ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 8/8

2010-08-15 05:32:44 | ローズンゲン
8月8日(日)
わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。」(詩編39:2)
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。(ヤコブ3:10)
私の黙想
「わたしの道」と「わたしの舌」との関係が面白い。私が私に言い訳をしている。罪を犯しているのは私ではありません。あなたが作って私にくださった「私の舌」が悪いのです。でも、私の舌を取り除かないでください。そうすると、私はあなたを賛美することができなくなります。

8月9日(月)
主よ、諸国の民を裁いてください。(詩編7:9)
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。(エフェソ5:15-16)
私の黙想
今日の聖句、これだけを取り出して読むと、誤解する。この言葉は、自分自身の「身の潔白」を神に証明してい欲しいという祈りである。神だけがこれをできることがある。ただし、神を信じていないものに対しては、神の証明も通じない。神のみが最後の頼り。

8月10日(火)
あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福された。(申命記2:7)
シモンは言った。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。(ルカ5:5)
私の黙想
主が私に語り、私があなたにそれを語る、という文章の構造はややこしい。「あなたの神」は「私の神」であり、「私の主」は「あなたたちの主」である。説教者と会衆との構造と同じである。1人称、2人称、3人称がはっきりしない日本語ではややこしくなる。
「あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった」という言葉は、神が語った言葉と言うより、モーセが民に語り、同時に主に語った言葉であろう。私も74年を振り返って、同じ言葉を語る。

8月11日(水)
主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。(出エジプト15:2)
わたしは弱いときにこそ強いからです。(2コリント12:10)
私の黙想
旧約聖書の宗教において潜在的に存在している「神の働き」を「逆説的論理」として引き出し、それを徹底したのがイエス、そのイエスの逆説的生をパウロは継承している。「わたしは弱いときに強い」。以後、逆説(パラドックス)がキリスト教神学のキイワードとなった。

8月12日(木)
神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく、慈しみを拒まれませんでした。(詩編66:20)
願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)
私の黙想
よく考えてみると、いい歳をした大人が教会で大きな声を出して歌っている姿は、不思議である。少なくとも日本の伝統にはない。歌を歌って様になるのは子ども。礼拝で大きな声を出して讃美歌を歌うのは幼子のような謙遜さがなければできない。

8月13日(金)
誰が初めのささやかな日をさげすむのか。終わりを見て、喜び祝うべきである。(ゼカリア4:10)
わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。(ヘブル6:11)
私の黙想
今日のゼカリアの預言は、かなり「意訳?」されている。でも、この方が非常に分かりやすい。今、私たちが見ているのは「小さな新芽」にすぎないが、終わりの日には大木になる。信仰者は、「今」ではなく「終わりの日」を先取りして喜べ。爺が孫を見る目のようなもの。
「ゼルバベルの手にある選び抜かれた石」を「終わり」と意訳する解釈は凄い。この文章を見て誰が「選び抜かれた石」を「垂直を計る建築用の計測器」を思い浮かべることができるのか。口語訳の「下げ振り」の方がまだまし。要するに「設計図を見て」完成した姿を想像せよ。

8月14日(土)
主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記31:8)
二人の弟子が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。(ルカ24:29)
私の黙想
若いヨシュアを励ますモーセの引き継ぎの言葉。表舞台を引退する者は、こうあるべき。自分自身が在任中に経験した「神との関係」を後継者に託す。

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