ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/03/05~03/11

2017-03-12 06:35:56 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/03/05~03/11

2017 日々の聖句 3月5日(日)
見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は(海から海へと巡り北から東へとよろめき歩いて)主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない。(アモス8:11~12)

シモン・ペトロの言葉:主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。(ヨハネ6:68~69)

私の黙想:
預言者アモスの有名な言葉だ。アモスは記述預言者の中でもっとも古い人だ。彼は元々預言者ではなかった。そして、この言葉だ。当時のイスラエル宗教は祭儀化が進行し、堕落し、恐らく預言者たちもほとんど有名無実になっていたのではないだろうか。その中で、アモスは神の言葉の飢饉を語る。預言者が無力となり、祭司たちが極度に形骸化するとき、神は一介の羊飼いを預言者として立てる。それがアモスだ。
今の教会は、どうなっている。預言者が居るか。神の言葉が聞こえるか。聖書の言葉は研究されるが、生きた言葉として語られない。人々の飢えに応えていない。

2017 日々の聖句 3月6日(月)
あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行きお泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。(ルツ1:16)

あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です。(エフェソ2:19)

私の黙想:
あまりにも有名な言葉なので今朝は一寸違う視点から。高齢の女性を見捨てないという「福祉」、「民族問題」、「宗教問題」が一つのセリフに絡み合っている。とくに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」という言葉はポイントだ。ルツ記のこの部分は先ず義母ナオミが兄嫁のオルパに「自分の民、自分の神」の元に帰っていくのを見送りながら、ルツにあなたも同じようにしなさい、という言葉に応えたのが今日の聖句である。民族、あるいは家族を変更するということは「私の神」も変更することを意味する。宗教は民族あるいは家族と一体化している。この感覚は、実は日本の伝統でもある。キリスト教がその伝統を破ってしまったのが近代のキリスト教、特にプロテスタントの影響による。それは宗教を「個人」に還元してしまった。個人を基盤とする宗教の弱さがここにある。もはや「キリスト教国」は成立しない。もし、そんな国家があればそれは疑似宗教か、あるい疑似国家である。

2017 日々の聖句 3月7日(火)
わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。(詩147:1)

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソ5:19)

私の黙想:
教会の礼拝で聖歌を歌うことが苦痛になってきた。その理由はいろいろある。先ず第1、長い教会生活にもかかわらず、知らない歌、歌いにくい歌が多すぎる。4つの聖歌のうち、歌い慣れているのが2つあれば喜ばなければならない。第2、聖歌集が重すぎる。立って、両手で掲げて歌うことなど無理である。第3、長すぎる。せいぜい2節程度でいいのではないか。これらの理由は、私が歳を取っているからだと思うが、現在の教会の高齢化を思うと、むしろ平均的なのではないだろうか。歌っていて、わくわくするような聖歌が少ないように思う。むしろ、礼拝で歌う聖歌とは歌い慣れているもの、音程の幅が狭いこと、聖歌集が軽いこと。と言うことで、それぞれの教会で、生前100曲程度の「特集」を作ることを提案したい。
参照;「聖歌考:聖歌は楽譜を見ないで歌うもの」
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/b8edfea7767096eb80382bbc5339b07b

2017 日々の聖句 3月8日(水)
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう、「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。(詩42:12)

あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。(ヨハネ16:20)

私の黙想:
今日の聖句は一つの塊として、詩42:6、42:12、43:5に繰りかえされている。その意味では注目すべきフレーズである。ある意味で旧約聖書の信仰の「クライマックスの一つ」と言ってもいいかもしれない。従って、じっくり味わう必要があるが、今朝は一点だけに絞って黙想する。
「なぜ呻くのか」、「うめく」とは生々しい表現である。新共同訳ではいろいろなところで用いられているが(旧約聖書だけで約10回)、口語訳では一度も現れていなかった。口語訳では「何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか」と訳している。「思い乱れる」と「うめく」。なるほど、そういうことだろう。フランシスコ会訳は面白い。「ため息をつく」。もっとも、この言葉はその前の「うなだれる」との関係で選ればれるのであろう。新改訳では、前の言葉を「おまえは絶望しているのか。なぜ、思い乱れているのか」と訳されている。かなり強烈である。岩波訳では「くずおれるのか、」「うめくのか」である。それぞれ訳者が苦労しているのを感じる。要するに、これは著者も訳者も、そして読者も、共通の「悲しみ」の経験というものを土台にしている。「神を待ち望め」、いや、そんなこと言われなくても「待ち望む」しかしようがない。待ち望むとはそういうことなのだ。

2017 日々の聖句 3月9日(木)
(神の道は完全、主の仰せは火で練り清められている。)すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。(詩18:31)

主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3)

私の黙想:
まことに申し訳ないが、今日の聖句、ローズンゲンが取り上げていない前半の部分に目が行ってしまった。後半の言葉は、なるほど、大切な言葉であるが、一寸カーブして、前半の言葉を黙想する。そうすれば、当然後半の言葉にも膨らみが出てくるであろう。何故、前半の言葉に目が行ってしまったのか。それは冒頭の「神の道」という言葉による。今まで、聖書の中でこういう表現はあったのだろうか。口語訳では新約聖書に4回ほど使われているが旧約聖書にはない。新約聖書の4回のうち3回は「真理に基づいて神の道」(マタイ22:16、マルコ12:14、ルカ20:21)はいずれもイエスの敵側のセリフである。
新共同訳では旧約聖書で4回用いられているが、サムエル下 22:31は今日の聖句と全く同じ文章になっている。「神の道は完全、主の仰せは火で練り清められている」。その他はヨブ記に出てくる(26:14、36:23)、ともかく面白い表現である。
これらの用い方を見ると、聖書では「神の道」は人の道ではない。文字通り、神のなさる行為の完全性と関係づけられている。神様のなさることには間違いないでしょう、という意味で「神の道」という。それをわざわざ「神の道」と言わなくてもいいだろうと思うほどである。ちなみに、今日の聖句の口語訳では「この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です」となる。この方がすっきりする。これは日本人の、いや私の勝手な思い込みであるが、「神の道」といわれるとどうしても「人の道」と思ってしまう。つまり神が人間に示された人間の歩むべき道である。

2017 日々の聖句 3月10日(金)
神はソロモンに言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。(見よ、)わたしはあなたの言葉に従って、(今あなたに知恵に満ちた賢明な心を)与える。(列王記上3:11~12)

イエスの言葉:わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(マタイ7:24)

私の黙想:
今日の聖句は、神から何が欲しいと問われたとき、何と答えるか。その答えによって神はその人間を計る。このときの、ソロモンの答えは王として模範的で、神はその答えを喜び、その願いをかなえ、さらに願い以上のものを与えた。「わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない」。これがいわゆる「ソロモンの知恵」の源である。
さて、私は神から問われたら何と答えるだろうか。考えて見ると、普段何も考えていないことに気づく。これは良いことなのか。あるいはただ怠慢なだけなのだろうか。情けないことに何とも言えない。ということは、まともな仕事をしていない証拠ではないだろうか。この世での「定年退職」という制度が、私という人間の心の「退職」になってしまっている。これでは駄目だ、と思う。神の前での私は死ぬまで「定点退職」はない筈だ。「主よ、生きることに真剣になる心をお与えください」。

2017 日々の聖句 3月11日(土)
(彼らが攻め寄せる災いの日、)主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。(サムエル下22:10~20)

主の霊のおられるところに自由があります。(2コリント3:17)

私の黙想:
今日の聖句は、ダビデ王の非常に長い「感謝の歌」の中の一節である。ここで想定されている「攻めるもの」とはサウル王である。権力者から追われ身の危険にさらされていたものがやっと得た平和が感謝されている。だからここでの「災いの日」とはその中でも特に危機が迫った日のことを思い起こしているのであろう。3月11日を殊更に意識している私たちにとっては8節の言葉が心にとまる。「主の怒りに地は揺れ動き天の基は震え、揺らぐ」。これが具体的に何を意味しているのかは分からない。ともかく神が怒っている。もちろん、その怒りはダビデの敵に対する怒りではあろうが、その影響はダビデ自身にも及んでいる。「御怒りに煙は噴き上がり御口の火は焼き尽くし、炭火となって燃えさかる」。8節の方はどちらかというと自然災害であろうが、9節の方は人災である。そのような中でダビデ自身は何を思っていたのか。ただ「神が怒っている」と思っていたようである。それを冷静に眺めているダビデの心の支えは、「主はわたしの支え」であったという。そして、わたしは必ず「広い所に導き出し、助けてくださる」という確信であった。ここでいう「広い所」とは安全な場所を意味している。
今日の聖句、籤で選ばれたとしたら不思議な符合である。だから、ローズンゲンはやめられない。

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