ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

「原子爆弾」という単語について

2010-08-18 17:39:26 | 小論
先日(8月14日)、このブログで「教えてください」というタイトルで、恩師、松村克己の1945年8月15日の日記に玉音放送のことと同時に「原子爆弾」という言葉が用いられている点で、疑問を投げかけました。同時にツイッターでも、その意味のことを囀りましたところ、ご意見をいただきました。

先日、朝日新聞の関東地方版では、1945年8月7日に、トルーマン大統領のアトミック・ボム宣言を傍受した政府機関がそれを翻訳する際に「原子爆弾」という言葉を使ったという記事があったそうです。その記事によると、それが初めて「原子爆弾」という単語が使われたという印象を持ちます。
また、原爆投下の当日、政府は直ちに理化学研究所の仁科博士と連絡をとり、仁科博士は直ちに「原子爆弾」と断定したとのことです。アメリカは占領後、直ちに理化学研究所に行き、仁科グループの素粒子加速器を押収、東京湾に投棄した。講和後、東京湾より引き上げ、東京国立博物館に保管されているとのことです。
翌8月7日情報局部長会議が開催され、「原子爆弾なる言葉は放送にも新聞にも使用しない」ことを決定し、陸海軍並びに関係各方面による「原子爆弾委員会」が設置され、これを表面上「原委員会」と称したとのことです。さらに8月8日「原子爆弾に関する敵側発表並びにこれに関する事項」を上奏したという記録が外務省編終戦史録にあるとのことです。つまり、政府上層部および陸海軍では「原子爆弾」という言葉は既に使われていたが、これに関してかなり厳しく情報管理がなされたと思われます。
当時、京都大学哲学科の「京都学派グループ」は海軍情報部かなり密接な関係にあり、そのルートで松村も「原子爆弾」という言葉と、その威力を熟知していたものと推測されます。しかし、松村自身は「箝口令」に律儀に従い、個人的な日記にさえ、8月6日以後8月15日まで「原子爆弾」のことをいっさい書かずにいたものと思われます。ということは、この日記も万が一押収され、検査を受ける可能性があることを念頭に置いていたのかも知れません。
8月15日の玉音放送では「新に残虐なる爆彈を使用」と表現されていますが、実はその日の午前中にラジオにより仁科博士による「原子爆弾」についての解説が放送されているようです。従って、松村も8月15日に「原子爆弾」という単語を用いたのだと思われます。
この言葉が公式に用いられたのは、おそらく第88帝国議会・臨時会(9月4,5日)が最初であろうと思われます。「帝国議会に対する終戦経緯報告書第1-2」に「・・・8月6日広島市に対し米国軍の原子爆弾に依る空襲の実施・・・(8月9日長崎市に対しても原子爆弾による攻撃・・・)・・・」という表現がみられるとのことです。

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