門叶 国泰 見事な黙想ですね!流石! 私には「ここ」が足りません。語句分析の前に文屋先生の問題意識を持てたら、と!年季の違いを感じます。

門叶 国泰 続:「すべての」の意味も生きてきますね。決して「どのような」ではない!

日々の聖句2013 03月25日(月)
測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。(詩16:6)
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。(コロ3:23-24)
私の黙想:
美味しそうなケーキを前にして、それをナイフで切り分けようとしている母親の手、その手の動きを固唾を飲んで見つめている子どもたち。そのような情景が目に浮かぶ。あの赤い苺はどっちに行くのか。私の分に入るのか、お兄ちゃんの物になるのか。心配で心配で目が離せない。これは子どもとケーキの話し。
これが(部族間の)領土問題になると血が流れる。あの島は私のものか、相手のものか。地下に埋蔵されている豊富な資源はどちらに属すのか。詩人はヤハウェが 「わたしの分け前」だから、それで満足だと歌う。
焦点を少しずらして、職業の選択という問題になると、公務員、ビジネスマン、医師、教師、司祭、正確には受動態で、わたしに与えられた職業(ベルーフ)は何か。今から思えば、神は私に最善の役割を与えてくださった。

日々の聖句2013 03月26日(火)
神の御名をたたえよ、世々とこしえに。知恵と力は神のもの。(ダニ2:20)
この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。(1コリ1:20)
私の黙想:
政治情勢を読み解く知恵。政治情勢というものは昔も今も、多面的であり、いろいろな解釈が可能である。それを分析する能力は情報量による。情報量は多ければ多いほどいいが、同時に多ければ多いほど解釈は複雑化し、多様化し、多くの「意見」が出てくる。それらの「意見」にはそれぞれ何らかの思惑(利害関係)が背景にある。それらの多様な「意見」の中から一つの結論を選択するのが「知恵」である。この知恵はどこから出てくるのか。結論、無欲になり、虚心坦懐に現実を見ること、これ以外にない。知恵は神のものである。

日々の聖句2013 03月27日(水)
神々の神、主は、御言葉を発し日の出るところから日の入るところまで、地を呼び集められる。(詩50:1)
あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。(ヘブ12:25)
私の黙想:
神が語りかけるとき、もちろんそれは全宇宙に響きわたり、それを受け止めるのが、旧約聖書的表現では「日の出るところから日の入るところまで」である。これを現代風にいうと「グローバル(地球)」である。本当のグローバリズムとはな神が発せられる言葉を全人類が聞くという意味である。絶対的な価値を持っているのは「神の言葉」であって「グローバルな価値」ではない。
その言葉がいつの間にか「普遍性(カトリケー、ユニバーサル)」という言葉に置き換えられて、絶対的権威があるかのように振る舞っている。そしてアメリカの価値観が、いやアメリカの多国籍企業の 価値観が世界を支配するようになっている。この言葉は「国境なき医師団」等が「グローバルな医師集団」というような意味で使うのが正当である。私がまだ30代の頃、経済学の講義などで「資本は国境を越える」なんていう言葉が流行ったことを思い出す。その意味では「グローバリズム」という言葉は18世紀のヨーロッパにおける「海外進出」、「植民地主義」に通じる言葉である。

日々の聖句2013 03月28日(木)
わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ、わたしの腕は諸国の民を裁く。(イザ51:5)
イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(ルカ22:15)
私の黙想:
「わたしの正義」、神の正義。人間は人間の中に正義はないことを知っている。人間の正義はカインにおいて暴露されてしまった。カインの正義はアベルを殺す。だから人間は神の正義を追い求める。正義を求めることと神を求めることとは同一である(1節)。フランシスコ会訳ではイザヤ51:1-8に「正義」という言葉が5回(1,5,6,7,8)も使われている。新改訳ではそれらはすべて「義」と訳されている。つまり1節から8節は「神の正義」を求めるということを主題した詩である。イエスは山上の垂訓で「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」、「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と説教し、「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と語られた。イザヤ51:1-8とイエスの山上の垂訓とは響き合っている。

日々の聖句2013 03月29日(金)
心よ、主はお前に言われる、「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。(詩27:8)
イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。(ヨハ19:5)
私の黙想:
先ず「心よ」という呼びかけの言葉に驚く。今更、恥ずかしいことだが、こういう表現が聖書にあったのかと驚く。というわけで、手元にある日本語聖書を調べてみると、今までそういう表現はない。文語訳も口語訳もフランシスコ会訳も、新改訳もそれぞれいろいろに工夫を凝らしている。岩波訳ではご丁寧に「以下二行は意味不明」と注釈している。いろいろな訳を対比して思うことは、後は好き嫌いの問題であろう。あるいは、どの訳が私の「心」にピンと来るか。私は文語訳が好きだし、最もピンと来る。<「汝らわが面を尋ね求めよ」と(かかる御言葉のありしとき)、わが心なんじに向かいて、「主よ、われ汝の御顔を尋ねん」と言えり。>(多少変形しています)。今日は受苦日、御受難修道会の十字架の道行きを歩く予定。

日々の聖句2013 03月30日(土)
わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザ57:15)
神はイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせてくださいました。(使10:36)
私の黙想:
「高い場所に存在する神」と「へりくだる人間と共に存在する神」。 神の居場所。「天に居ます」と「内在(信仰者の心の中)する」。イザヤにおける内在の神の発見。現在、復活したイエスは「神の右に座す」と共に、「私たちの中に住む」。人間の思考を超えている神。シュライエルマッハーからバルトへ。

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